エドガーはいつものように、執筆机へと腰を下ろしてパイプをくゆらせている。
目のまえでは盟友である大魔道士の姿。
しかしいつものと違っていたのは、彼女の手に見知らぬ拳銃が握られていたことである。
「……なんの冗談だよ、メイルゥ。ピカレスク・ロマンの執筆依頼はいまのところないんだが」
あくまでも冗談と受け取っている様子だった。
彼にはなんら思うところはないようである。
「そうだ。手紙は届いたかな。今度の新作は、ついに魔導王朝そのものを舞台に――」
「ありゃ何の真似だい」
メイルゥはエドガーの自慢話に付き合わなかった。
構えた銃は少しもブレることはない。
怒りも、戸惑いもなく、ただ淡々と言葉を紡いでいく。
「おい。言ってることが分からんぞ。いい加減、銃をおろしたらどうだ。失敬だぞ」
「せむしの男は、魔女の検体がどうのと言っていたね。ついにあたしを売ったのかい」
「な、なんの話だよ……おい、メイルゥ、本当に正気か? なにがあったんだよ!」
「さっさと本当のことを白状しな。さもないと撃ち殺す」
「お、おいっ! め、メイルゥ! ぼ、ぼくが、ぼくが一体なにをっ」
「おまえに言ってるんだ。とっとと出てきな、ジル!」
その瞬間。
突如として小屋のなかで嵐が巻き起こった。
机や家具が吹き飛んで、ぐるぐると渦を巻く。
エドガーの原稿はまるで木の葉のように舞っている。
それでも暖炉の火は消えない。
赤々と、清浄な光をたたえている。
やがてエドガーは気を失い、床へと突っ伏した。
メイルゥは小屋のなかでひとりとなったが、まだ警戒を解くことはない。
「ひさしぶりだね、サラ」
目に見えないなにかがメイルゥに語りかける。
嵐はまだ収まらない。
小屋のなかをぐるぐると、棚やコーヒーカップなどが荒れ狂っている。
「その名前は娘にあげたよ。いまはメイルゥってんだよ、シルフィード」
「ぼくはジルのままでいいよ。名前を変えたって、きみがサラマンダーであることは変わらないだろう? それよりもいつまでそんな魔法使いでもない、普通の人間の殻をかぶってるのさ」
「うるさいね。そっちこそ、いい加減に大人になりな。手紙でしかやり取りしてないのをいいことに、エドガーを使って、あたしにちょっかい出してたのはおまえだね。小説に『神』さまの話が出たあたりから、おかしいとは思ってたよ」
「スランプしてたからね。ちょっとアドバイスをあげたんだ。彼に自覚はないけどね」
風はいたずらっぽく笑った。
「おまえの気まぐれで、どれだけの人間が踊らされたと思っているんだい。反省おし」
「だってアンディはまた人間の男にフラれてあと百年くらいはふて寝してるだろうし、ノームはいっぱいいるけど、なに考えてるのは分からないからつまらないしさぁ。やっとサラが暇になったっていうから遊んであげたのに」
声なき声、風の精霊シルフィードは、まるで怒られた子供のようなすね方だった。
メイルゥは眉間にシワをよせ、どこを睨むというわけでもなく目を眇める。
「余計なお世話だよ。それにね。この身体をくれた子には感謝してるんだ。それを悪く言うようなら、ただじゃおかないよ」
「おっ。また精霊大戦やる? いいよ、いいよっ」
「ふざけんじゃないよ。二度とやってたまるか。この子はね、あたしに命の大切さを教えてくれたんだよ――」
メイルゥは、いや、火の精霊サラマンダーは、彼女と出会ったときのことを思い出す。
それは200年以上まえ、とある日照りに苦しむ片田舎での話。
険しい山道を登ってくるひとりの少女がいる。
亜麻色の髪をした、それは見目麗しい少女である。
年のころなら一五、六。
華で言えば、いまが咲きごろ。
それを見咎めた一匹の巨大なトカゲが、大きなため息をついた。
どれくらいの大きさかというと、ちょっと体格のいい人間の大人サイズである。
「だから、精霊は人間なんか食わないって何度言ったら分かるのさ。日照りだってどうしようもないだろう、お天道さんの都合なんだから」
人語を話す、その巨大なトカゲを目の当たりして、亜麻色の髪の乙女は恐縮している。
きっと「これが火の精霊サラマンダーなの?」などと、不思議がっているに違いない。
威厳も、威圧も、恐怖も、畏怖も、そのトカゲからは感じることが出来なかった。
ただただ気さくな、姐さん言葉を話すデカい爬虫類である。
「で、でも……村の道士さまにはお世話になりましたし、捨て子だった私なら、誰も悲しまないだろうし。食べてくださらないと……私が困るんです……」
「だから食べないってのに。困ったねえ……」
サラマンダーはポリポリと頭をかいた。
その様子が、おかしかったらしく、亜麻色の髪の乙女が笑った。
「お。やっと笑ったね。あんたかわいいんだから、笑ってたほうがいいよ。……そうだね。いらない命なら、あたしがもらおう。そいで一緒に世界を見て回ろうさ」
「え……?」
