空色デイズ -音のない世界の中心で-

ただ頷いてくれればよかったのに
平木明日香
平木明日香

第27話

公開日時: 2025年2月22日(土) 21:00
文字数:1,429



Bar Ventoの扉が閉まった後も、美柑の耳には、さっきまでのピアノの余韻が残っていた。


ピアノの音は消えたはずなのに、まだどこかに響いているような気がした。


「……なんでやろ」


自分が何に惹かれているのか、まだはっきりとはわからなかった。


でも、ひとつだけ確かなことがあった。


——あの音を、もっと聞きたい。


それが、美柑の素直な気持ちだった。



カウンターに戻ると、店主のじいさんがグラスを拭いていた。


「……なぁ」


「ん?」


「さっきのピアノの子……なんで、ここで弾いとるん?」


じいさんは、クスッと笑った。


「峯岸の坊か」


「峯岸?」


「せや。峯岸蒼一郎、ピアノの天才やで」


美柑は、驚いた。


「天才?」


「あの子、小学生やのに、全国のコンクールで賞を獲っとる」


「マジか」


「この店には、たまに知り合いの演奏家が顔出すんやけどな」


「うん」


「蒼一郎は、その中のひとりに師匠がおってな」


「師匠?」


「せや。たまに“場数”を踏ませるために、ここで弾かせとるんや」


美柑は、驚きながらも納得した。


たしかに、蒼一郎のピアノは、ただの子供の演奏とは思えなかった。

確かなものがあった。


——あの子は、ただのガキやないんやな。


「……そっか」


「気になるんか?」


店主が、ニヤリと笑った。


「べつに、そんなんちゃう」


「ほぉ」


「……ただ、もうちょい聞いてみたかっただけ」


美柑は、そう言って立ち上がった。


「じゃあな、マスター」


「おう、また来いや」


店を出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。


——“音”を、もっと聞きたい。


その気持ちが、美柑を突き動かした。



次の日、美柑は三宮から少し離れた、六甲山の麓にある小学校を訪れた。


Bar Ventoでマスターに聞いた情報によると、蒼一郎が通っているのは、神戸でも有名な名門小学校だった。


「……ここか」


門の外から校舎を眺める。


自分が通っていた普通の公立小学校とは、明らかに雰囲気が違った。


広い校庭、立派な校舎、そして、行き交う生徒たちは、どこか品がある。


——私とは、まったく違う世界やな。


でも、不思議と引き返そうとは思わなかった。


それよりも——


「蒼一郎の音を、もっと聞きたい」


その気持ちだけが、美柑を動かしていた。



校舎の横に回ると、2階の窓から、かすかにピアノの音が聞こえてきた。


「……!」


それは、昨日のバーで聴いたのと同じ音だった。


でも、ここではもっと自然だった。

誰かのために弾いているわけでもなく、ただ、彼がピアノと向き合っている音だった。


——蒼一郎の“本当の音”や。


美柑は、窓の下に立ち、じっと耳を澄ませた。


彼の音楽を、少しでも感じたかった。


でも、校舎の中に入るつもりはなかった。


もう中学生だったし、縁もゆかりもない小学校の敷地に踏み込むのは、なんとなく気が引けた。


だから、美柑は外から音楽室を見上げるだけだった。


ただ、音を追いかける日々が始まった。



それから、美柑は何度もこの場所を訪れた。


放課後になると、小学校の音楽室の前で、蒼一郎のピアノを聞くようになった。


「……」


蒼一郎は、美柑が外で聞いていることに気づいていなかった。


それでよかった。


直接話したいわけじゃない。


ただ、彼の音を追いかけたかった。


武術にはない、もっと深いものが、この音の中にはある気がした。


美柑は、音楽室の外でじっと立ち尽くしながら、ピアノの旋律に耳を傾け続けた。


まるで、自分の“ズレ”を修正するために、何かを探しているように——。


音の向こうに、答えがあるかもしれへん。


そう思いながら、今日もまた、彼の音を聞いていた。

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