——今日も、音楽室の外に立っている。
蒼一郎のピアノの音が、校舎の窓から微かに聞こえてくる。
高く澄んだ旋律。
深く響く低音。
ただ、それだけなのに、心が落ち着く。
——これは、私にとっての“音”なんやろか?
美柑は、ふとそんなことを考えた。
音楽は、聞こえる人のためにある。
でも、私は「音楽を感じている」。
「……」
武術とは違う世界に、足を踏み入れてしまったような気がした。
武道には、「間合い」がある。
それは、相手と自分の距離を測ること。
ピアノにも、「間」がある。
音と音の間には、目には見えない“空白”がある。
この“空白”は、まるで呼吸のように流れていく。
——もしかして、武術と音楽は、根本的に同じなんか?
その考えが、頭から離れなかった。
ピアノを聴くたびに、まるで自分が戦っている時と同じような感覚に陥る。
音の波、時間の流れ、そして間合い。
武術と音楽は、遠いようでいて、本当はとても近いのかもしれへん。
美柑は、何度も音楽室の前に立った。
蒼一郎の演奏を聴きながら、その“間”を感じ取ろうとする。
「……」
静かに耳を澄ませ、
指の動きを想像しながら、
音楽の流れを感じる。
まるで、それが武術の稽古であるかのように——。
ピアノの音が流れるたびに、美柑の心に、ひとつの答えが生まれ始めていた。
「音楽の間合いと、武術の間合いは、同じものかもしれへん」
もし、それを理解できれば——
武術のズレを修正する答えが、ここにあるかもしれない。
ふと、誰かが近づいてくる気配がした。
「……?」
美柑は、さりげなく身を隠し、様子をうかがった。
小柄な少女が、音楽室の前に立っていた。
——黒髪のショートカット、静かな雰囲気。
年齢は、美柑より少し下くらい。
制服のデザインからして、別の学校の生徒らしい。
少女は、しばらく窓の向こうを見上げた後、ポケットからスマホを取り出し、何かを打ち込んだ。
「……誰や?」
美柑は、不思議に思った。
彼女は明らかに、ここで蒼一郎を待っているようだった。
——あいつの知り合いなんか?
その時、ピアノの音が止まった。
音楽室の窓が開く。
そして——
「ゆい、待たせた?」
蒼一郎の声が、静かな空に響いた。
——ゆい?
少女は、スマホを見せた。
『全然、待ってないよ』
蒼一郎は、その画面を見て微笑んだ。
「そっか。じゃあ、行こっか」
ゆいは、ゆっくりと頷くと、蒼一郎のもとへ歩いて行った。
——耳が聞こえへんのか。
美柑は、2人のやりとりを見て、直感的に理解した。
蒼一郎は、彼女がスマホで伝えた言葉を読んで話していた。
——音の世界に生きる蒼一郎と、「音」が届かない世界にいる少女。
それなのに、2人の間には不思議なほど自然な距離感があった。
——あの子にとって、「音」はどんなもんなんやろう?
蒼一郎とゆいは、一緒に歩き始めた。
美柑は、そっとその背中を見送った。
「……」
音楽の中にある“間”と、武術の間合いは似ていると思っていた。
でも、この2人の間にある「距離」は、それとはまた違う何かだった。
——音がなくても、心の距離は測れるんやろか?
武術の間合いは、戦いの中での駆け引きのためにあるもの。
音楽の間合いは、旋律をつなぎ、調和を生み出すためのもの。
でも、この2人が持っているのは、もっと単純で、もっと本質的な「人と人の間合い」だった。
——もしかしたら、それが一番「確かなもの」なんかもしれへん。
蒼一郎の「音」を追いかけていたつもりだった。
でも、本当に私が探していたのは、「音」そのものやったんか?
それとも——
「音」の外側にある”何か”やったんか?
「……」
美柑は、そっと拳を握った。
自分が求めている答えは、まだわからない。
でも、確かにここに「何か」がある。
それを知るために——
もう少しだけ、蒼一郎の音を追いかけよう。
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