山中を分け入ること早や四日。
かの幻想小説家エドガー・ナッシュはいま――死にかけている。
額に帯びた玉の汗も干上がって久しく、いまはただ満天の星空を見上げるばかり。
日頃の不摂生が祟ってか、もはや指一本動かす余力も残されてはいなかった。かつて自他ともに認める王宮のイケメン官吏であったときの見目麗しき姿はそこにはなく、いくら若作りとはいえ世間的にはすでに立派な「お爺ちゃん」である。
途絶えそうな呼気が冴え冴えとした空気に触れて夜の天蓋へと白くたなびく。
自身の出っ張った腹が上下するのを視界の隅に認めると「ああ俺もこれで最後か」などと切ない気持ちになるのである。
人気のない山中に、よく肥えた動けない獲物が一匹。
野犬や狼の類がこの好機を見逃すはずがない。
我ながら美食には心を傾けてきたことを思い出す。それを思うと「俺なんか食っても旨くないぞ」という気持ちにはなれない。
この腹には文筆家として得た富と名声が、脂で固めて詰まっている。
食ったらさぞ旨かろうと、他人事のように思う。
「狼か……」
誰に聞かせるでもなく、ふと言葉が漏れた。
胸裏に浮かぶのは、まだ出会ったこともない獣面の紳士の姿だ。
盟友である魔女からの手紙には、出会うには出会ったが『本物の魔法使い』のことは何も聞けなかったという。
果たしてそれが真実なのか、それとも彼ら『本物の魔法使い』同士でかわされている密約によるものなのかは判然としないが、ここ今際のきわに至っては、せめてひと目でも相まみえたかったと思わずにはいられない。
執筆のいいヒントになっただろうに――。
これから死ぬのを待つばかりだというのに、ついそんなことを考えてしまう自分にエドガーは笑ってしまった。
そんなときだ。
宵闇からガサガサと茂みをかき分ける音がする。
静まり返った山中だけに、やたらと耳について離れない。
いよいよか――いよいよなのか――。
死という分かりやすい純然たる事実をまえに、老いた身体が硬直する。
すでに身動ぎする気力も体力もないが、このまま簡単に食われてしまうこともまた納得出来ずにいるのだ。
イヤだ。嫌すぎる。こんな最後はあんまりだ!
声にならない叫びが、脳内にこだまする。
山中に漂う魔法力――ルツの力を借りて、何とかケモノたちの意識を乗っ取ることは出来ないだろうかと、宮中を出てから数年ぶりに『魔法』を使ってみる。
しかしダメだ。
確かにそこに「何か」がいるのは感じられる。だがその意識を乗っ取ることが出来ない。
老いて『魔法』も衰えたのか、はたまた最初からケモノの心を操ることなど自分には無理だったのか。
いわゆる『偽りの魔法使い』たる彼には、自身の能力の限界など知る由もない。
死神の気配がする。
草を踏み、そろそろと自分に近づく何者かの存在を感じる。
「たすっ……たすけっ――」
うまく声にならない。
口腔が乾き切って、舌がのどの奥に張り付いている。
引いたはずの汗が、脂汗となってブワッと吹き出すのが分かった。
ついに耳元へと何者かの足が踏み入れたのを感じ、カッと目を見開く。
星明りにボンヤリと浮かぶその顔は、野犬とも狼とも違うケモノのものだった。
「ヒィ……」
肝をつぶしたエドガーは、そのまま泡を吹いて昏倒した。
そこからの記憶はない。
ただ――。
意識を完全に失う直前に、指一本動かせぬ自身の身体が浮遊したように感じた。
深く深く。
自分の意識がどこかへと沈んでいくのを知る。
不思議と恐ろしくはなかった。
そして、つぎに目を覚ましたとき、あたりが暖かい光に包まれていることに気づいた。
「あ、ああ……」
死ななかった。
しかし、なぜ?
