砦は山道へ続く狭い街道の終わりに築かれており、法安山への道を閉ざすために設営されたものだと聞いている。
そのため法安砦というそのままの名称が用いられる。
法安の山にはいくつもの寺院があり、田畑や商売のための店も構えられていて、ちょっとした市場のような場所でもあった。その山腹には山城がこさえられており、イワベ、という城主が山城の防衛を命じられている。しかし法安の山全体の領地は、法安に本拠を置く住職の所領となっており、法安の山城の城主は別の地に領地がある。山城に軍を置くのは非常時のことで、いまは大王の一族の守護と、隣国との戦争のために、本来別の領地の領主を仮の城主としているらしい。
敵国の狙いは法安にいる大王の一族だと分かっているのだから、法安と法安へ続く砦に戦力を集中しているという状況だった。
ちなみに大王の一族というのは、古の王族の後裔を指すらしい。現在国々を統治している国主や、その配下の領主たちとはまったく違う血筋で、ルーツが全く違うらしい。
その地位は国主より上とされることが多いが、儀礼的な理由の他に、その原因は彼らがもつ呪物の量と質が高いからだと言われている。
この国に亡命してきた大王の一族は、それら王族の一部の人々らしいけど、やはり戦況を左右するほどの呪物を持っているらしい。
国主様がなぜどのような経緯で王族を保護しているのかは知らないが、私は結果的に末端でその王族を守る役目を担うことになったようだ。
祖父は砦中央の館にいた。広間に通されると、眼光の鋭い厚い瞼の老人が、低い声で出迎えてくれた。まぁ私の祖父なのだけど。
「門前の掃除ご苦労だ。ここに呼んだ理由は分かるか? お前に敵が攻めてきても山へ登らせない仕事をさせるためだった。最初は。しかしそれももう無理なことになった。動いているのが隣のアゼンだけではなく、エガ、モテウチ、エサンのそれぞれの国主がこちらに兵を向けていると報告が入った。止められるわけがない」
戦況は劣勢どころか詰んでいたようで、祖父はバカバカしいとばかりに笑った。
「私はここで死ぬ。ここで兵たちと共に時間を稼ぐから、お前は法安の山城へ行って、大王の一族の供をし、東国へ逃がせ。アヤメにも既に使いを送っている。私の後継はアヤメだ。お前ではない。アヤメとも、もう会うことはないと思え。お前には餞別がある。ここにいる兵士のうち、好きなものを三人持っていけ。従者も五十人連れて行っていい。物資も、金も、必要なものは道中でお前に届ける手はずだ。とにかく時間がない。準備ができ次第山城へ行け」
祖父はもう死ぬ覚悟ができているようで、早口でまくし立てると、息をついて椅子に座った。
私は広間に通されて一番にそう告げられたので、呆気にとられてしまっていた。
「お前には苦労ばかり押し付けたが…」
「冥府に行ってもお前の健勝を見ているぞ」
祖父のトーンが落ち着いてきたので、私はようやく言葉を出した。
「いえ、いきなり、なので、驚いています。この砦を放棄すればいいのではないでしょうか? それで…」
自分で言いながらどもった。無理な気がする。先ほども小競り合いがあったように、敵軍はこちらの動きを監視している。撤退の動きを見せればすぐに敵の本隊が動くだろうし、手薄になった砦は落ち、みすみす相手に山城への道を開いてしまうことになる。こちらがどんな全力で山道を登っても、王族を着の身着のままで連れ出して逃げ切れるとは思えない。相手には騎兵もいる。集団で逃げながら敵軍の追撃をかわすなど無理だ。
山城から逃げても、敵は山城を包囲したうえで、逃亡した王族を捕らえる別動隊を出せばいいのだから。
しかしこの砦なら、敵の全軍を足止めできる地理にあった。
祖父は言う。
「どういう展開でも、この砦で一定時間時間を稼ぐ兵と指揮官が必要だ。お前は難しいことは考えずに、王族を連れて東国への道を開けばいいだけだ。お前はただの王族の守護兵だ。いろいろ気に病む必要はない。頭を使うのは昔から苦手たっだだろう」
