空色デイズ -音のない世界の中心で-

ただ頷いてくれればよかったのに
平木明日香
平木明日香

第15話

公開日時: 2025年2月20日(木) 00:55
文字数:2,892





目を覚ましたとき、天井のシャンデリアがぼんやりと視界に映った。


——ここはどこやったっけ?


ゆいは、まだ夢の中にいるような感覚のまま、ゆっくりと身体を起こした。


部屋の空気はひんやりしていて、ほのかに香水の匂いが漂っている。


リビングのソファには、ナナが毛布にくるまりながら眠っていた。


ユウカは床に寝転び、ポッキーの箱を枕代わりにしている。


アオイだけはすでに起きていて、キッチンで水を飲んでいた。


「お、起きた?」


アオイが気づいて、軽く手を振る。


ゆいは頷き、スマホを手に取った。


「おはよう」


「おはよーさん。昨日の夜、思ったより騒ぎすぎたな」


アオイは少し笑いながら、冷蔵庫を開ける。


「……腹減ってへん? なんか食う?」


ゆいは一瞬迷ったが、「うん」と打ち込んだ。


アオイは冷蔵庫から適当にヨーグルトを取り出して、ゆいに渡す。


「ほれ、これでええ?」


「ありがとう」


ゆいは、それを受け取ってスプーンを口に運んだ。


——ここに来てから、誰かとこんな風に朝を迎えるのは初めてやった。


家を出て、ひとりになったはずやのに。

この場所には、同じように「居場所を求めてる」人たちがいた。


ゆいはスマホを見つめながら、心の中の何かが少しずつ変わっていくのを感じていた。




「——さて、そろそろ行くで」


部屋のドアが開き、マチが無造作に入ってきた。


「お前、今日の仕事の内容、ちゃんと覚えとるか?」


ゆいは頷き、スマホに「金の受け渡しの確認」と打ち込む。


「そうや」


マチは腕を組みながら、ゆいを見た。


「ただの“確認”や。でもな、そんなんで済むとは限らん」


「……?」


「そもそも、うちらの金を持っとるのに、何週間も払わへん時点で、向こうはナメとる可能性が高い」


ゆいは、スマホを握りしめた。


「つまり?」


「覚悟しとけってことや」


マチは、にやっと笑う。


「まぁ、いきなりお前に戦えとは言わへんけどな」


「……」


「でも、どこまで“強く”なれるか——お前次第やで」


そのとき——。


「話は聞かせてもろたわ」


ドアの向こうから、美柑が現れた。


昨日の夜のままの余裕のある表情。

ただ、少しだけゆいのことを試すような目をしていた。


「ほんなら、お前に聞こうか」


美柑はゆいの正面に立ち、じっと目を見つめる。


「お前、昨日“強くなりたい”って顔しとったけど——ほんまにそうなん?」


ゆいは、スマホを握りしめた。


「……」


「まぁ、答えんでもええ」


美柑は笑う。


「でも、今日の仕事で、お前がほんまにこっちの世界でやっていけるか、決まるんやで」


「……」


ゆいは、その言葉を噛み締めながら、スマホに短く打ち込んだ。


「わかった」


美柑は、その文字を見て、ゆっくりと微笑んだ。


「ほな、行こか」


ゆいは立ち上がり、初めての「交渉」の場へと向かう。



「ほな、行こか」


美柑にそう言われ、ゆいはマチとともにマンションを出た。


街は朝の光を浴びていたが、ゆいの心の中はどこか曇っていた。


——これは、ただの確認やない。


マチが言っていた「覚悟しろ」という言葉が、ずっと頭の中で繰り返されていた。


「大丈夫か?」


マチがタバコをくわえながら歩く。


ゆいはスマホに「うん」と打ち込む。


「ほんならええ」


三宮の駅を抜け、繁華街の端にある雑居ビルへと向かう。


目指すのは、そのビルの3階にあるバーの裏部屋や。


——ゆいにとって、初めての「仕事」の場所。







狭い階段を上り、重たい鉄製のドアを押す。


薄暗い店内には、酒の匂いとタバコの煙が充満していた。


カウンターの奥から、ガラの悪い男が顔を出す。


「誰や?」


マチが無造作に歩み寄り、男の顔を覗き込む。


