モミジが葛切を振り返った時、菅野の姿が消えていた。
この騒ぎに生じて逃げ出したか、と周囲を注意深く確認していると――少し離れた位置で、がしゃん、と硝子の割れた音が響いた。
「まだ、終わりではない!」
部屋の隅の硝子箱が割れていた。
――あれは……。
菅野は硝子箱を割って中から展示していた太刀を取り出した。腰反りが深く、大柄な刀。とても室内――いや、あの男の腕では振り回す事も出来そうもないが。
「もう! 往生際が悪いですね!」
モミジが照準を菅野に固定しようとした時、私がその銃身を掴んだ。
「お姉様?」
「“あれ”を傷つけるな。価値が下がるわ」
「価値って……」
モミジは問いかけるが、続く言葉は菅野の声がかき消した。
「許さん! お前達、絶対に……許さん!」
「やめておきなさい。あんたに、“それ“は相応しくない」
「黙れ、黙れ! 馬鹿にしおって! お前さえいなければ……こんな事には!」
菅野が太刀を振り上げた。しかし、反りの深い太刀は元々馬上で戦う用に作られた物。室内では不向きであり、太刀の重みがずしりと彼にのし掛かる。
それでも闘争心だけは健在のようで、菅野は千鳥足になりながらも私に向かう。
「その根性だけは評価しましょう。だけどね……」
私は一歩踏み出すと同時に、菅野の隣へ移動する。数秒遅れてから羽織りがふわり、と舞った。
「んな!?」
菅野が太刀を振り下ろす寸前、それを鉄扇で受け止める。
「軽いわね……」
鉄扇で掬い上げるように太刀ごと菅野を押し返す。突然目の前に現れた私に動揺していた事もあり、菅野の身体は容易に体勢を崩した。
「ひっ……!」
菅野の手から太刀が離れたため、支えを失った太刀はちょうど彼の股の間の床に突き刺さった。目の前に鈍い光を放つ刀身があり、菅野は小さく悲鳴を上げて後方に下がろうとしたが――
「あ、今動くと……」
びり、と不吉な音が響いた。太刀の刃先が彼の洋袴を貫通させていたせいで、後ろに下がった拍子に股の部分が大きく裂けた。
「破けるわよ」
「早く言わんかい!」
周囲から悲鳴ではなく笑い声が響いた。ここで悲鳴を上げる娘がいたら問答無用で捕まっていただろう。
洋袴が破けたせいで立ち上がる事が出来ず、股間を押さえて座り込むという――何とも誤解される体勢のまま、菅野は顔を真っ赤にして私を睨んだ。
「ちょっと、そこの悪党! お姉様に何するんですの!」
「されたのは俺の方だ!」
「ああ、お姉様! そのような汚い物を見てはいけません。お姉様には、モミジだけを見つめて……むしろ、今ここで脱ぎ……」
「そういうのいいから」
両手を広げて向かってくるモミジをかわすと、私は目当ての品を拾い上げる。
「さて、今回の鑑定料にこの子は貰っていくわ」
「貰っていくって、お姉様、ここの刀って、ほとんどが贋作なんじゃ……」
「ほとんど、がね」
その言葉で察しの良い連中は気付いたようで、モミジはにんまりと勝ち誇った顔で、菅野と安部は心底悔しそうな顔で太刀を見た。
「部屋の隅に展示されていた、名札のない刀。だけど、これだけは、正真正銘の真作の備前物よ」
「それが、真作!?」
菅野が目を見開いて太刀を見る。だけど、もうあげない。これは私のだから。
「やはり気付いていなかったね。こいつは真作、それも『浪漫財』に当たる古刀よ」
がっくりと肩を落す菅野に、モミジが歩み寄った。
微笑みながら、モミジは彼に見下ろす。傍から見れば、天女が男を慰めているように見えるが――真逆だ。
あの女は、そんなに優しくない。
「おじ様。随分と真作や贋作にこだわっているようでしたけど……そのわりに、本物と偽物の区別も出来なかったんですね」
にっこり、と微笑みながら、モミジは彼の耳元に唇を近付け――
「ざまぁ、ですわ」
「……っ」
菅野は、モミジの一言で完全に心が折れたのか、それ以降何も言わなかった。
対するモミジは、上機嫌に私の元へ戻ってきた。恐ろしい子。
「モミジ。あんた、いくら何でも、とどめ刺さなくても……」
「えー、そうは言いますけど、あの男がお姉様を逆恨みでもしたら大変ですから。そんな気を起こさないように、徹底的に心をへし折っておこうかと」
「やだ怖い」
私とモミジがそんなやり取りをしていると、ふいに複数の人影が私達を囲んでいた。
一瞬身構えたが、甘い香水の香りに、すぐに警戒を解いた。
「格好良かったです、鑑定士のお姉様」