小ばかにされているのだろうか。いや、祖父の表情からは、懐かしいものを見ているような雰囲気があった。そこには普段は見ない優しさのようなものが含まれている気がした。
「おじい様、本当にお別れになるのですね。私もおじい様のご指示の通りに致します。最後まで、生き残る道を選ぶことを願っております」
「お前こそ達者でいろ。すぐに冥府に来たら追い返すぞ」
兵士の習わしでは長々と別れの挨拶を交わすのは軽蔑されるものとされていた。
私はそこで気持ちを切って、深くお辞儀をすると、出立の準備に入った。その後は挨拶も会話もなく、私はムラキとアベ、そしてもう一人、ササキを供に連れていく兵士に選んで、従者たちと共に出立した。祖父は見送りもしなかった。兵士の習わしとはいえ、なにか寂しいものが心に蹲った。
6
山城の城門の手前に来ると、すぐに城主の間へ通された。本当に時間がないと祖父に念を押されていたので、私も祖父の意向を城主のイワベ様に伝えるつもりでいたが、向こうも事態はだいたい把握しているようで、イワベ様も鉢がねを巻いて険しい余裕のない様相で私たちに対していた。
「事情は分かった。大君の一族には早う、出立の準備をするよう既に言ってある。我々はこの城に籠って僧と民を守る。お前たちは一族に会ってきなさい。離れの法安寺に集結させている最中で、まだ全員揃っていないが、揃い次第山を安間方面に降りなさい。そのまま北上し、国境の関所を出て友邦のコウベ氏を頼りなさい。我々は降伏しない。敵軍が追ってくることはないだろう。金も物資も人も出せんが、敵軍を食い止めてやる」
私はイワベ様の決意に真に感じ入って、深々と頭を下げた。
「必ず送り届けます。皆様方のお心を破るような真似は致しません」
イワベ様はおう、と頷いた。
「我々は死ぬだろうが、この国はそう簡単に滅びない。まだ若い奴らを主要な領地に残している。若者といえばお前もそうだが、お前には特別過酷なことを押しつけてしまうな。しかし決して、戻ってくるなよ。お前は大君の守護につけたのだから。国の恥になるような行為だけはするな」
私は頭を下げたままで言った。
「はい、必ず無事送り届け、その末まで彼らを守ります」
正直祖父から聞いていた話では護衛までだと思っていた私は、大王の一族を最後まで守護しなければいけないという話を聞いて内心動揺しまくっていた。
なんで、見も知らずの、自分の国の主でもないもののために、死ぬまで付き添わなきゃならないのか。
地方領主の娘として戦さえ生き抜けばそこそこいい暮らしをしてきた私としては、もう早くも家が恋しくて仕方なくなっていた。アヤメに会いたいし。うわぁ、酷い。祖父がアヤメに会うことはないと言っていたのも、そのくらいの覚悟で死ぬ気で護衛しろというニュアンスだと勘違いしていた。恥ずかしい。故郷にもう帰ってこれないんだ、と思うと、途端に寂しい思いがした。
イワベ様は言う。
「よし、もう行け。法安寺にみな集まるはずだ。我々も準備で忙しい。下がれ」
私は城主の間を後にして、いとやんごとなき大王の一族様をどうしてこの国の民と兵士が犠牲になって守らなければならないのか、歯がゆかったが、祖父もイワベ様も既に命を投げ出す覚悟で動いているのだから、私もそれに応えないわけにはいかなかった。
尽くすに値する人々なのか、いまから非常に不安になった。
「魔王」
城主の間を去って歩いている廊下で、通り過ぎた従者が、突然そんなことを言った。
「魔王が来ます」
その声は私に向けている気がしたので、私はその従者に振り返った。
「悪いけれど、なんて?」
従者は無邪気な少年のような幼さを残した可愛らしい顔をしていた。
その顔に笑みを浮かべた。
「私たちの魔王がもうすぐきます。あなたは私たちの魔王を守ってください。すぐに彼のもとへ行ってください。大王族の首と呪物を土産にすると喜ばれますよ」
私は驚いて「何言ってるの?」と思ったことをそのまま口にした。
すると従者は不思議そうな顔をした。
「え、サダメ様はまだ思い出していないのですか? もう25歳にもなったのに」
