あれはいつ頃のことだっただろうかとメイルゥはおのれに問う。
「きみはいつまで魔法使いを信じていた?」
その日もエドガーの質問は唐突だった。
彼いわく処女作という名の、よく分からない散文を読むように言われ、寸評などをせっつかれているときである。
「ああ?」
ただでさえ触れるのも初めての幻想小説に苦戦しているなかでの質問である。
機嫌の悪いこと、このうえない。
「もちろん、ぼくたちのことじゃないさ。精霊の盟約者とも呼ばれる、本物の魔法使いのことだよ。『魔王』のおくり名を持つ王朝の初代さまは、風のシルフィードと盟約を交わしたという伝説があるじゃないか」
「あんなものは全部デタラメだよ……ったく読みにくね。なんだいこの勇者ってのは。称号なのか職業なのかハッキリおしよ」
エドガーの脳裏にはすでに次回作へのアイデアと意欲で満たされている。
きっと聞く耳を持たないとはこういうときに使う言葉なのだろう。
熱っぽく将来を語る男というのは、得てして女性には受けの悪いものだ。
だがエドガーの夢見る遠大な野望は、たった一冊の本には納めきれないものがある。
「王朝建国から千年経ったいま、世界に残されてるのはこの人心掌握の魔法だけ。しかもルツの感応という極めて体質に依存した力だけだ。でもむかしはもっと論理的で、技術的で、理知的で多様性のある存在だったに違いないんだ。違うかい?」
「人心掌握だって立派な魔法じゃないか」
「なにを言うんだメイルゥ。こんな国民を欺くような卑しい力を、きみは本当の魔法だとでも言うのかい?」
「だってそれで千年やってきたんだ。いまさら嘘でした~なんて言えないだろう」
「嘆かわしい! そりゃぼくだって初めてこの力に気づいたときは、天に選ばれし者だと大はしゃぎしたもんさ。だが実際はどうだ。この力でさえ、能力に優劣がある」
「なんだい。結局、愚痴じゃないのさ」
「愚痴くらいがなんだ! ぼくだってきみくらい大勢の人間を一度に支配できるものならしてみたいさ。なんだよ、一個師団をたったひとりで全滅って。きみこそ幻想じゃないか!」
エドガーは体面も構わずメイルゥに食って掛かった。
宮廷一の色男もこのところ少々、お腹に肉が付いてきている。
「体質なんだからしょうがないだろう。それにあたしゃサムザを守ること以外ではこの力を使う気はないよ。王朝の大臣たちみたいに他人の心を勝手に操ったりしないさ」
「そこさ!」
「どこだよ」
「王朝外の国々はすでに魔法使いの嘘に気づいている。いつか王朝の体制が崩れ去ったとき、この世は偽りの魔法使いの話であふれてしまう」
「いいのかい。宮仕えがそんなこと言って」
「構うもんか。もう宮廷の小役人なんか辞めてやる! ぼくはこの小説を使って、本物の魔法使いの話を書きたいんだ。なんだったらぼくがなりたいくらいだよ!」
「結局それかい」
「いまに見てろよ、ぼくはこの世界に新風を巻き起こすぞ――」
笑い話のうちに終わるはずだった。
しかし翌年、エドガーは本当に宮廷仕えを辞めてしまった。
きっと世の中を欺くのに疲れてしまったのだろう。
彼の宮廷での仕事はもっぱら、朝議から退出する他国からの使者の、記憶を操作することだったからだ。
どうせひとを欺くなら、せめて愉快な夢を――。
そう決意して、小説家という道を選んだのではないだろうか。
メイルゥは足元で、幻覚にうなされているゴロツキたちを目の当たりしてあらためて思う。
きっとエドガーの選んだ道は限りなく正解に近いのだと。
「あんたの言った通りだったよ、エドガー。こんな卑しい術は魔法でも何でもない……」
「ばあちゃん」
サラが心配そうに彼女へと寄り添った。
散々、殴られてパンパンに晴らした顔を、それでもいまはただメイルゥのことを思いやっている。痛かっただろう、怖かっただろう、心細かっただろう。
メイルゥには掛ける言葉もない。
ただ彼女とおなじく寄り添って、そのしわだらけの手で頬を撫でてやるだけだった。
「ごめんね、サラ。おまいさんの大好きな魔法使いは本当はこんなことしか出来ないのさ」
「幻覚を……見せているの?」
「そうさ。魔法使いの出来ることはただひとつ。ひとの心を操ること。ときには本人が見たいものを、またあるときには根源的な恐怖で支配する……そんな卑しい術だよ」
「……空飛んだり、火の玉を出したり、動物の言葉が分かったり――ナッシュの本に出てくるような魔法は本当にないの?」
「ないよ。少なくともあたしは知らないね」
「で、でもばあちゃん、人狼卿のおじちゃんは? それに鞄からいろんなものを――」
メイルゥはサラの唇を節ばった指でふさいだ。
静かに首を横に振って「いまは何も聞かないでおくれ」と。
「もうこの世には魔法なんて必要ないのさ。あのバカの本のなかで十分」
「あ、そうだ。エドガー・ナッシュから手紙が来てたよ……失くしちゃったけど」
「そうかい」
「友達だったんだね」
「腐れ縁ってヤツさ。会いたいかい?」
「え、会わせてくれるの?」
顔をパンパンに晴らしたサラが、メイルゥのしわくちゃの顔をのぞき込んだ。
ビリビリに引き裂かれたエプロンドレスが痛ましい。
メイルゥはここで起きたであろう一部始終を思うと胸が軋む。
「がんばったからね。ご褒美だよ」
「やった――イテテテ……」
顔面はおろか口のなかまでズタズタである。
本来であれば喋っただけでも激痛が走っているところだ。
ただ、いまは興奮状態。
