空色デイズ -音のない世界の中心で-

ただ頷いてくれればよかったのに
平木明日香
平木明日香

夜の街の子

第20話

公開日時: 2025年2月21日(金) 21:06
文字数:1,930

三宮の街は、昼と夜でまるで別の顔を持っている。


昼は賑やかなショッピング街、観光客やビジネスマンが行き交う活気のある街。

だが、夜になれば、そこはネオンに染まり、歓楽街としての本性を露わにする。


——そして、その世界の住人だった女がいた。


司皐月(つかさ さつき)。


夜の街の“伝説”と呼ばれた女。

絶世の美女であり、神戸のキャバクラ業界では知らぬ者はいなかった。

彼女が微笑めば、男たちは札束を積み、彼女が振り向けば、権力者たちが動く。


だが、その美しい女には、一つの秘密があった。


彼女には、一人の娘がいた。


名前は——司美柑(つかさ みかん)。



美柑が覚えている「夜」は、母親を待つ時間だった。


毎晩、キャバクラが終わるまで託児所に預けられ、

スタッフのお姉さんや他の子供たちと過ごしていた。


でも、大人になって振り返ると、そこは普通の託児所とは違った。


母親と同じように、夜の街で働く母を持つ子供たちが集まる場所。

誰もが、「夜起きている」のが当たり前の世界。


「お母さん、また今日も遅い?」


「うん」


「どこで働いてるの?」


「わからん」


それが、子供たちの会話だった。


夜が明けるまで一人で遊ぶ日も多く、母の店の近くにあるバーや居酒屋に顔を出すこともあった。


大人たちは美柑を可愛がった。


「皐月の娘か、そりゃ美人になるわな」


「大きくなったら、お母さんみたいになるんか?」


美柑は、そんな言葉を聞くたびに、無言でうつむいた。


——私は、お母さんともっと一緒にいたい。


そう思うようになったのは、小学生の頃からだった。



そんな美柑が、もう一つの「居場所」を見つけたのは、祖父の家だった。


神戸の辺境にある武道館——「一心堂」。

そこは、祖父・大重灌流(おおしげ かんる)が師範を務める道場だった。


美柑が「一心堂」の門を初めてくぐったのは、小学3年生の頃だった。


理由は、単純な好奇心だった。


「おじいちゃんのとこ、どんなとこなんやろ」


母親から聞かされていた「道場」という言葉が、なんとなく気になっていた。


だから、小学校の帰り道、ふらっと寄ってみた。


門をくぐると、畳の匂いが鼻をくすぐる。


奥では、大人たちが真剣な表情で組み合っていた。


「……!」


美柑は、思わず足を止めた。


その光景は、彼女にとってまるで“異世界”のように感じられた。


「お? 皐月の娘か?」


道場の隅に座っていた大柄な男が、美柑を見て笑った。


「おーい、先生! お孫さんが来とるで!」


奥から現れたのは、一心堂の師範であり、美柑の祖父——大重灌流だった。


「美柑か」


祖父は腕を組みながら、美柑をじっと見つめた。


「どないした?」


「ちょっと、見に来ただけ」


美柑がそう言うと、祖父は軽く頷いた。


「好きに見ていけ」


それが、美柑が道場に通い始めた最初のきっかけだった。



最初は、ただの“遊び”のつもりだった。


畳の上を歩き回るのが楽しくて、

道場の隅に座っていると、たまにお菓子をもらえた。


気が向いたら、祖父の弟子たちの動きを真似してみたり、

竹刀を振っている人を見て「かっこええな」と思ったり。


「やってみるか?」


祖父にそう言われたのは、小学3年生の頃だった。


美柑は少し迷った後、「うん」と頷いた。


「けど、痛いんは嫌やで」


「それなら、まずは“形”からやな」


祖父はそう言って、美柑に基本の動きを教えてくれた。


最初は簡単な受け身。


「こうやって転がるんや」


祖父がやってみせると、美柑は真似をした。


畳の上を転がる感覚が楽しくて、何度もやった。


それは「強くなりたい」とか、「武道を学びたい」とか、そういうのではなく、ただ単純に“面白い”からだった。




「お前、覚えがええな」


祖父にそう言われるのが、なんとなく嬉しかった。


家では、母親はいつも仕事で忙しく、大人たちに囲まれた託児所の中で、「お母さんは人気者やから」と言われながら、ただ待つだけの日々。


けど、ここに来れば、誰かがちゃんと向き合ってくれた。


「おじいちゃん、もう一回やって!」


「ほう、まだやるか」


「やる!」


「なら、明日も来るとええ」


それから、美柑は学校が終わると自然と道場に寄るようになった。


道場の人たちはみんな優しかったし、

祖父はいつも美柑を歓迎してくれた。


——それが、美柑にとっての「居場所」になっていった。



美柑が本気で武道に打ち込むようになるのは、もっと後のことだった。


ただの遊びで、暇つぶし。


それが当たり前だった。


一度も真剣に武道に向き合ったことはなかった。


「道場って楽しい!」


そういう感情だけで、「強くなりたい」なんて、一度も思ったことはなかった。


それよりも——


「今日も、おじいちゃんのとこ行こ」


「また“転がり”やろ!」


「おじいちゃんの“あれ”やって!」


そんな風に、無邪気に笑っていた。


そうすれば、夜の寂しさを紛らわすことができたから。




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