エレベーターが1階に到着し、扉が静かに開いた。
夜の空気が、肌に冷たく触れる。
ゆいは、封筒を渡した手の感触がまだ残る指先をじっと見つめた。
——終わった。
でも、本当にこれでよかったんやろうか?
相手の男の反応は明らかにおかしかった。
警戒され、疑われた。
「お前、何者や?」
その言葉が、頭の中に焼き付いて離れない。
ゆいは、スマホを開き、美柑からの短い返信をもう一度確認する。
「ご苦労さん」
……それだけ。
何の説明もない。
ただ、やるべきことをやった、それで終わり。
ゆいは、繁華街のネオンがぼんやりと滲む道路を歩きながら、足元に視線を落とした。
——「知らんでええ」って、こういうことなんか。
知らんままでええんか?
でも、それを考えても答えは出えへん。
わかっているのは、これが「仕事」やったということだけ。
ゆいは、ゆっくりと三宮の裏路地へ向かって歩き出した。
ビルのドアを開けると、相変わらずの煙草と酒の匂いが漂ってきた。
ソファにはリョウが座り、煙草をくわえながら新聞をめくっていた。
カウンターではレナが静かにスマホをいじり、美柑はテーブルに肘をつきながら何かを考え込んでいる。
ゆいが入ってくると、美柑はすぐに顔を上げた。
「おかえり」
リョウも新聞から顔を上げ、にやりと笑う。
「お、帰ってきたな。で、どないやった?」
ゆいは、スマホに文字を打ち込む。
「……渡した」
「そっか」
美柑はそれを見て、軽く頷いた。
リョウは煙を吐きながら、ゆいの表情をじっと観察する。
「なんや、その顔」
「……?」
「不安なんか?」
ゆいは、スマホに「……違う」と打ったが、それが本心かどうかは自分でもわからなかった。
リョウは少し笑って、煙草を灰皿に押し付ける。
「まぁ、最初はそんなもんや」
すると——。
マチが、カウンターの横の自販機に寄りかかりながら、缶ジュースを手に取った。
「なんも気にすることあらへんやろ」
「……」
「ただの“運び”やったんやろ? それで終わりやん」
ゆいは、マチの言葉をじっとスマホで読み返した。
「……ほんまに、それだけ?」
スマホにそう打ち込む。
美柑が軽く笑った。
「それだけやったらあかんの?」
ゆいは、言葉を失った。
「何も考えんでええ。ただ、やるべきことをやる。それだけ」
マチが缶ジュースのプルタブを開けながら続ける。
「そんなん、いちいち気にしてたら、この世界ではやっていかれへんで?」
ゆいは、ゆっくりと視線を落とした。
「……」
美柑が、ゆいのスマホをチラリと見た後、少しだけ真剣な表情になった。
「それとも、なんか問題でもあったんか?」
ゆいは、少しだけ迷ってから、スマホに文字を打つ。
「……男に、疑われた」
その瞬間——空気が、少しだけ変わった。
リョウが目を細め、レナがスマホから顔を上げた。
美柑は、少し間を置いてから静かに聞いた。
「……どんなふうに?」
ゆいは、男が「お前、何者や?」と言ったこと、そして、電話をかけようとしていたことを簡潔に伝えた。
リョウは、ふっと息を吐いた。
「なるほどな」
マチが腕を組んだ。
「そりゃまぁ、急に知らんやつが来たら警戒もするやろ」
美柑は少し考え込むような表情になった後、ゆいの目を見た。
「で、お前はどうしたん?」
ゆいは、スマホに打ち込む。
「封筒を押し付けて、そのまま帰った」
美柑は、それを見てから、ふっと笑った。
「まぁ、ええ判断や」
リョウが軽く笑い、肩をすくめる。
「初仕事にしちゃ上出来やん」
でも、ゆいの中には、まだ違和感が残っていた。
「……これで終わり?」
スマホにそう打つと、美柑は煙草をくゆらせながら頷いた。
「せや。お前の仕事は、もう終わっとる」
——ほんまに?
何かが引っかかる。
でも、それを言葉にすることはできなかった。
ゆいは、静かに息を吐く。
「……わかった」
スマホにそう打ち込み、席に座る。
美柑は、そのゆいを見つめたまま、目を細めた。
「お前、これからもやる気あるん?」
ゆいは、一瞬だけ迷ったが、スマホを握りしめた。
そして、ゆっくりと文字を打つ。
「……うん」
その答えに、美柑は満足そうに微笑んだ。
「ええやん」
リョウが立ち上がり、ストレッチをしながら言う。
「そんじゃ、次の仕事やな」
ゆいの胸が、少しだけ高鳴る。
もう、後戻りはできない。
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