空色デイズ -音のない世界の中心で-

ただ頷いてくれればよかったのに
平木明日香
平木明日香

第8話

公開日時: 2025年2月18日(火) 16:42
文字数:2,515



「さて、どこから始めよか」


美柑がソファに腰を下ろしながら、煙草の箱を軽く叩く。


「仕事って言うても、いきなりデカいことはさせられへんしな」


「そらそうやろ」


リョウが苦笑しながら腕を組む。


「まずはこいつが何をできるか見極めんとな」


ゆいは、その視線を感じながら、スマホを握りしめた。


——何が、できる?


リョウはニヤリと笑う。


「まぁ、オレらの仕事は色々あるけど……手っ取り早いんは、裏の『雑務』やな」


「雑務?」


スマホにそう打つと、リョウは肩をすくめる。


「要は、うちらの稼ぎがちゃんと流れてるか、そのチェックや」


「言うたら、小さい金の管理やな」


カウンターのレナが、指でワイングラスを回しながら呟く。


「金に関わる仕事は、あんたにはまだ無理やろうけど」


ゆいは、少し眉を寄せた。


「……なんで?」


リョウがくくっと喉を鳴らして笑う。


「金の流れってのはな、騙されるやつが損する仕組みになっとんねん。特に、こういう世界じゃな」


レナが、ゆいをじっと見つめる。


「ちゃんと見る目がないと、一瞬で食い物にされるわよ」


ゆいは、スマホの画面を見つめた。


——見る目?


自分には、そんなものがあるのか?


「ほんなら、まずは『現場』見せたるわ」


美柑が立ち上がる。


「どこ行くん?」


マチが缶コーヒーを飲みながら尋ねた。


「クラブや」


「……!」


その言葉に、ゆいは少し驚いた。


クラブ——。


夜の街の、危険な空気が漂う場所。


「まぁ、最初から深く突っ込ませるつもりはないけどな」


美柑はゆいを見つめた。


「見て覚えろ。お前がこれから生きてく場所のルールを」


ゆいは、その言葉に小さく頷いた。



クラブ「NOIR(ノワール)」

三宮の繁華街。

裏路地を抜けた先にある、一軒のクラブ。


「NOIR」と書かれたネオンが、青白く光る。


ゆいは、店の前で足を止めた。


——今から、この場所に入るんや。


美柑が、先に扉を開ける。


中から流れ出る、低く響くビート。


ゆいにはその音は聞こえない。

でも、店内の振動が、足元から伝わってきた。


——夜の世界の鼓動だった。


美柑とマチに続いて、ゆいも中へ入る。


薄暗い照明、スモークのかかった空間。

フロアでは男女が踊り、VIP席では高そうな酒が並ぶ。


そして、その片隅——。


スーツ姿の男たちが、静かに話し合っていた。


リョウがゆるく笑いながら、ゆいの肩を叩く。


「ほら、こっからが『仕事』や」


ゆいは、奥へと足を踏み出した。


——新しい世界へ、さらに深く。




——音は聞こえない。

でも、空気が、振動が、夜の世界の鼓動を伝えてくる。


クラブ「NOIR」の中は、紫と青のライトが交錯し、スモークが立ちこめていた。


カウンターではバーテンダーが手際よくグラスを並べ、フロアには密着して踊る男女。

壁際のVIP席には、派手なスーツを着た男たちが酒を片手に座っている。


ゆいは、その光景をじっと見つめた。


「圧倒されてる?」


美柑が笑いながら言う。


ゆいは、スマホを開きながら首を振った。


「……こんな場所、来たことないだけ」


「せやろな」


美柑はゆいのスマホを覗き込み、薄く笑った。


「まぁ、じきに慣れるわ」


そう言って、カウンターに向かう。

リョウとマチも後に続いた。


ゆいは、美柑の背中を追いながら、店内の隅々まで観察する。


——この場所では、何が行われているんやろう。


「ほら、お前も座れ」


リョウがゆいの肩を叩き、ソファ席に腰を下ろした。


美柑は、バーテンダーに手を上げると、軽く指を鳴らす。


その合図で、カウンターの奥から一人の男が姿を現した。


黒髪をオールバックに固め、シルバーのネックレスをつけたスーツの男。


顔の彫りが深く、目の奥が鋭い。


「美柑ちゃんか。久しぶりやな」


「お久しぶりです」


美柑は、いつもの軽い口調で応じる。


リョウがゆいの方を見た。


「こいつは、この店のオーナー。水島(みずしま)や」


ゆいは、スマホに「よろしく」と打ち込んだ。


水島は、その画面を見ると、少し目を細めた。


「……耳、聞こえへんのか?」


ゆいは頷いた。


水島は、一瞬美柑の方を見たが、特に何も言わなかった。


「それで、今日は何の用や?」


「新人の勉強や」


美柑は、ゆいの肩を叩きながら言う。


「夜の仕事ってのが、どんなもんか。見て学ばせよう思ってな」


水島は、ゆっくりと頷いた。


「ほんなら、ええタイミングやな」


そう言って、指を鳴らす。


すると——。


奥のVIP席から、二人の男が立ち上がった。


スーツを着た30代半ばの男と、その横に立つ20代前半の若い男。


リョウが軽く口笛を吹いた。


「おー、ほんまにええタイミングやな。あいつら、どこのやつ?」


水島は、ゆいの方をチラリと見てから、低い声で言った。


「神戸の西の方の組や。今度、うちと取引することになっとる」


「へぇ」


リョウは、にやりと笑った。


ゆいは、スマホに「取引?」と打ち込む。


美柑が、それを見て軽く笑う。


「そうやな。『売り』や」


「……」


その言葉の意味を、ゆいはすぐに理解できなかった。


美柑は、煙草を咥えながら続ける。


「金を回すには、何かしらの商売がいる。クラブもその一つやし、女もその一つや」


ゆいの手が、スマホの画面を握りしめる。


「ここでは、そういう金が回っとる」


レナが言っていたことが、今になってわかる。


——「金の流れを知らんと、すぐに食い物にされる」


ゆいは、視線をVIP席の男たちへ向けた。


彼らが交わしているのは、酒だけではない。

この空間には、表の社会では見えない「別のルール」がある。


「——怖い?」


美柑が、隣で聞いた。


ゆいは、少しだけ考えてから、スマホに打ち込んだ。


「怖くない。知りたい」


美柑は、その文字を見ると、口元を持ち上げた。


「ええやん」


リョウが、くくっと喉を鳴らす。


「こいつ、なかなか肝据わっとるな」


マチが、腕を組みながら微笑む。


「まぁ、最初から怖がっとるようじゃ、ここには向いてへんわな」


ゆいは、自分の胸の奥を静かに感じた。


——「怖い」わけやない。


でも、この世界の仕組みを知れば知るほど、

「今まで自分が生きてきた場所」との違いに気づく。


何も知らずに生きてきた過去。

何もできずに流されていた日々。


——あたしは、これからどこに行くんやろう。


美柑が、ゆいの肩を軽く叩く。


「ほな、もうちょい見ていこか」


クラブの奥で、取引が始まろうとしていた。

読み終わったら、ポイントを付けましょう!

ツイート