なんだかわからないけれど、面と向かって失礼なことを言われた気がして、一瞬頭にきたが、すぐに心をなだめた。
「何の話? 言っている意味が分からないの」
従者は考える風をして、また笑みを作った。その笑みは嬉しそうで、嫌みがない。
「貴方は魔王を支える十人の枝の一つですよ。ぼくはその配下のダイモーンです。魔王はいまメシアの襲来に備えて呪物と物資と仲間とお金を集めています。あなたにもその内、声がかかりますよ。ではお元気で」
そういうと少年従者は歩み去ってしまった。
遠巻きに様子を見ていたササキがムラキに言う。
「なんだあいつ、頭おかしいんじゃないか」
ムラキはササキに言葉を返す。
「何の話をしているのかわかりかねて、止めに入れなかった。言葉が出なかったというか。しかし大王族の首を、という下りはまずいんじゃないか? 問いただしておかないと…」
私は後ろで囁きあう二人を制した。
「気にしなくていい。知り合いだから。それより寺に行きましょう」
初めて見る少年だったけれど、妙に親しみが湧いて、ふざけてるのだろう、ということにして、庇っておいてあげた。
どうせここの従者ならもう会うこともない。死ぬかもしれない運命の子だ。放っておいてあげようと思った。
そして私たちは寺に向かった。
7
法安寺には大王の一族が泊まり込んでいて、周辺の民家には一族の付き人たちが住民に泊めてもらっているらしい。
この大王の一族は「瑞葉」という一族らしく、苗字に漢字を使うことを許されているらしい。この列島では華族や王族は漢字を名前に使うことが許され、国主に代表される武家はカタカナ。農民や商人などの一般人はひらがなで名前をあらわされる。
王族にも品格があり、下位の王族は「王」中位の王族は「大王」上位の王族は「帝」とあらわされる。
帝は黄昏の時代にこの列島を支配した時代の皇帝であり、そのルーツは日本神話まで遡るらしい。源流ではないようだが。
黄金の時代までは天皇という一族が王家であったらしいが、艱難の時代にその制度が途絶えてしまった。黄昏の時代の文明再建の試みの時に、民衆統率のために再び王政の必要性が生じて、還俗していた元天皇家の後裔に声がかかったらしい。
今の王族はその再建に失敗した帝国の残照と言える。
それでも、今では再現できない呪物の制作がされた時期の国の王族であるので、その遺産に高品等の呪物を保持している点で、現代においても無下に扱われることがない一族だとされている。
また列島全体を形骸上統治しているとされる「国体」という政治組織において、いまだに列島の王家として扱われている。
まぁ国体自体が実体のない、領土を持たない政治組織で、列島の分裂し分権化した国々を統合していこう、という理念を掲げる団体であるらしい。
争いが絶えないのは単純に政治の中枢が列島に幾つもあるからであり、地域のそれぞれが分離独立しているから、古の時代のように列島を統一国家として確立し、文明の再建を目指し、大陸からの侵攻にも備えようということらしい。
「西から大群が来る。末法の時代。それはイナゴのように来る」
古い時代のどこかの言い伝えがある。150年ほど前ユーラシア大陸の北部では、珍しい大帝国が築かれたらしく、文明の再建の試みを始めているらしい。それに危機意識を持ったのは周辺の国々だけではなく、この列島もそうだ。最近では既にカムチャッカ半島まで迫ってきているらしいから、列島への南下も時間の問題だろうというわけだ。
そうはいっても現実的に列島は政権が分立していてそれどころじゃないので、侵略されたらそれまでだろう。
列島は80を超える国主と無数の領主からなっており、国主はそれぞれ独立した自治を持つ。
三百年以上この状態が続いているから、この列島のかつての名称である日本という名前は、もはや単なる地域名をあらわすものでしかなくなっていた。
大王の一族、「瑞葉」という一家は、五人いるらしい。
祖母、父母、娘二人。
父親である瑞葉清人様が当主らしく、最低でもこの方には会っておく必要がある。
