「さて、どこから始めよか」
美柑がソファに腰を下ろしながら、煙草の箱を軽く叩く。
「仕事って言うても、いきなりデカいことはさせられへんしな」
「そらそうやろ」
リョウが苦笑しながら腕を組む。
「まずはこいつが何をできるか見極めんとな」
ゆいは、その視線を感じながら、スマホを握りしめた。
——何が、できる?
リョウはニヤリと笑う。
「まぁ、オレらの仕事は色々あるけど……手っ取り早いんは、裏の『雑務』やな」
「雑務?」
スマホにそう打つと、リョウは肩をすくめる。
「要は、うちらの稼ぎがちゃんと流れてるか、そのチェックや」
「言うたら、小さい金の管理やな」
カウンターのレナが、指でワイングラスを回しながら呟く。
「金に関わる仕事は、あんたにはまだ無理やろうけど」
ゆいは、少し眉を寄せた。
「……なんで?」
リョウがくくっと喉を鳴らして笑う。
「金の流れってのはな、騙されるやつが損する仕組みになっとんねん。特に、こういう世界じゃな」
レナが、ゆいをじっと見つめる。
「ちゃんと見る目がないと、一瞬で食い物にされるわよ」
ゆいは、スマホの画面を見つめた。
——見る目?
自分には、そんなものがあるのか?
「ほんなら、まずは『現場』見せたるわ」
美柑が立ち上がる。
「どこ行くん?」
マチが缶コーヒーを飲みながら尋ねた。
「クラブや」
「……!」
その言葉に、ゆいは少し驚いた。
クラブ——。
夜の街の、危険な空気が漂う場所。
「まぁ、最初から深く突っ込ませるつもりはないけどな」
美柑はゆいを見つめた。
「見て覚えろ。お前がこれから生きてく場所のルールを」
ゆいは、その言葉に小さく頷いた。
クラブ「NOIR(ノワール)」
三宮の繁華街。
裏路地を抜けた先にある、一軒のクラブ。
「NOIR」と書かれたネオンが、青白く光る。
ゆいは、店の前で足を止めた。
——今から、この場所に入るんや。
美柑が、先に扉を開ける。
中から流れ出る、低く響くビート。
ゆいにはその音は聞こえない。
でも、店内の振動が、足元から伝わってきた。
——夜の世界の鼓動だった。
美柑とマチに続いて、ゆいも中へ入る。
薄暗い照明、スモークのかかった空間。
フロアでは男女が踊り、VIP席では高そうな酒が並ぶ。
そして、その片隅——。
スーツ姿の男たちが、静かに話し合っていた。
リョウがゆるく笑いながら、ゆいの肩を叩く。
「ほら、こっからが『仕事』や」
ゆいは、奥へと足を踏み出した。
——新しい世界へ、さらに深く。
——音は聞こえない。
でも、空気が、振動が、夜の世界の鼓動を伝えてくる。
クラブ「NOIR」の中は、紫と青のライトが交錯し、スモークが立ちこめていた。
カウンターではバーテンダーが手際よくグラスを並べ、フロアには密着して踊る男女。
壁際のVIP席には、派手なスーツを着た男たちが酒を片手に座っている。
ゆいは、その光景をじっと見つめた。
「圧倒されてる?」
美柑が笑いながら言う。
ゆいは、スマホを開きながら首を振った。
「……こんな場所、来たことないだけ」
「せやろな」
美柑はゆいのスマホを覗き込み、薄く笑った。
「まぁ、じきに慣れるわ」
そう言って、カウンターに向かう。
リョウとマチも後に続いた。
ゆいは、美柑の背中を追いながら、店内の隅々まで観察する。
——この場所では、何が行われているんやろう。
「ほら、お前も座れ」
リョウがゆいの肩を叩き、ソファ席に腰を下ろした。
美柑は、バーテンダーに手を上げると、軽く指を鳴らす。
その合図で、カウンターの奥から一人の男が姿を現した。
黒髪をオールバックに固め、シルバーのネックレスをつけたスーツの男。
顔の彫りが深く、目の奥が鋭い。
「美柑ちゃんか。久しぶりやな」
「お久しぶりです」
美柑は、いつもの軽い口調で応じる。
リョウがゆいの方を見た。
「こいつは、この店のオーナー。水島(みずしま)や」
ゆいは、スマホに「よろしく」と打ち込んだ。
水島は、その画面を見ると、少し目を細めた。
「……耳、聞こえへんのか?」
ゆいは頷いた。
水島は、一瞬美柑の方を見たが、特に何も言わなかった。
「それで、今日は何の用や?」
「新人の勉強や」
美柑は、ゆいの肩を叩きながら言う。
「夜の仕事ってのが、どんなもんか。見て学ばせよう思ってな」
水島は、ゆっくりと頷いた。
「ほんなら、ええタイミングやな」
そう言って、指を鳴らす。
すると——。
奥のVIP席から、二人の男が立ち上がった。
スーツを着た30代半ばの男と、その横に立つ20代前半の若い男。
リョウが軽く口笛を吹いた。
「おー、ほんまにええタイミングやな。あいつら、どこのやつ?」
水島は、ゆいの方をチラリと見てから、低い声で言った。
「神戸の西の方の組や。今度、うちと取引することになっとる」
「へぇ」
リョウは、にやりと笑った。
ゆいは、スマホに「取引?」と打ち込む。
美柑が、それを見て軽く笑う。
「そうやな。『売り』や」
「……」
その言葉の意味を、ゆいはすぐに理解できなかった。
美柑は、煙草を咥えながら続ける。
「金を回すには、何かしらの商売がいる。クラブもその一つやし、女もその一つや」
ゆいの手が、スマホの画面を握りしめる。
「ここでは、そういう金が回っとる」
レナが言っていたことが、今になってわかる。
——「金の流れを知らんと、すぐに食い物にされる」
ゆいは、視線をVIP席の男たちへ向けた。
彼らが交わしているのは、酒だけではない。
この空間には、表の社会では見えない「別のルール」がある。
「——怖い?」
美柑が、隣で聞いた。
ゆいは、少しだけ考えてから、スマホに打ち込んだ。
「怖くない。知りたい」
美柑は、その文字を見ると、口元を持ち上げた。
「ええやん」
リョウが、くくっと喉を鳴らす。
「こいつ、なかなか肝据わっとるな」
マチが、腕を組みながら微笑む。
「まぁ、最初から怖がっとるようじゃ、ここには向いてへんわな」
ゆいは、自分の胸の奥を静かに感じた。
——「怖い」わけやない。
でも、この世界の仕組みを知れば知るほど、
「今まで自分が生きてきた場所」との違いに気づく。
何も知らずに生きてきた過去。
何もできずに流されていた日々。
——あたしは、これからどこに行くんやろう。
美柑が、ゆいの肩を軽く叩く。
「ほな、もうちょい見ていこか」
クラブの奥で、取引が始まろうとしていた。
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