時同時刻。黄崎邸。
豪華な洋室の部屋で、樒は寝台具に腰をかけながら、扇子で自分を扇いでいた。
「あら、おかえり」
扉を開くと同時に、樒は気配なく部屋の扉から顔を出した少女――黄葉に声をかける。
「あの、お嬢様」
「お礼ならいいわよ。たまには従者のおねだりくらい聞いてあげないとね」
まあ気まぐれだけど、と樒は付け足した。
「それでも、ありがとうございます」
「でも、お前も物好きね。蹴落とす相手である女を助けるために動くだなんて。あのまま平仮名と片仮名が、共倒れしてくれた方が、お前には都合が良かったんじゃなくて?」
「……それでは、意味がありませんから」
「真面目ね。でも、お前のそういう所、好きよ」
「……」
「あら? どうしたの? いつもなら、小言の一つでも出てくるのに」
「いえ、お嬢様は気まぐれかも知れませんが、今回に限り、本当に感謝しています。お蔭で……」
と、そこまで黄葉が言いかけると、彼女の背後に別の気配が立った。
「いいや、礼を言わなくてはならないのは、僕の方です。お嬢様と、黄葉様のお蔭で、僕は生き延びる事が出来たのだから」
そう言いながら、彼は部屋の入り口付近で跪いた。何故部屋に入らないのか、と疑問に思ったが、きっと樒がそれを許可していないからだろう。
――ここまで変わるとは……本当に、人って面白い。
「あら、礼はお前を助けるように懇願した、そこのお嬢ちゃんに言ってちょうだい」
と、樒は適当にあしらう。あそこまで真っ直ぐな気持ちをぶつけられるのは少し苦手だ。だからこそ、自分は数ある『椛』から、彼女を選んだ。
「礼は不要です。むしろ、貴方こそ、本当に良かったんですか? 我々が貴方にした事は、貴方が歩んできた人生そのものを奪った行為でもあるんですよ」
「最初は戸惑いました。だけど、逆に良かったと思います。顔を捨て、名前を捨て、身分を捨て、全てを失ったからこそ、見える物もあります。ひとまず、自分には、この世界が違って見えます。きっと華族の坊やのままじゃ見る事が出来なかったでしょう」
「だいぶ変わりましたね。別人のようです」
「ようでなくて、別人ですよ、黄葉様。沼倉良太は、あの晩、通り魔に殺されて死んだ。そして……僕になったんです」
*
東京・某所。
深夜、僅かなガス灯が点灯する中、静寂な空気を踏み潰しながら進む影があった。
「……っ」
息を殺して身を潜める。
そこから三秒数える。
パッと見た感じでは追っ手の気配はない。今のうちに移動した方が良いのだろうが、「大丈夫だと思ってから三秒後に行動せよ」という師の教えがあり、今すぐ逃げ出したい衝動を抑え込みながら三つ数えると――大勢の気配が目の前を通り過ぎていった。
「いたか!」
「こっちにはいないようです」
「くそ! 盗人め!」
そんな悪態をつきながら、追っ手は遠く離れていった。
――とりあえず巻いたか。
師の教えに従い、もう一度三秒数える。今度は誰も通らず、気配もない。
――よし今だ。
両手で棒状の布を抱え直し、一気に街路を駆け抜けた。
その時、影の主は、両手で抱え込んだ荷物に向かって優しく語りかける。
「大丈夫だ。お前の事は、必ず、護り抜く」
が、その刹那――ハエもとまらぬ速度で走っていた影の主の目の前に、突然分厚い扉が現れた。
がつん――
と、鈍い音と共に、影は、その場で街路に背中から倒れ込む。
「あら?」
扉から、顔より先に豊満な両胸が顔を覗かせた。
「やだ、どうしましょう!」
「モミジ、どうしたの?」
「お姉様、それが……人がいたのに気付かずに扉を開けてしまったようで」
「え、大丈夫なの? この人」
「完全に気絶していますわね。お姉様、どうしましょう?」
「仕方ないわね。とりあえず、放っておいたら、今度こそ殺人未遂で逮捕されかねないし、目を覚ますまで、うちで面倒みるか」
「流石、モミジのお姉様! 慈愛に満ちていますわ!」
「引っ付くな、鬱陶しい」
遠くで、少し低めの少女の声と、鈴の音のように甲高い少女の声が聞こえた――ような気がした。
そこで、影の主の意識は完全に深い闇へと落ちた。
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