瑞葉家の保有している呪物は特品が一つと、一品が一つ。二品等が三つ、三品等以下が七つという弱小国の国主か大国の領主が保有する呪物並みの数を保持していた。
その他に家財と金品を持ち込んでいるらしいが、それはどの程度であるかは知らなかった。その金品から私たちも養ってもらう算段なわけで、彼らの金品の量には期待しているところがある。
瑞葉家は呪物を保有しているだけで法術が扱えるわけではないらしく、呪物は人に移植されていない原形のままで所有しているらしい。
私か配下にくれないかなぁ、と密かに期待しつつ、瑞葉家の当主に挨拶に行った。
「金剛の領主、ムラナカ家の娘のサダメと申します。大王家の守護を仰せつかっております。以後よろしくお願いいたします」
私は瑞葉清人様に面会して、礼をしながらそのように挨拶した。
清人様はやや垂れ目で、温和そうな瞳で笑みを返しながら答えた。
「よろしく。フクワラ氏始め、この国の国主様とご重臣の方々には感謝の言葉も思いつきません。あなたも、私たちを護衛してくれるとか。ありがたく思っております」
謙虚な方で、わざわざ頭を下げている私に、腰を曲げてこちらの目を覗くようにそう返してくれた。
いい人っぽい。
「私も全霊をもってお守りいたします。あまり時間がありませんので、準備にあとどれほどかかるかお教え願えますか?」
清人様は答える。
「うん、そうだね、明日朝までにはなんとかなると思っています」
明日朝。どうなのだろう、祖父の砦がすぐに陥落するわけではないにしても、砦から山城まで半日ほどの距離にある。
人が命を削って稼いでいる時間の深刻さを、伝えたほうがいいだろうか迷った。
私はちょっといらいらしていた。
「できれば夜までに、準備していただきたいのですが。夜闇に紛れての脱出のほうが警護上都合がいいものですし、万が一にも敵がすぐに砦を突破すれば、朝では間に合いません」
清人様は少し考える風をして言った。
「わかりました。不必要なものは置いていくように指示して急がせます。ご迷惑をおかけします」
と神妙になった。
その後ほかの家族の方にも紹介していただいたが、私は出立とその準備に焦っていて本当に印象に残っていない。
連日の移動移動と急展開で、私は結構疲労していた。
挨拶を済ませると三人の兵と従者たちを集めて出立の準備と必要事項の確認、準備が済むと瑞葉家の準備完了待ちで、私たちは今後の身の振り方をどうするか、という話題で適当な雰囲気で雑談して気を紛らわせながら時間を潰していた。
8
虚空に浮かんでいた。また、空にいる。星々の距離が近い。月が大きくて、白銀に輝いている。
私はまたいつの間にか死んだのだろうか。また天国に戻ってきたのだろうか。
永遠に宇宙を漂う、この世界で。また、誰かから声をかけられるのを待つのだろうか。
「こんにちは」
また、誰かの声がした。あの時のように。
「こんにちは、誰ですか?」
わたしはまた以前と同じように返した。
「ぼくはゴマフアザラシだよ。また死んじゃったね」
落ち着いた心持で私はそれを聞いていた。
「そうなんだ。死んだときの記憶がないのだけど、なぜ私は死んだの?」
「すいじゃくしー。きみ、霊能の才能はすごいのに、心が弱いんだね。まさか疲労でそのまま死んじゃうとは思わなかったー」
「え、でもわたし死んだら地獄に落ちるんじゃ…」
「そうなんだけど。まだ役割こなしてないから、神様の特権で宇宙に呼んだの」
なんだか夢見心地で、感情がわかない。麻酔をかけられているように感情が鈍磨している。
「また一から転生させると大変だから、起き上がって頑張って」
「いや、もう死んでるんでしょう? 死んだ者は蘇らないよ」
正直わたしはもう地上でしんどい思いをしたくなくて、生き返るのを拒否した。
「いや、いや、僕が力を貸すから。がんばってー」
私は即答する。
「いやです。疲れたからしばらく天国漂う」
「いや、いや、お願い、頑張って。闇のメシアもなんかやる気ない感じだし、このままじゃ光の陣営が圧勝しちゃう! がんばってー!」