気付けば、周囲を華族の令嬢達に囲まれていた。
「無傷で、解決したその手腕」
いや、約一名プライドというプライドずたずたにされていますが。
「誰も傷つけずに勝利するなんて、素敵です、お姉様」
知らない間に、お姉様呼びが確定されている。
「下がりなさい、小娘どもが! お姉様はモミジのお姉様です! 触れていいのは、モミジだけですわ」
モミジが見せつけるように、私の肩に腕を絡めるが、力が強すぎて骨が軋んだ。
と、その時、令嬢達が嘲笑と共に何かを囁き合った。
「ですけど、菅野様にはがっかりしましたわね」「まったくですわ。ですが、見世物としてはちょうど良かったんでなくて?」「ええ、確かに。あれは滑稽でしたわね」「あら、私は最初から怪しいと思ってましてよ」――次々に聞こえる薄っぺらい言葉に、私は小さく溜め息を吐いた。
そして、軽く前髪を掻き上げると、野次馬の華族達を見る。
「貴女達も同じでしょ」
私の言葉で、その場は一瞬でしん、と静まりかえった。
私を賞賛する華族の娘達を横目で見ると、何故か娘達は狼狽えながら視線を逸らした。
「名前ではなく、本質を見なさい。物は、嘘はつかない」
名品だから良品ではない。『浪漫財』だから価値が高いのではない。
「刀匠が魂を込めて鍛えた刀を、今度は侍が魂を宿して戦い……そして、私達がその魂を読み解く。ゆえに『浪漫』なのよ。人が心血注いで生み出した物に、悪い奴なんていないわ」
そこで一度言葉を切ると、私は後方にいた五鈴に歩み寄る。
「五鈴。あんたが見ていたのは、いつだって本質。刀の名前じゃない……刀にのせた、人の愛情。それを読み解き、受け継いだあんたは、他の誰よりも、それを持つに相応しい」
真作だろうと何だろうと刀剣を大事にしていた。刀への愛ごと継承した五鈴は、この中で一番本質を理解していた。
「刀だけじゃない。その刀の歴史と、その歴史の中で紡がれた人と人の絆ごと刀を大事にしていた。だから、誰よりも、その刀の主に相応しい」
「姫百合さん……」
五鈴が、笑った。正直初めて見るかも知れない。何かを決意した――まったくもって美しい笑顔だ。
釣られて笑うと、何故かモミジに足を踏まれた。酷い。
「あ、あの……」
その時、おそるおそる令嬢達が声をかけてきた。
が、どうやら声をかけられたのは私ではなく、五鈴の方だ。彼女達は、恥ずかしそうに下を向き――五鈴に向かって頭を下げた。
「ごめんなさい! 鑑定士のお姉様に言われて、気付きました。私達も、名前しか見ていなかった。その刀が、貴女にとってどれだけ大事か、どんな歴史を持っていて、だからこんなに美しいんだ、って……知ろうともしなかった」
「菅野様に食ってかかった貴女を見て、思ったの。私達も、華族の名前に恥じない娘にならないと、って」
建前ではない。本気でそう思っている令嬢達は口々に謝罪し、五鈴に頭を下げた。華族が平民(『浪漫財』所持という点では華族でもあるが)に頭を下げるなど、滅多にない――というより初めて見た。その光景に小さな拍手が起き、私はつい呟いてしまった。
「なかなか、美しいじゃないの……」
「えっ……」
私が呟いた途端、令嬢達が顔を真っ赤にして狼狽え始めた。中には貧血だったのか突然頭から倒れ出す娘もいた。
「ちょっと、大丈夫?」
私が声をかけると、その瞬間にまた一人倒れた。どうなっているんだ。
「お、お姉様の浮気者! モミジというものがありながら、酷いです! だけど、好き!」
「だから、何なんだよ、お前はいつも!」
――よく分からないけど、あとは使用人が何とかするでしょう。
私は羽織を翻し――鉄扇を景気よく鳴らした。
「これにて、鑑定終了」
「お姉様! 放置しないで下さい! この天然たらし! だけど愛している!」
「バカやっていると、おいていくわよ」
「待って、お姉様! モミジは、たとえ遊びでも、一生お姉様を……あ、本当においていかないで下さい! お姉様ああああああ!」
後日、五鈴は『浪漫財』所持のため身分昇格するが――その資格を売り飛ばし、質屋を再建する事にしたらしい。今回の騒動が報道され、五鈴の店は世間から注目を浴び――そして、騒ぎを聞きつけた少年が、そこを訪れたとか、訪れなかったとか――。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!