「人間はむかしから、命のために戦うとか言っといて、その割には生贄だとか人柱だとか、命を粗末に扱い過ぎる。どうしてなのかをあたしは知りたいのさ。ほら、小指を出しな」
「小指?」
少女は不思議そうに右手の小指を持ち上げると、サラマンダーは自分の小指をそこにぴちょりと重ねた。少女はひんやりとして気持ちが良さそうだ。
「あんた、名前は?」
「……メイルゥ」
「よし」
サラマンダーは一呼吸置くと、瞳を見開いた。
すると実体を保っていたトカゲの形が、次第にきらきらとした光の粒子に姿を変えていく。
「我は四大精霊が一柱、火のサラマンダー。盟約により、汝、メイルゥの友となる」
「友……」
「そう。これで一緒さ、よろしく頼むよ――」
きらきらとした粒子がそのあたりを漂い、やがて消えていく。
そのとき立っていたのは、メイルゥと名乗る、亜麻色の髪の乙女ひとりだった――。
「――あれから200年。もう彼女の意識はない。魂は永遠なんかじゃなかった。でもふたりで過ごした思い出がある。だからあたしは……メイルゥになれた……」
その瞬間、小屋のなかに吹き荒れていた嵐がやんだ。
唐突に落下していくる家具や机に、木製の床が悲鳴をあげる。
そしてメイルゥのまわりを優しい風がそよいでいった。
まるで別れを告げるみたいに。
「サラは人間に夢中なんだね……ぼくはまた違うことして遊ぶよ。じゃあね――」
魔導王朝千年の礎にして『魔王』とおくり名された国父アドルフは、風の精霊の守護のもとに栄華を極めた。その性格は厳格にして、壮麗。またいつまでも少年の心を忘れなかったという。
気を失っていたエドガーは目を覚ますと、荒れ放題になっている自分の執筆部屋に腰を抜かした。それを見たメイルゥは笑みをこぼす。
憑き物が落ちたとはこのことか。
天啓を失ったエドガー・ナッシュ。
きっと次回作は、作風が一変していることだろう。
メイルゥは嵐が通り過ぎた部屋を眺めて、また思い出し笑い。
そして落っこちていたコーヒーミルを拾い上げると、何事もなかったかのように豆を挽いた。
あれから数日後。
行方不明になっていた隣国の科学者が、サムザ国内で変死体となって発見されたという記事が新聞に載ったのもちょうどそのころである。
バーカウンターのなかで、人狼卿ルヴァンがその記事を読み飛ばしていると、風俗街で働く女たちがこぞって我が子を迎えにきた。
天才的保育士としての才能が開花したブラックに懐いている子供たちが、みな彼との別れを惜しんでいる間、バーテンダー家業をすっかり気に入ってしまったルヴァンが、母親たちに労働後の一杯を勧めている。
「姐さん、いますかい?」
そこに暴れナイフのジョニーが現れる。
ハンソン一家だったときの凶状はすっかり鳴りを潜め、いまではメイルゥ商会の使い走りになっている。名実ともに、メイルゥ一家の舎弟を名乗り出すのも時間の問題かもしれない。
「閣下なら、しばらく留守だよ」
「留守?」
「ああ……ばあさんなら、今ごろ……」
メイルゥの目の前にはいま、大きな桑の木がある。
枝ぶりも立派な、樹齢も定かでなない老木だ。
普通ならとっくに朽ちていただろう。
しかし、ここにはひとりの魔女の思い出がルツの力を借りて宿っている。
そう安々と枯れることのない思い出だ。
黒猫のサラを肩に乗せたメイルゥは、いま、あのころと同じ姿をしている。
亜麻色の髪を後ろで束ね、茶色いローブを身にまとう。
永遠のハタチを自称していた彼女だったが、本当はもう少しお姉さんだった。
あの枝に登っていた少年。
きらきらとしたあの笑顔を思い出すたびに、泣きそうになる。
だがそれも遠い記憶のなかのお話。
いまはもういない。
「閣下……メイルゥ閣下……」
不意に声を掛けられて振り向くと、そこには初老の女が立っていた。
粗末な服を身にまとった、痩せた女だ。
「フレッドの母御前ですね」
彼女とはこれが初対面だった。
フレッドの死後、躯を引き取りに街へと訪れたときには会うことを遠慮したのだ。
家族だけの時間を優先させたかったのである。
「はい……この度は息子が大変お世話に――閣下!」
彼女が礼を言い終わらないうちに、メイルゥは彼女のまえにひざまずいた。
ローブのすそが泥に塗れることなどいとわない。
そして王族でも貴人でもない、普通の女に対して、深々とこうべを垂れた。
「母御前よ。フレッド・ミナスの生きた証がここに」
メイルゥは懐から、命のつぎに大事な、フレッドからの贈り物を取り出した。
竹細工で出来た、あの十五センチのものさしである。
「今宵は語りつくしましょう。新たな精霊となった男の物語りを」
それは死者に捧げる、最大の賛辞の言葉だった。
ふたりの女たちは、泣き笑い。
愛したフレッドの話題は、夜が明けてもつきなかった。
〈精霊物語り/了〉
ご読了ありがとうございました^^
また別の作品でお会いできますように。
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