神のくせになんで闇の陣営を応援しているんだろう。でもわたしは今回の人生に疲れていたから、もう嫌だった。
「それも神のご遺志なのでしょう。光の陣営が勝って、預言が成就して、ハッピーエンドじゃない。めでたしめでたし」
私はそう言って、話を切り上げようとした。
「待って。お願い、それじゃあ話が終わらないの。闇の陣営に参加してくれた魂たちがかわいそうなの。みんな地上で苦労してるから。君が欠けるともう勝ち目無いの。みんなかわいそう」
「泣き落とし? 私だってかわいそうだよ」
「助けて。闇の陣営にはぼくのアザラシたちの魂も参加してるの。助けて。たくさん、助けて。いっぱい助けて。闇に眠らせないで。みんないろんな人生でつらい目を見てきたの。ぼくの選りすぐりなの。君もアザラシにしてあげるから、助けて」
全然魅力的じゃない提案だけど、言葉には感情が込められていて、なんかほだされそうになった。
「アザラシにはなりたくないけど、もう一回だけだよ。どうせなら子供からやり直したいんだけど…」
「目を覚まして」
夜の闇の中で、私は目を覚ました。
目の前にはアベやムラキがいて、素っ頓狂な声をあげた。
「サダメ様! 生きておられたのですね!」
「なに? やっぱり死んでた?」
私は夢の内容を覚えているので、驚かなかった。
「呼吸止まってました! 心臓も!」
「疲れたから止めてただけ。それより今どういう状況?」
冗談を言いながら質問すると、アベが動揺しながら答える。
「王様方の用意ができたので、厠に行ったお嬢様を呼びに行ったら、道端で倒れられていたのです。呼吸も浅く、ひどい熱があったので、僧たちを呼んで、横にさせました。すると間もなく呼吸が止まって、心音もなくなりました。大急ぎで医者を手配し、ムラキとどうすればよいか相談していたところです」
やっぱり死んでたんだ。あのアザラシ神本当にすごいのかも。生き返らせる力があるなんて。ありがたや。
「そう。じゃあ出発するよ。関係するものに伝えて、すぐに発つ」
私は寝起きの不機嫌さを倍にしたような機嫌の悪さであったけれど、そう指示を出して立ち上がった。
アベが支えようとして駆け寄るのを手で制した。
「大丈夫。歩ける」
私がすたすたと歩いて見せると、二人はようやく安心したような笑みを見せた。
その日の深夜のうちに出発すると、法安の城の門は閉ざされ、山道の関所も封鎖された。もう後戻りはできない。
気になるのは、闇のメシア、という単語と、その陣営、という言葉だった。
なんかいろいろ思い出せた気がする。とても古い昔の夢の中でも、同じことを聞いたような。
そう考えながら、今日会った従者のことを思い出していた。
魔王とか、メシア、とか、夢の記憶に近しいことを言っていた気がする。
失敗した。連れてくればよかった。もはや後戻りはできないけれど、あの少年従者だけでも連れてくればよかった。
強迫観念のように、戻って助けよう、という考えと、いや、それはもう無理だ、という考えが鬩ぎ合ったが、その葛藤は長いこと続いて、やがて諦めて捨て置くことにした。
だって戻れるわけないし今から。そんなことはできない。
ーーー助けて。闇の陣営にはぼくのアザラシたちの魂も参加してるの。助けて。たくさん、助けて。いっぱい助けて。闇に眠らせないで。
そんなことを言われた気がするが、無理なものは無理だ。私には護衛の役目がある。無理なものは無理。無理だから。
「アベ。忘れ物した」
私がそういうと、アベもムラキもササキも、はあ? という顔をした。
「今日会った私の知り合いの従者がいたでしょ、法安の山城に。あいつも連れてく」
ムラキが何を言ってるんだという感じでいう。
「それはもうできません。関所も閉ざされ、山城も臨戦態勢に入っています。戻れると思いますか?」
私は恥ずかしい思いを感じながらも言う。
「わかってる。でもあいつを連れて行くのは絶対だから。騎兵を一人貸して。その騎兵に乗って戻るから、あなたたちは先に山を下りて」
ムラキが怒ったように声を荒げる。
