空色デイズ -音のない世界の中心で-

ただ頷いてくれればよかったのに
平木明日香
平木明日香

第30話

公開日時: 2025年2月22日(土) 22:35
文字数:1,949



道場の床に座り込み、美柑は自分の拳を見つめていた。


「……」


灌流との組手を経て、美柑は「音楽のように戦う」ことを学んだ。


武術の「間合い」と、音楽の「リズム」。


それらを結びつけることで、自分だけの「戦い方」を見つけつつあった。


でも——


「強さ」って、なんなんやろう?


戦えば戦うほど、その問いが大きくなっていく。


強さとは、ただ敵を倒すことなのか。

それとも、揺るぎない何かを持つことなのか。


美柑は、まだその答えを見つけられずにいた。


武術の道に進むのなら、「戦う理由」を持たなければならない。


——その答えを見つけるには、まだ時間がかかりそうやな。


美柑は、静かに息を吐いた。


「……帰ろ」


道場を後にし、六甲山の坂道を下る。


ゆるやかなカーブを曲がったとき、遠くに広がる神戸の街並みが目に入った。


そして、視界の隅に異変があった。



美柑の足が止まった。


「……なんや、あれ」


三宮の中心部、ビルの群れの間から、黒くて濃い煙が空に向かって立ち昇っていた。


——火事?


いや、普通の火事とは違う気がする。


まるで「街そのものが傷ついている」ような、


——そんな不気味な煙だった。


日常の風景の中で、突如として現れた異質な存在。


人々が行き交い、車のクラクションが響く、いつもの街。


でも、あの煙だけが、“日常の外”にある出来事みたいに感じる。


遠いはずのその光景が、どこか“自分のいる場所”に向かってくるような、——奇妙な感覚。


言いようもない不安が、美柑の胸を締めつけた。


「……」


考えるより先に、足が前へと動いた。




山道を下るにつれ、黒煙が広がる様子がはっきりと見えてきた。


空の色が、徐々に不穏に染まる。


ビルの向こうから滲む炎の光。

風に流される焦げた匂い。


三宮のどこかで、何かが起こっている。


でも、ただの事故や事件とは思えなかった。


「……」


美柑は、心のどこかで感じていた。


この黒煙の先に、自分の知らない「何か」があるかもしれない。


理由もなく、そう思った。



美柑は坂を駆け下りた。


普段なら電車を使う距離だったが、そんな悠長なことは言ってられない。


自分の目で確かめたかった。


何が起こってるかを、急いで確かめたかった。


六甲山の麓を抜け、

住宅街を横切りながら、

三宮の繁華街へと向かう。


焦げた匂いが、風に乗って微かに届いてくる。


ビルの向こう、空を汚す黒煙は、美柑が足を進めるたびに、ますます大きく見えるようになっていた。


——何が起こっとるんや?


胸の奥に、得体の知れないざわつきが広がる。



三宮の駅前にたどり着くと、すでに辺りは騒然としていた。


野次馬が集まり、スマホを構えている者も多い。


遠くで消防車のサイレンが鳴り響き、パトカーが通行規制をかけていた。


美柑は人混みをかき分けながら、黒煙の立ち上る方へと進んでいく。


「何があったん?」


「なんか、ビルで爆発があったらしいで……」


「ヤバいって……人死んでんちゃう?」


周囲の会話が耳に入る。


爆発——?


ただの火事やなかったんか……?


美柑の足が、自然と速まる。



現場にたどり着いたとき、美柑は言葉を失った。


——高層ビルの上階が、激しく燃えている。


窓から噴き出す炎。

崩れ落ちた瓦礫。

煙にまみれた空。


それは、ただの「火事」ではなかった。


まるで戦場のように、ビル全体が何かに破壊されている。


「……これは」


美柑は、そのビルの名前を見て、息を呑んだ。


『ホテル オーシャンズタワー』


「……」


聞いたことがある。


母親がよく話していた、夜の街の中心にある巨大なホテル。


高級クラブやバー、カジノまで入る、金持ちたちの遊び場だった。


そこで、何が起こったんや……?



「おい、避けろ!」


警官が叫び、現場にいた人々が後退する。


同時に、黒塗りの車が何台も乗り付けてきた。


中から出てきたのは、スーツ姿の男たち。


その一人が、燃え上がるビルを見上げながら低く呟いた。


「……終わったな」


「真里亞の城が、これで完全に崩壊した」


——真里亞?


美柑は、その言葉に引っかかった。


このビルと関係がある組織の名前なんか?


それとも、ここを狙った何かのグループ?


「……」


男たちは、警察の静止も聞かずに奥へと進んでいく。


まるで、そこが自分たちの“戦場”だとでも言うように。


美柑は、自然と拳を握った。


何も知らないまま、ここを去るわけにはいかない。


この黒煙の向こうには、“自分がまだ知らん世界”がある。


その世界に——


足を踏み入れるべきかどうか。



「……」


ビルの炎が、空を赤く染めている。


——私が、今まで見とった世界は、こんな小さかったんか?


武術の強さ。

音楽の流れ。

間合いとリズム。


それらを掴んでも、結局、外の世界で何が起こっているのかを知らんかった。


「真里亞」——その名前の意味を知るべきかもしれん。


美柑は、ゆっくりと前に踏み出した。


炎の向こう側へ。


自分がまだ知らない“強さ”を探すために——。

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