ぼんやりとしたまどろみのなか、パチパチと火の粉が爆ぜる音が聞こえる。
ふと横たわっていた老体を振り向かせると、そこには美しいオレンジの炎をたたえる焚き火があった。燃え尽きた薪が途中から折れて「ガコン」と心地の良い音色を生み出す。
エドガーは安心しきった様子で、しばしその光景に見惚れていた。
「気が付かれたようですな」
不意に掛けられた言葉にエドガーはハッとした。
霞がかっていた思考が復活し、いまようやくはっきりと自分以外の何者かの存在を捉えた。
それは焚き火を挟んだ向こう側に座し、あたかも周囲の木々に溶け込んでいるかのように馴染んでいた。
ひとではあるが、人間性を感じさせない。
なぜならその人物は、目深に被ったフードのしたに奇妙な仮面をつけていたからだ。
それはエドガーが意識を失う直前に見た、あのケモノの顔そのものだった。
「あ……あなた……は……いや、礼が先だな。助けてくださって本当にありがとう……」
麻で編んだ敷物のうえで身体を起こそうとすると、面を被った人物は「まだ寝ていたほうがいい」と声を掛けてくれた。
それから「飲み給え」と言って、エドガーに水筒を投げて寄越した。
水筒を受け取ったエドガーは、慌てて口をつけた。
浴びるように飲むとはよく言ったものだが、まさにいまのエドガーがそうだった。最後に水を飲んだのはいつだったか。まるで身体に染み渡るようだった。
「ふぅ……本当に助かった。ありがとう……ありがとう! し、死ぬかとっ……」
補給した水分のお陰か、エドガーの目に涙が浮かんだ。
死をも覚悟したあのときから、どれくらいの時間が経っているのかも分からないが、とにかくいま生きていることを実感している。
しかし生への執着がある程度満たされると、今度は率直な疑問が頭をかすめる。
眼の前にいる人物は一体誰なんだと。
声を聞く限りでは壮年の男であることは分かる。だが焚き火に照らされ、闇夜に妖しく浮かび上がる雰囲気は只事ではない。
片肩に担いた杖といい、フード付きのローブといい。
その佇まいは、エドガーが思う『本物の魔法使い』のイメージのままだ。
もしや、と思うが、また心の底ではそれを否定する。
死にかけたとはいえ、こんなに簡単に出会えるわけないじゃないかと。
たとえ歴史上に遭遇率が高いと呼ばれる、大地の精霊グノームの眷属だとしても。
「あの……もしよろしければお名前をお聞かせ願えないだろうか。ぜひとも礼がしたい」
すると仮面の男は、手にした小枝で焚き火を突きながら「ワイズマン」と答えた。
「ワイズマン? ウィザードよりも高位の魔法使いを指す古い言葉だが……」
「いやなに。戯れに名乗っておるにすぎんよ」
「しかしその佇まい。只者ではございますまい」
「只者ではないと言えばあなたのほうだ。かのエドガー・ナッシュ先生が、こんな僻地の森のなかへ何用かな? それにあまりにも軽装だ」
「わ、私のことをご存知でしたかっ」
取り乱すエドガーを他所に、ワイズマンは肩で笑った。
「この頃、新作を出されないので気を揉んでいたところだよ。そうしたらいつぞやの新聞で拝見したご尊影そっくりの御仁と出くわしたではないか。びっくりしたのはこっちのほうだ」
エドガーは急に恥ずかしくなって立つ瀬がない。
照れ隠しに焚き火へと近づいて、両手をかざした。ゆらゆらとしたオレンジの火が、自身の影を大地に落とす。
自分の命の恩人に比べて、なんと小さい器であるかと。
普段、作家などと偉そうに構えていられるのも、その環境があってこそ。いまこの山中にあっては、自分は何も出来ないただの老人であることを思い知らされた。
旅の恥はかき捨て。
エドガーはポツリポツリと言葉をつむぐ。
「いや、お恥ずかしい。じつはいま、いわゆるスランプというヤツでして」
「ほう」