「待ってください! 正気ですか? いま考えついたことなら捨ててください。指揮官であるあなたが欠けたら私たちはどうすればいいんですか!」
「戻ると言ったら戻る!!」
私もわけのわからない自分の感情に怒るように声を荒げて膝を叩いた。
その様子にアベがびっくりしている。
呆気にとられるアベとムラキの沈黙の間に入るようにササキがなだめるように言った。
「待ってください。時間はありませんが、そこまで仰るのでしたら、みなで戻りましょう。それで彼を連れだしたら、出立ということでいいではないですか。元々明日の朝出発する予定だったのですし」
ササキがそう言うとそれ以上ムラキも言葉をひっこめた。
こいつは無口だが人がいい。連れてきてよかったと今更思う。
その後私たちは関所で大恥をかき、扉を開けてもらい、山城で大恥をかき、門を開けてもらい、イワベ様にはどういうことか散々問い詰められ、大恥をかき、名前も知らない従者をなんとか探し当て、戸惑う彼を横目に拉致して、再び出発した。私の人望は地に落ちて、恥ずかしさでしんだままでいればよかったと何度も思ったけど、とにかくなにか夢の情報を知っていそうなクラベという少年従者はなんとか確保したのだった。
「なんで僕を連れてきたのですか?」
小休止の時、木陰で傷心で休む私のもとにクラベがやってきてそう問いをした。
「あなたが昼間言ったことに興味があったのよ。わたしも頭おかしい」
また恥ずかしさが込み上げてきた。
「でも僕を助けたことは貴方を助けますよ。魔王についての情報を知っていますから」
「魔王ってなんなの?」
「メシアに対抗する人です。アンチメシアとか、獣とか言われてます。でもそれは大陸の西側での話で、アジア側では竜のみ使いなんですけどね。ぼくは皮肉で魔王と呼んでいます」
「ふーん、おとぎ話? それとも宗教の勧誘だったり?」
「どちらも違います。あなたはまだ記憶がないようなので、話したくありません」
クラベもどことなく恥ずかしそうにしていた。
まともな感性はあるようだ。
「わたしも、なんだかそんなような夢を見た気がするの。光と闇の戦い、みたいな話を。それはとても印象に残る夢で、普通の夢とは違う。どういったらいいかわからないけれど、あなたの話はその夢の話に似ていて、とても興味があるわ。それがあなたを助けた理由よ」
クラベは言う。
「僕はあなたについて知っていますが、現実のあなたは知らないです。でもその夢はいつか現実になるはずです。あなたが信じられるようになったとき、この話をしますね」
そう言うと息を吐いて、眠そうにして黙ってしまった。歳も若そうだし、疲れているのかもしれない。
小休止が終わると、私は馬車に戻って、まだ重たい雰囲気のムラキたちと共に気まずい道のりを行かなければならなかった。
ああ、救いはどこに。アザラシ神恨む。と心の中で呪った。
9
気まずい雰囲気もだいぶ緩んできた朝方、朝日が山間に射して、下山後の街道を温かく照らしていた。
「お嬢様、次の関所までの間に、一回中休止を入れたほうがよろしいのではないでしょうか。従者たちもだいぶ疲労しています」
と、アベが進言してくる。私は頷いた。
「そうね、もう少し距離を稼いだらそうしましょう」
しばしの無言の後、ムラキが急に私に言った。
「あの少年従者、才能がありますね。霊能を持っている。あれならかなり高位の呪物を扱えますよ」
ムラキがクラベについてそんなことを言った。霊能とは文字通り霊能力のことで、霊視や霊聴についてを言う。私も霊視の類ができる。「透視」もその一種のようなものだ。
格的には霊聴が下で、霊視ができるものが中位格。両方できるものが上位の霊能を持っているとされており、霊視も霊聴もできるものは本当に稀だ。
そして呪物はその霊的な資質を用いて稼働する代物らしく、昔から、呪物を使うのは霊能を持ったものが最善とされている。
「生体エネルギーを呪物を稼働させるための力に変換し、動く」と基礎教育の過程で習った。
だから法術を使うものは一般人に比べ疲れやすいし老けやすい、と言われている。
私はどうなんだろう。老けて見えるのか、よくわからない。
