「何があかんのやろう」
ゆいはホテル街の前に立ち尽くしながら、そう思った。
高校生でも、探せば相手なんていくらでもいる。
適当な男を捕まえて、さっさと済ませるだけの話や。
そう思っていた。
なのに——なぜか、足が動かない。
スマホの画面を見つめる。
男の連絡先はいくらでもある。
夜の店で出会った相手。
街でナンパしてきた相手。
適当に連絡を送れば、すぐにホテルに行ける。
なのに。
——蒼一郎の顔が浮かんだ。
『なぁ、お前ほんまにそれでええんか?』
カフェでの言葉が、頭から離れない。
「……なんでやねん」
ゆいはスマホを握りしめた。
「関係ないやろ」
蒼一郎なんか、関係ない。
彼は何も知らん。
あたしの世界に関係のない人間や。
「……関係ない、はずやのに」
なぜか、踏み出せなかった。
足が動かへん。
喉が渇く。
ゆいは苛立ちを覚えながら、その場を離れた。
どこを歩いているのか、よくわからなかった。
夜の街を彷徨いながら、考える。
「何があかんのやろ」
処女を捨てるだけやのに。
ただの行為やのに。
美柑にも言われた。
『好きでもない男に抱かれて、金を稼ぐ。言葉にしたら簡単やけどな、実際やるとなったら話は別や』
あの時は「そんなもん簡単や」と思った。
でも今、自分はこうして迷っている。
「……」
ゆいはスマホを開き、美柑の名前を見つめた。
彼女に会いに行こう。
こんな時、どうしたらええのか。
美柑なら、わかるかもしれへん。
「今から会える?」
スマホの画面を見つめながら、美柑にメッセージを送った。
数秒後——既読がつく。
「ええで。西埠頭の海岸な。1時間後」
それだけの短い返信。
ゆいはスマホを閉じ、歩き出した。
西埠頭。
神戸のベイエリアにある、静かな海岸。
街の光が反射して、夜の海がキラキラと輝く場所。
そこに行けば、美柑に会える。
何かが変わるかもしれない。
駅構内の階段を降りた後、三宮の繁華街を抜け、ゆっくりとハーバーランドの方へ歩いていった。
神戸ハーバーランドのショッピングモールに着くと、目についたベンチに腰を下ろした。
待ち合わせまで、あと40分。
特にやることもない。
ゆいはショッピングモールの中をフラフラと歩いた。
ブランドショップのガラス越しに、きらびやかなバッグや服が並んでいる。
ファミリー向けのレストランからは、食事を楽しむ親子連れの姿が見えた。
世界は、普通に回っている。
誰もが、自分のいる世界の中で生きている。
でも、自分にはもう関係ない。
「……」
店のウィンドウをぼんやりと眺めながら、ゆいは歩いた。
そのとき——。
突然、誰かに肩を掴まれた。
「……!」
驚いて振り返ると、そこには見覚えのある3人の女子が立っていた。
宮下(みやした)、西本(にしもと)、高梨(たかなし)。
学校で、何度も何度も、ゆいをいじめていた連中。
彼女たちは、ゆいの前で何かを言っている。
——でも、聞こえない。
宮下が口を大きく開いて、何かを叫ぶ。
西本が指をさしながら、楽しそうに笑う。
高梨はスマホをいじりながら、時折こちらをチラチラと見ている。
ゆいは何もわからなかった。
でも、彼女たちがどんなことを言っているのかは、なんとなくわかる。
学校で、何度も聞いてきた言葉だから。
「耳聞こえへんのに、学校なんか来て意味ある?」
「気持ち悪い」
「なんかずっと、ボーッとしてるよな」
「こっち見んなや」
聞こえなくても、感じる。
彼女たちが自分に向ける悪意は、形のない鋭い刃のように突き刺さる。
「……」
ゆいは何も言わず、立ち去ろうとした。
だが——宮下が腕を掴んだ。
「……?」
何かを言っている。
笑っている。
西本がスマホの画面をこちらに向けた。
そこには、「なんで学校来なくなったん?」と打たれていた。
ゆいは、画面を見つめたまま、動かなかった。
——何を言っても、無駄や。
何かを答えたとしても、彼女たちはそれを笑うだけ。
だから、何も言わない。
それが、一番楽な方法や。
ゆいは俯いた。
「……」
西本がまた何かを言う。
すると、宮下と高梨が笑い出した。
次の瞬間、宮下がゆいの制服のリボンを引きちぎった。
「……!?」
ゆいが驚いて後ずさると、今度は高梨がスカートの裾を掴んで引っ張る。
——何をされてる?
よくわからなかった。
彼女たちは何かを言いながら、次々と服を乱暴に脱がせようとする。
ゆいは抵抗しようとしたが、人数が多すぎた。
宮下がスマホを取り出し、どこかに電話をかける。
——男?
口の動きで、わかった。
誰かの名前を呼びながら、楽しそうに話している。
西本と高梨がそれを聞いて、嬉しそうに笑った。
ゆいは、じっと彼女たちの顔を見つめた。
——ああ。
彼女たちにとって、自分は「道具」なんや。
殴るための道具。
バカにするための道具。
ストレスを発散するための道具。
ずっとそうやった。
学校にいた頃から、ずっと。
それが、今も変わってへんだけや。
「……」
宮下が電話を切った。
そして、画面をゆいに向ける。
そこには、「今からあんたの“遊び相手”が来るから、大人しくしてな?」と書かれていた。
ゆいは、それを読んだ瞬間——走った。
「!!」
宮下が叫ぶ。
西本と高梨も、慌てて追いかけようとする。
でも、ゆいはすでに全力で走っていた。
全身の血が沸騰しそうなほど熱い。
考える余裕なんかない。
ただ走るしかなかった。
走る、走る、走る。
耳を塞ぐ必要なんてなかった。
どうせ、何も聞こえへんから。
彼女たちの罵声も、追いかける足音も、すべて無音の世界の中に溶けていく。
逃げなあかん。
逃げなあかん。
逃げなあかん——!!
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