「お前、田村やろ?」


男——田村は30代前半くらい。

髪は金髪に染めているが、根元は黒く伸び、

派手なブランドジャージの上下を着ていた。


どこかホスト崩れのチンピラという感じやった。


「……なんやねん、朝っぱらから」


「決まっとるやろ」


マチはポケットから折りたたんだ紙を取り出し、田村の胸元に突きつけた。


「これ、お前の未払い分や。さっさと払えや」


田村は、その紙をちらりと見て、苦笑する。


「はぁ……そんなん、すぐ払え言われてもなぁ」


「お前、何週間待たせとる思っとんねん?」


マチの声が一気に低くなる。


ゆいは、スマホを握りしめながら、じっと2人を見つめていた。


——この場の空気が変わる瞬間を、肌で感じた。


「いや、払うつもりはあるんやけどな」


田村はニヤニヤしながらカウンターに寄りかかる。


「ちょっと時間が欲しいねん」


「時間?」


「せや。あと……1ヶ月くらい待ってくれたら、なんとかすんで」


マチの目が細くなる。


「お前、ナメとんのか?」


「ナメてへんやん。ただ、もうちょい待ってくれってだけの話や」


田村は飄々とした態度のまま、足を組んだ。


「そっちの子は、新入りか?」


田村の視線が、ゆいに向けられる。


「……」


「おいおい、めっちゃ可愛いやん。どこで拾ってきたん?」


田村は口元を歪めながら笑う。


「お前も、こんなとこおらんと、もっとええ仕事したほうがええんちゃう?」


ゆいは、何も言わずにスマホを見つめたまま、じっと田村を見た。


——この男は、絶対に払う気がない。


マチは、短く息を吐くと、ポケットから何かを取り出した。


カチッ


折りたたみナイフの刃が光る。


「お前、ほんまに払うつもりないんか?」


「……!」


田村の顔から、わずかに余裕が消える。


「おいおい、ちょっと待てって……」


「待てへん。払えんのか? 払われへんのか?」


マチは無表情のまま、ナイフを田村の喉元に押し当てた。


「——せやなぁ」


田村は一瞬の沈黙の後、薄く笑った。


「じゃあ、代わりにこの子置いていくってのは?」


ゆいの身体が一瞬、固まる。


「……っ」


「おい、お前……」


マチの目が一気に鋭くなった瞬間。


「——払うんか、払わへんのか」


ゆいが、スマホにそう打ち込み、田村に突きつけた。


「……え?」


「金がないなら、どうするか決めろや」


ゆいの指が震えていた。


でも、引くわけにはいかへんかった。


「……ちっ」


田村は、舌打ちをして、ポケットから財布を取り出した。


「わかったわ。半分だけなら、今払える」


「残りは?」


「……来週」


マチはナイフをしまい、腕を組む。


「しゃーない。ほな、来週また来るわ」


田村は、しぶしぶ金をカウンターに置く。


「ほな、次は待たへんで」


マチがそう言い、ゆいの肩を軽く叩く。


「行くで」


ゆいは、スマホを握りしめたまま、その場を後にした。




「……お前、さっき震えてたな」


ビルを出たあと、マチがふと笑った。


「緊張してた?」


ゆいは、「うん」と打ち込む。


「まぁ、初めてやしな」


マチはポケットからタバコを取り出し、火をつける。


「でも、お前、ちゃんと立っとったで」


「……」


「お前が、最後に“決めろ”言うたから、あのアホも折れたんや」


ゆいは、スマホの画面を見つめたまま考えた。


——これが、“仕事”なんや。


交渉なんて、綺麗ごとじゃない。

相手が払う気がないなら、それを強制的に引き出す。


——強さが必要なんや。


ゆいは、スマホに短く文字を打った。


「次は、もっとちゃんとできる」


マチは、それを見て、ニヤッと笑う。


「ええ心がけや」


「ほな、美柑ちゃんに報告しに行こか」


ゆいの心の中で、ほんの少しだけ“覚悟”が生まれ始めていた。



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