「そうね、あの子も不思議なものを見ているらしい。霊能のセンスはあると思っているわ」
私の夢と共通の幻想を持っている時点で、何らかの霊能的なセンスは持っていると思っていたけど、ムラキには霊能のあるなしが一目でわかるらしい。
まぁ法術を扱う人間以外にも、当然霊能を持った人が、貴族や武家だけではなく一般人にもいるし、逆に呪物を持っていても霊能の才がないものもいる。そういう場合は近親の親族や近しい武家から養子を取るのだけど、それでも見つからない場合は一般人の霊能のあるものから養子を取ることもある。とにかく呪物は霊能の才能があることが大前提なので、霊能者の確保は兵士の家柄の必須事項とされている。
霊能は遺伝しやすいが、絶対に遺伝するものではない。確率は半分以下とされている。
だから、ムラナカの家でも、霊能のない姉のアヤメではなく、霊能があった妹の私に呪物を授けられた。それで祖父は武門の役割を私に、当主としての役目を姉に、と常々私たちに言ってきたし、わたしもそれでいいと思っていた。
兵士の家では呪物の「所有権」を重要視しており、「駒」である「法術師」と、「呪物の所有者」は区別されている。この場合、「駒」が私で、「呪物の所有者」は姉というわけだ。
私が死んだら呪物は回収され、姉の手に戻る、という具合になっている。
実際私が死んだら従者たちが呪物を私の体から取り出して、姉のもとに届けるだろう。それも従者の重要な役目だ。
ムラキは頷いて言った。
「最初反対しましたが、あれだけ霊能があれば使えますよ。サダメ様がむきになるから何事かと思いましたが、納得です」
なんかいい方向に解釈されてる。ぜんぜんそんなこと考えてなかったが、まぁそういうことにしとこう。
ムラキには霊能がある人物がわかるらしい。同類は同類がわかるのか。
私にはそこまで鋭く分析できないけれど。
霊能の世界には色んな視野やモノの見え方があるらしいから、それもムラキの異能の一つなのだろうと思った。
それからしばらく半時ほど進んだ後、「じゃあ、中休止にしましょう」と私は言った。アベがそれを従者に伝えると、「中休止ーーーー!!」と従者が叫んで、瑞葉家を乗せた馬車と私たちの乗った馬車が止まって、私たちは馬車を下りて草むらでまた休んだ。
10
「サダメ様、報告があります」
中休止中に草むらに座ってパンを食べている私に、ムラキが駆け寄って来て膝をついた。そして言う。
「先行させている騎兵から、安間の関所から火の手が上がっているとの報告が」
安間の関所とはこれから街道沿いに進んで友邦の領地、コウベ氏のいる不県まで進むための国境の関所だ。
国境沿いの関所は守りが固く、警備も厳重だと聞いているから、そこに火の手があれば何か重大事案が起きているという意味になる。
「どういうこと?」と私はムラキに詳細を尋ねた。
ムラキは言う。
「北方方面から軍勢が南下していると考えられます。どこの軍勢かはわかりませんが、明らかに何者かに攻撃を受けている様子だった、という報告でした」
不県の国主は古から友邦であるが、裏切った、ということだろうか。
不県との関係性の深さはこの国の国主、フクワラ様との血のつながりにもあらわれており、コウベ氏とフクワラ様は遠戚でもある。
それは一朝一夜で築かれた関係ではなく、裏切るとは考え難いのだけれど、現実に安間の関所が襲われてるとなればそういう可能性も出てくる。
「他に進める道は?」
と私が聞くと、ムラキは即答した。
「馬車を捨てれば、東部方面への道がないことはないですが、東の国境を越えてもムツミ氏の領土に入るしかなく、現実的ではありません」
ムツミ氏は友好的な国主とは言い難い。加えて人柄でいいうわさを聞かない。国境でも何度もいざこざを起こしてきたし、今回の国難に乗じていつ軍をこちらに動かすかわからない危険で不透明な存在だった。
私の考えはこうだ。
え、なんで北から敵が攻めてくるの? なんでこれから亡命しようとしている国のほうから軍勢がくるの? どうしたらいいの?
