「はい、お姉様」
と、モミジは地面から藤正を乱暴に抜き取る。
ふいに、村正の近くで倒れている平良を見ると、彼の掌から血が零れ落ち、地面を紅く染めていた。予想よりも両手からの出血が酷く、藤正を直で触れた箇所は肉が削がれていた。よくこの状況で気絶しなかったものだ。
「まったく、折角の名刀が酷いものだ」
血と油でべっとりと濡れた刀身は、一部は酸化が始まっており、早く処理しないと刀身が傷んでしまう。そもそも錆が刀身にこびりついてしまっては、もう拭いようない。それこそ錆そのものを刀身と共に削らなくてはいけなくなる。そして、一部を削ったら、他も合わせなくてはいけなくなる。そうなったら〝元〟の刀剣ではなくなる。
――応急手当だけでもやっておくか。
ひとまず茎の中に刀身を戻し、私は刀紙で血を拭ってから鞘へと戻す。
――そういえば、平良の奴、妙な事を言っていたわね。アイツが言っていた、って。
――もしかして、誰かが平良に、妖刀伝説を吹き込んだの?
だとしても、人を斬ったのは彼自身の意思で、それが覆る事はないが。
「結局、全部、彼の妄想だったんでしょうか」
「え?」
「妖刀は、妖刀・村正は、彼の勘違いだったのなら……彼は、嘘か本当かも分からない空想を信じて、踊らされた……」
「そんなものよ、伝説なんてものは」
刀剣には、幾つもの物語がある。病が治った、神から譲渡された、虎を倒した、雷を切った、夢の中で美少女として現れた。それが名前の由来になる事もあり、刀剣にまつわる物語は、広く人間の作る歴史に関わってきた。
「刀剣が、物語を作るんじゃない。人間が、刀剣を通じて、自ら物語を”創る”の。妖刀だろうと、神剣だろうと、同じよ。全て、人間が起こした、人間の物語。刀剣は、所詮きっかけに過ぎない」
象徴とも言うが。
物語を、伝説や神話を象徴づけるために、刀剣が在っただけで――刀が勝手に動いて何かしたわけではない。人が刀と出会い、物語を起こした。
「お姉様」
「なあに?」
「人って、偉大ですわね。たまに、怖いくらいに」
「ええ……そうね」
ともあれ、これで――人が起こした、人の物語を終わった。
*
『紅月鑑定屋』に戻ると、雛菊と茉莉、あやめ、そして部屋の隅っこで蹲っているスバルがいた。
「雛姉。どうしてスバルはふて腐れているの? また派手に転んだ?」
「あー、実は……繁華街区で身ぐるみ剥がされかけたらしいのよ。返り討ちに遭わせたまではいいけど、結局迷子になって……泣きながら警察の人にここまで送ってもらったみたいなの」
予想通りか。だから、こいつを勝負するのは嫌だったんだ。
「ま、迷子じゃない……僕は大人だ。大人、だ……っ……ひ、一人で出来るもん」
ぶつぶつと繰り返しながら、スバルは膝を抱えて床の上に座り込んだまま動かない。
実績はあるけど、色々残念な子だ。
「ひとまず、例の刀はこの通り取り戻した」
平良の身柄は警察に引き渡し、後は法が彼に然るべき処罰を下す。
「にしても、茉莉さん。庭師さんの事、驚かないんですね」
「え、ええ。何となく、そんな気はしていました。だけど……もしかしたら踏み止まって、刀と一緒に帰ってきてくれるかも知れなかったから……」
「それが警察に依頼しなかった本当の理由か」
ぼそり、と蹲りながらスバルが言った。
「警察に相談すれば、刀は勿論だが、庭師の事も露見する。そうしたら、そいつは二度と戻れない」
「それが正しいかどうかは分かりませんが……私には、そのくらいの事しか出来なかった。止める事も追いかける事も出来なかった私には……。だから、待つ事にしたんです」
「犠牲者が出た以上、お前のした事も立派な罪だぞ」
スバルの指摘はもっともであり、もし警察が当時の事を調べ、茉莉の事を突き止めたら、彼女も共犯扱いを受ける場合もある。しかし、きっとそうはならない。
「平良は、最後の最後で“人”として踏み止まったわ」
「え?」
私の言葉に、茉莉が顔を上げた。
「あいつは妖刀になろうとしていた。だけど、あんたの名を出した時、奴の反応は人間のものだった。あんたの存在が、あいつをぎりぎり人として繋ぎ止めた」