本当の苦しみはこれから襲ってくる。またしばらくは病院通いが続きそうだ。
「さぁ。ボチボチ引き上げよう。こんなとこ一秒だって居たくないよ」
「あ、ちょっと待って――」
てててっとサラが小走りに駆けていったのは、倉庫のいたるところに転がっている麻袋であった。中身は塩、砂糖、キビ、小麦粉などである。
サラはそのひとつを持ち上げると、引きずるようにして歩いた。
「ばあちゃん、これ小麦粉だろ? あのパン屋さんが言ってたよね、高くて買えないって。これひとつ持ってってあげようよ」
「バカだねえ。そんなのいいから、置いてとっとと来なよ」
「でも、なんかひとつくらいやり返さないと頭にくるじゃないか。オイラ、ずっとやられっぱなしだったんだぜ?」
その言いようがメイルゥには可笑しかった。
散々、いたぶられた割にはケロッとしている。
これがサラの持ってる本当の強さなのかもしれないと――。
「好きにしな。先行ってる――」
メイルゥがきびすを返し、ひとり倉庫の出入り口へと身体を向けたときだった。
乾いた破裂音が倉庫内の空気を振動させて、彼女の鼓膜を激しく揺すった。
刹那の時間差でその正体に気づき、メイルゥは振り返る。
そこには、指一本動かせなかったはずのハンソンが上体を起こしている姿がある。
手にはすでに銃口から煙を吐いた拳銃が握られていた。
「びゃっびゃっびゃ!」
もはや言語ですらない奇声を発し、鼻から口から血を吹き出している。
そして一発の銃弾を放つのがやっとだったのか、またぞろ床に突っ伏して動かなくなった。
意識はあるらしく、いまだになにかを呟いている。
メイルゥは――。
「サラ……」
胸元にポッカリと開いた穴から鮮血を流している彼女へゆっくりと近づいた。
たった一発の凶弾に倒れたサラが、床にうつ伏せになって倒れている。
「サラ!」
メイルゥが駆け寄るとすぐにサラは意識を取り戻した。
震える手をメイルゥの頬へとかざした。
「しっかりおし」
血塗れたその小さい手をメイルゥはきつく握り返す。
だがその指先から徐々に力が抜けていくのを感じると、急いで胸元の銃創を手で押さえはじめた。しかしサラの身体から血は止めどなく流れる。
熱い熱い、ひとの命の熱さだ。
「ば、ばあちゃん……オイラ……」
「しゃべるんじゃないよ。助かるからね、助けるからね。死ぬんじゃない、死ぬんじゃない!」
サラの瞳はもう焦点を失っていた。
ただぼんやりとメイルゥの顔のあたりを眺めているだけだ。
「ばあ、ちゃん……もう……いいよ……オイラ……行くよ……ありがとね……」
「バカ! 諦めるな! 行くな! あたしをもうひとりにしないでおくれ!」
「オイラ……生まれ変わったら……猫になりたいな……猫になって日向ぼっこ……」
突然、その言葉はかき消えていった。
まだ温かい彼女の身体は、しかしその意識を取り戻すことをしない。
永遠に戻ることはない。
「サラ……」
メイルゥは物言わぬサラの身体を抱いて、それ以上の言葉を失う。
脱力した彼女の懐から転がり出たのは、かつてサラが自分のためにとくすねてきたりんご大の精霊石の塊だ。何かあったときのためだと、いつも懐に忍ばせていた。
それがゴロンと床に転がると、メイルゥはそれを杖の一撃で叩き割った。
意外なほどもろく崩れ去る緑色の鉱石。
その断面から同色の発光現象が起こった。
光に包まれたメイルゥの身体は、見る間に年齢が逆行していく。
気がつけば、彼女は十七、八のころの容姿を取り戻していた。
怒りや憎しみを通り越した冷徹な瞳が、もはや正体をなくしているハンソンを見つめる。
そしてサラの亡骸を抱いたまま、指先をパチンと鳴らした。
死ね――。
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああ」
突如としてハンソンの身体から炎が舞い上がった。
全身を真っ赤な火が包んでいる。
髪が一瞬にして燃え尽きてあたりに壮絶な臭気を放つ、そして次第に皮膚が焼けただれ、骨から剥がれ落ちていった。
しかしまだ意識は途絶えない。
メイルゥがさせない。
不思議なことに衣服だけはそのままに、ハンソンの肉体のみが燃えている。
やがて炭化がはじまり両の目玉が眼窩からこぼれ落ちると、そこでようやく、やっと死ねるとでも言いたげに事切れていった。
残されたのは新品同然の衣服を着た黒焦げの遺体。成金趣味の指輪もそのままに、淡い煙を全身から吐いている。
若返ったメイルゥは何もいわず、ただサラの躯を抱いて倉庫を出ていった。
おのれの着ていたローブで物言わぬ彼女の身体を包んで――。
あれから数日が経った。
メイルゥはいま、ホテルを引き払い、あの風俗街にあった旧パブに住んでいる。
人足を雇って大掃除をし、彼女の理想とする店作りをはじめた。
一階の奥には本を読むスペースがある。
取り急ぎ、例の図書館から蔵書をそのまま持ち込んだのだ。
所在不明のものである。誰の許可などいるものか。
貸し出しはしない。読みたい者はそこで読んで過ごす。出入りは自由だ。メイルゥがそう決めたのだから。
そこに一匹の黒猫がいる。
図書室の主だ。
首からは、メイルゥがしていた精霊石のペンダントトップを提げている。
「サラ」
床にモップ掛けをしているメイルゥに呼ばれて黒猫は「にゃあ」と鳴いた――。
ここから新しい生活がはじまる。
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