「どういう訳か、以前のようにアイデアが降ってこないのです。ちょっと前までは、まるで何かにとり憑かれているかのように……まあ実際、意識が不安定なところもいささかあって、知らないうちに領地の果樹園を売って、その金を知らないところに寄付していたりとか――」
エドガーはこれまで起きた奇っ怪な出来事を指折り数えている。
それがある時期を境にぴたりと止まったことも自覚していたが、その頃からスランプも続いていて、どうにも気味の悪い思いをしているとワイズマンに語った。
「ここまでの才能なんですかねぇ。いまではもうどんな風にして物語を書いていたのかさえ忘れてしまった――」
「なぜ山に?」
「それは……」
エドガーは言いよどんだが、ワイズマンにはすべてを見透かされているように感じられた。仮面の奥では本当はすべてを知っていて、ほくそ笑んでいるのではないかと。
しかしそんな風にして、手のひらで踊らされているのが、存外悪くなかった。
この男には嘘がつけないと思った。
「精霊を探していたのです。四大精霊のなかでもっとも出会う確率が高いと言われる大地の精霊グノームを探しておりました――ははっ、いま思えば馬鹿みたいな話です。老骨に鞭打って山まで来たはいいが、うっかり荷物を谷に落としてしまって……あとはご存知の通りです」
「精霊に会えばかつてのように小説が書けるとでも?」
「……あわよくば盟約をかわして『本物の魔法使い』になろうかとも。いやまったく、才能が枯渇した老人の世迷い言ですわ」
はっはっは、と乾いた笑いをエドガーが発すると、ワイズマンは懐から何かを取り出して焚き火のうえへとかざした。
それは手のひらに収まるほどの大きさで、綺麗な楕円形をしていた。
「ナッシュ先生。これを差し上げよう」
「これは?」
「飛竜の卵だろう。この森のなかで拾ったのだよ。きっとあなたのものだ」
「飛竜……ど、ドラゴンですかっ」
慌ててそれを受け取ると、じっくり観察する。
しかしエドガーには、ただの石ころにしか見えなかった。ありのままを口にすると、仮面の男はまた静かに肩で笑った。
「ではただの石ころなのだろう」
「え?」
「あなたがそれを飛竜の卵と信じ、大切にしてくれるならばいつか必ず雛は孵る。しかし最初からただの石ころだと見限ってしまうようなら、それは一生そのままだ」
「……才能の話ですか」
するとワイズマンは何も言わず、ただエドガーの後方を指さした。つられてそちらへ顔を向けると、山の端がうっすらと輝いて見える。
朝だ。
知らぬ間に夜が開けていた。
キラキラと輝く朝焼けに、山が真っ赤に染まっていく。
美しい――。
あらためて命の尊さを感じた。
生きてさえいれば、また何度でもこの光景を味わうことが出来るだろう。
自分を信じて生きてゆけば、この卵はいずれ飛竜へと孵る。
決意を新たに、エドガーはズレかけた眼鏡を掛け直して振り返る。
しかしそこには、すでにワイズマンの姿はなかった。
代わりに谷に落として失くしたはずのリュックや登山用具、そして麓までの簡易地図の書かれたメモが残されていた。
海の向こうには、狐に化かされるという話がある。
いまのエドガーがまさにそんな気分だった。
そう言えば確かに、ワイズマンの被っていたのは狐の面ではなかったか。
「もしかして……彼がノームだったのか……」
伝承では15センチほどの体長をした老人の姿だという。
変質を好み、物作りの現場や職人たちの間で崇められている。
自分もまたひとりの作家として、ノームに作り変えられたのでは――。
「――まさかな」
そこまで思って自嘲した。
世の中には世話好きの変わったひともいるのだと、そしてひとりのファンが、自分の背中を押してくれたのだと思うことにした。
書こう。
山を降りて。
自分の才能を疑うまえに、やれることがきっとあるはずだから。
飛竜の卵を胸に抱いて、エドガーは朝焼けのなかに踏み出していった。
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