だ。
「わかった。アベとササキも呼んできて。意見を聞きたいから」
ムラキも突然の事態に戸惑っている様子で、アベたちを呼びに行った。
その時遠方から味方の騎兵が走ってくるのが見えた。何か叫んでいる。
談笑していた従者たちが一斉に喋るのをやめ、みながその言葉を聞き取ろうと耳を傾けていた。
やがて輪郭がはっきりしてくる頃にその声が聞こえた。
「敵襲ーーーー! 竜騎兵、竜騎兵! 数100!」
全員が全員立ち上がる気配がした。同時に動揺している様子も見える。
竜騎兵とは銃で武装した騎兵のことだ。
冷静に考えれば兵士のいない竜騎兵だけの集団なんて、まともに戦えば勝ち目は十分あるのだけど、時期が悪かった。
休憩中の不意の敵襲に、従者たちは困惑し、どちらかというと怯えていた。
「陣形取れ!」
私がそう言うと、ムラキやアベが叱咤しながら従者たちを一か所に集めていく。
敵軍に先行する斥候の騎兵隊だろうか。
剣で武装しているだけのこちらの従者たちでは散らされて殺される。
かといって兵士三名を前進させて敵に当てるのも、打ち漏らした敵に護衛対象を襲われる可能性がある。
「ササキと従者十名は私についてきて。残りは瑞葉を取り囲んで守れ」
ササキの呪物は災害を起こす四品等。術者のいる場所に暴風雨を起こす呪物。しかし発動までに時間が一時間近くかかり、それ自体は環境的要素で、ここでの使い道はない。
しかしササキの呪物は防御範囲が広いので、ササキの後ろにいれば十名くらいの従者なら銃弾から守れる。
私一人で行ってもいいのだけど、いざというとき敵の標的を散らす囮くらいにはなるだろうと思った。
私の呪物では、動きの速い騎兵は相性が悪い。術にかけている間に接近される恐れがあるからだ。
もう一つの呪物を使って、相手を迎え撃つ。
もう一つの呪物は生まれつき持っていたもので、これは呪物の先在と呼ばれるものだった。祖先に移植した呪物が、祖先の体に溶け合って、子孫のいずれかに発現するということが稀にある。
それに該当するのかはわからないが、生まれた時から呪物が備わっていたので、恐らくそれだろうということにされていた。
既存の呪物にはない能力なので、品等は不明だが、使い勝手が非常に良い現場攻撃的な呪物だったので重宝している。
僅かな地鳴りを感じた。街道の遠方から騎兵の一団が整列しながら疾走してくる。あまり時間はない。
心臓にあるとされる呪物に力を集中させる。
力は私の霊視では光の粒が無数に漂っているような光景に見える。
一貫して人の生命力や力は光の粒の集合のように見え、それに向かって念じると、それを動かして操作できることがあることもわかっていた。
だから、自分と、周囲にある光の粒を、自分の心臓に集めるという幻想を霊視で見ながら、呪物を発動させるのが私の基礎的な法術だった。
発動する。と同時に世界が暗転。
音が聞こえなくなる。騎兵のいななきも、味方の兵たちの息遣いも、自分の呼吸の音も。
代わりに幻聴的な囁きがそこかしこから聞こえてくる。笑い声や、誰かを呪う声、人間ではない魔性のものたちの声が、囁くような声であちこちから聞こえてきた。
私は騎兵隊に向かって歩いて行く。
「コ、コカ…」
と言葉を発したつもりだが、音が聞こえないので本当にそのように言っているのかわからない。
はあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。はあぁぁぁぁぁぁぁぁ。
呼吸も荒くなっていく。黒く深い感情が腹にたまり続ける。黒く塗りつぶされていく私。世界が油絵のようになっていく。
「コカビエル、出てこい」
中空の空間が塗りつぶされ、闇夜より深い暗闇の穴が、私の頭上に現れた。闇の中には目。目のようなものが見えた。
「馬とそれに乗っている者たちとを見ると、乗っている者たちは、火の色と青玉色と硫黄の色の胸当をつけていた。そして、それらの馬の頭はししの頭のようであって、その口から火と煙と硫黄とが、出ていた。馬の力はその口と尾とにある。その尾はへびに似ていて、それに頭があり、その頭で人に害を加えるのである。…それは、なぁーんだ?」
闇の中の存在に私がわざとお道化た様子でそう言葉を投げかけると、存在は目の前の竜騎兵を敵と認識したらしく、「阿」と言った。
すると騎兵たちがゆっくりと疾走をやめていく。こちらを注視するように呆けた表情で眺めていた。
「吽」
闇の中からそんな声が響くと、突然騎兵隊が空中に飛び上がったかと思うと、そのまま虚空に突然消えた。
何が起こったのかは私もわからない。考えてもどうやっているのかも想像がつかない。携挙。携挙にあったんだと、昔の私は考えていたのを思い出した。
しかしとにかく敵は消えた。わたしは呪物への力の供給を絶って、強制的に闇とそこにいる存在を世界から遠ざけた。
音が回復して、聞こえるようになってくる。私は吐いていた。「おえええええええ」
お腹からどす黒いものが込みあがってくるようで、気持ち悪さに吐いた。冷や汗もかいている。人間より上位の怪物を呼び出す恐怖と緊張感が、毎回あった。
だからこの呪物は嫌なんだよ。
この呪物を見慣れている味方のササキと従者たちは、特に動揺した様子もなかった。
私はササキに言う。
「馬車を捨てて東の森に入る。これ以上の戦闘はごめんだし」
ササキは頷いて、従者たちに指示を始めた。
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