空色デイズ -音のない世界の中心で-

ただ頷いてくれればよかったのに
平木明日香
平木明日香

第28話

公開日時: 2025年2月22日(土) 21:33
文字数:1,525



——今日も、音楽室の外に立っている。


蒼一郎のピアノの音が、校舎の窓から微かに聞こえてくる。


高く澄んだ旋律。

深く響く低音。


ただ、それだけなのに、心が落ち着く。


——これは、私にとっての“音”なんやろか?


美柑は、ふとそんなことを考えた。


音楽は、聞こえる人のためにある。

でも、私は「音楽を感じている」。


「……」


武術とは違う世界に、足を踏み入れてしまったような気がした。



武道には、「間合い」がある。

それは、相手と自分の距離を測ること。


ピアノにも、「間」がある。

音と音の間には、目には見えない“空白”がある。


この“空白”は、まるで呼吸のように流れていく。


——もしかして、武術と音楽は、根本的に同じなんか?


その考えが、頭から離れなかった。


ピアノを聴くたびに、まるで自分が戦っている時と同じような感覚に陥る。


音の波、時間の流れ、そして間合い。


武術と音楽は、遠いようでいて、本当はとても近いのかもしれへん。



美柑は、何度も音楽室の前に立った。


蒼一郎の演奏を聴きながら、その“間”を感じ取ろうとする。


「……」


静かに耳を澄ませ、

指の動きを想像しながら、

音楽の流れを感じる。


まるで、それが武術の稽古であるかのように——。


ピアノの音が流れるたびに、美柑の心に、ひとつの答えが生まれ始めていた。


「音楽の間合いと、武術の間合いは、同じものかもしれへん」


もし、それを理解できれば——


武術のズレを修正する答えが、ここにあるかもしれない。



ふと、誰かが近づいてくる気配がした。


「……?」


美柑は、さりげなく身を隠し、様子をうかがった。


小柄な少女が、音楽室の前に立っていた。


——黒髪のショートカット、静かな雰囲気。


年齢は、美柑より少し下くらい。

制服のデザインからして、別の学校の生徒らしい。


少女は、しばらく窓の向こうを見上げた後、ポケットからスマホを取り出し、何かを打ち込んだ。


「……誰や?」


美柑は、不思議に思った。


彼女は明らかに、ここで蒼一郎を待っているようだった。


——あいつの知り合いなんか?



その時、ピアノの音が止まった。


音楽室の窓が開く。


そして——


「ゆい、待たせた?」


蒼一郎の声が、静かな空に響いた。


——ゆい?


少女は、スマホを見せた。


『全然、待ってないよ』


蒼一郎は、その画面を見て微笑んだ。


「そっか。じゃあ、行こっか」


ゆいは、ゆっくりと頷くと、蒼一郎のもとへ歩いて行った。


——耳が聞こえへんのか。


美柑は、2人のやりとりを見て、直感的に理解した。


蒼一郎は、彼女がスマホで伝えた言葉を読んで話していた。


——音の世界に生きる蒼一郎と、「音」が届かない世界にいる少女。


それなのに、2人の間には不思議なほど自然な距離感があった。


——あの子にとって、「音」はどんなもんなんやろう?



蒼一郎とゆいは、一緒に歩き始めた。


美柑は、そっとその背中を見送った。


「……」


音楽の中にある“間”と、武術の間合いは似ていると思っていた。


でも、この2人の間にある「距離」は、それとはまた違う何かだった。


——音がなくても、心の距離は測れるんやろか?


武術の間合いは、戦いの中での駆け引きのためにあるもの。


音楽の間合いは、旋律をつなぎ、調和を生み出すためのもの。


でも、この2人が持っているのは、もっと単純で、もっと本質的な「人と人の間合い」だった。


——もしかしたら、それが一番「確かなもの」なんかもしれへん。



蒼一郎の「音」を追いかけていたつもりだった。


でも、本当に私が探していたのは、「音」そのものやったんか?


それとも——


「音」の外側にある”何か”やったんか?


「……」


美柑は、そっと拳を握った。


自分が求めている答えは、まだわからない。


でも、確かにここに「何か」がある。


それを知るために——


もう少しだけ、蒼一郎の音を追いかけよう。

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