「……っ」
茉莉は泣き出しそうな瞳で私を見上げる。
――もしかしたら、あの人は……ただ眩しかったのかも知れない。
何者でもない自分を無条件で受け入れた彼女が、闇に身を落として生きてきた男にとっては眩しすぎ、毒にも感じた。
――いや、やめておこう。これは私でも鑑定不可能だ。
本当の事は、あの男だけが知っていればいい。
「ちっ……」
ふいに舌打ちが聞こえ、茉莉の後方を見ると、あやめが苛ついたように唇を噛んでいた。が、それは一瞬の事で、私の視線に気付くと、彼女は分かりやすいくらいの作った笑顔を貼り付けた。
――何なんだ、この人、本当に。
「おい。それより、肝心の刀はどうした?」
スバルの言葉に、私達は一斉に「あ」と漏らした。すっかり忘れていた。
「茉莉」
私は平良から奪い返した刀を彼女に返す。
「結論から言うと、これは村正じゃない。藤正の刀だったわ」
さらに言うと、今回の騒動でかなりの血を浴び、刀身は痛んでしまった。仮にこれが『浪漫財』でも、その値打ちはなくなった。刀の値打ちは誰が鍛えたかや誰が使っていたか、などの歴史もあるが、何より重視されるのは保存状態だ。
「あとは研磨師にでも依頼しなさい。何処まで出来るかは不明だけど」
「は、はい。何から何まで……」
「茉莉、一つ聞くけど……あんた、これが徳川から譲り受けた村正と言っていたけど、それが藤正と聞いてなお、これは家宝だと思うの?」
「んー、確かに村正だと聞いてはいましたけど……我が家の宝である事に違いはありませんから」
「その口ぶりだと、それが村正でない事を知っていたようだが……」
壁際で蹲りながらスバルがじろり、と茉莉を見た。
「ええ、何となく。うちは歴史ある家系ではありますが、徳川様とは関わりがないと思います。きっと……ただの見栄です。うちには『浪漫財』があまりなく、歴史はなくても『浪漫財』多数所持のお家には華族としては負けています。だから、私の祖先はそれが許せなくて、徳川様と縁のある刀だ、って言ってしまったのだと思います」
「そして、それがいつの間にか逸話となって代々伝わった、と……」
モミジが続きを言うと、茉莉はにっこりと笑いながら返した。
「ええ。だって、それ……祖父が借金の担保に何処かの家から貰い受けたものですから」
「……」
一瞬、空気が冷たくなった。
「刀には、逸話がつきものよ」
忠誠の<短刀・薬研藤四郎>。鬼を斬った <太刀・童子切安綱>。雷神を斬った<太刀・雷切>や<脇差・雷切丸>――。挙げたらきりがない。
「だから、あんたの家は、〝妖刀を所持している家〟として名乗り上げたかった。そのために、刀の逸話が欲しかった……という事かしら」
そして、その逸話――人を狂わせる妖刀という名に平良は取り憑かれた。
「つまり、全ては真贋を見極めず、名前だけを見た結果という事だ」
そこで一度言葉を切り、私は茉莉を見下ろす。
「これから、平良のした事であんたの家の〝本当〟が露見するでしょうね」
「ええ、でも……私はあの人の主人であり、その刀の主人です。それが罰だというなら、罪ごと刀を継承するまでです」
どうやら余計な気遣いは無用だったようだ。刀は、私の手から彼女の手へと戻る。茉莉はそれを確かめるように鞘から刀身を僅かに抜く。
鈍い光が輝き、一瞬だけ平良の血走った眼が浮かんだように見えた。
「妖刀だな」
ぼそり、とスバルが言った。
「人を、道から迷わせた……妖刀だ」
「ああ、確かに……妖刀ね、これは」
紫色の輝く刀身は、見る者の心の闇を引き出すように怪しい光を放った。
「そうですね」
ふいに、あやめが呟いた。
「それは、確かに、妖刀です。ねえ、お嬢様?」
あやめが茉莉に問いかけながら、彼女に手を伸ばすが――あやめが触れる寸前で、茉莉が私の元に歩み寄った。
「あの、姫百合さん。一つだけ、お願いがあるんですけど……」
伏せていた顔を上げた茉莉の瞳に、確かな意思が輝いた。
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