空色デイズ -音のない世界の中心で-

ただ頷いてくれればよかったのに
平木明日香
平木明日香

第2話

公開日時: 2025年2月13日(木) 00:36
文字数:4,110



蒼一郎を選んだのは、手っ取り早かったからだ。


学校に行かなくなる前までは、毎日のように一緒にいた。

彼はゆいを特別扱いせず、普通に接してくれる数少ない人間だった。


ゆいにとっては、それだけのこと。


だから、彼を選んだ。


「知り合いの男と寝てこい」


美柑の言葉が頭をよぎる。


ゆいはスマホを取り出し、蒼一郎の連絡先を開いた。

最後に会話したのは、いつだったか。


迷いはなかった。

ためらう必要もない。


——チャットボタンを押す。


数回のコール音のあと、画面が繋がった。


『……ゆい?』


蒼一郎の声が、画面の中で変換される。


「久しぶり」


『お前、どこにおるん? ずっと連絡取れんかったやんか』


彼の言葉には、わずかに安堵が混じっていた。


ゆいは冷静に文字を打つ。

スマホの音声アプリが、電子音で変換する。


「話したいことがある。会える?」


『……え? あ、うん。どこおるん?』


「駅前のカフェ」


『……わかった。すぐ行く』


チャットを切ると、ゆいは画面を見つめた。


心臓が、少しだけ早くなっている気がした。



30分後、蒼一郎がカフェに現れた。


黒のパーカーにジーンズという、変わらないラフな格好。

相変わらず、目立つ顔立ちをしていた。


彼はゆいを見つけると、小さく笑った。


『……久しぶり。元気してたん?』


ゆいは軽く頷いた。


蒼一郎が席に座る。


『なんかさ……めっちゃ久しぶりやん。学校、全然来てへんかったやろ』


ゆいはスマホを取り出し、メッセージを打つ。


「学校、やめた」


蒼一郎の表情がわずかに強張る。


『……え? え、なんで?』


「意味ないから」


短く返すと、彼はしばらく黙った。


何かを言いたげだったが、言葉を飲み込んだ。


そして、ゆいは本題を切り出す。


「お願いがある」


蒼一郎は驚いたように目を見開く。


『……え、なに?』


ゆいはスマホの画面を見つめながら、ゆっくりと文字を打った。


「あんたと、寝たい」


蒼一郎の顔が、固まった。


『……え?』


まばたきすら忘れたような顔で、スマホの画面を見つめる。


『え、えっと……え?』


ゆいは、もう一度送信する。


「処女を捨てたい。手っ取り早いから、あんたを選んだ」


蒼一郎の耳まで赤くなった。


『……ちょ、ちょっと待ってや』


彼は慌てて、カフェの周りを見回した。

まるで誰かにこの会話を聞かれていないか確認するように。


『えっと……あの……え? え?』


「何回聞くん?」


『いや、いやいや……え、え、え? いや……』


完全にパニックになっていた。


『ちょ、えっと……なんでそんなこと言うん?』


ゆいは静かにメッセージを打つ。


「理由がいる?」


蒼一郎は、困惑した顔で画面を見つめる。


『いや、理由がいるとかいう話ちゃうやん……そもそも……そもそもさ……』


彼は何度も口を開いては閉じ、言葉を探した。


『……え、ほんまに? え、冗談とかやないん?』


「本気やで」


蒼一郎の指が、ぎゅっとズボンの上で握りしめられる。


『……なんか、お前、めっちゃ変や』


「そう? 普通やけど」


『いや、普通ちゃうって……』


彼の声は、どんどん小さくなっていた。


『てかさ……そもそも、俺が相手って、おかしない?』


「おかしい?」


『いや、その……俺、そんなの、したことないし……』


彼の顔は真っ赤だった。


『お前も、やろ? そもそも、そんなのって、そんな、簡単にするもんちゃうやん……』


ゆいは、首を傾げる。


「なんで?」


『なんでって……』


蒼一郎は、口を開いたまま、言葉を詰まらせる。


『……お前、ほんまにそれでええん?』


「うん」


ゆいは淡々と答えた。


本当に、そう思っていた。


「あんたが無理なら、別の男探すけど」


その言葉を聞いた瞬間、蒼一郎の拳がテーブルを叩いた。


周囲の客が一瞬こちらを見たが、彼はそれを気にする様子もなかった。


『なぁ……お前、ほんまにそんなことでええんか?』


「何が?」


『そんな、誰でもええみたいに処女捨てるとか……』


「どうでもええねん。処女に価値なんかない」


蒼一郎は、息を詰まらせた。


彼はしばらく俯いたあと、小さな声で呟いた。


『……俺は、無理や』


「なんで?」


蒼一郎は、ゆっくり顔を上げる。


『……お前のこと、そんなふうに扱われへん』


ゆいは、何も言えなかった。


心の奥で、何かが揺れた。



それが何なのか、ゆいにはわからなかった。


ただ、わからなくても関係ない。

蒼一郎が拒否したなら、それで終わりだ。

この話は、もう終わり。


ゆいはスマホを閉じ、椅子から立ち上がろうとした。


しかし——。


『……なぁ、なんでやめたん?』


蒼一郎の声が聞こえた。


ゆいは、一瞬だけ手を止めた。


彼はじっとこちらを見つめている。

その目には、怒りも呆れもない。ただ、ただ真っ直ぐな疑問だけがあった。


ゆいは再びスマホを開き、冷静に文字を打つ。


「言ったやん。意味ないから」


蒼一郎は、わずかに眉をひそめた。


『意味ないって……何が?』


「全部」


『全部って、なんやねん……』


彼の声が、少し強くなった。


『勉強も? 友達も? それに、ピアノも……全部意味ないんか?』


その言葉に、ゆいはふと記憶を遡った。




中学時代の放課後——。


蒼一郎の指先が、ゆっくりと動いた。


『ユ・イ』


手話でゆいの名前を表現する。


「また間違えとるで」


ゆいがそう言うと、蒼一郎は「え?」と困惑した顔をする。


「ここはもうちょい、こう」


ゆいが手を動かして見せると、蒼一郎はじっとそれを見つめ、真似した。


『これで、合ってる?』


「まあまあやな」


蒼一郎は「ふう」と息を吐きながら笑った。


『やっぱ、手話って難しいわ』


「そっちが難しいなら、あたしもピアノやるわ」


『えっ? マジで?』


「でも、耳聞こえへんし、無理やけどな」


『そんなん関係ないやろ』


蒼一郎は自分のスマホを取り出し、あるピアノ曲の動画を開いた。


『音はな、耳で聴くだけやない。指で感じるもんや』


そう言って、ゆいの手を取った。

そして、ピアノの鍵盤の上にそっと置く。


『俺の音、ちゃんと伝わる?』


鍵盤が静かに振動するのを、ゆいは指先で感じた。


でも、それが「音」なのかどうか、よくわからなかった。


「なんか、震えてるだけやけど」


『そうか……』


蒼一郎は少し悔しそうに笑った。


『でもな、俺は思うねん』


ゆいは彼を見る。


『世界には音があるはずやって。耳が聞こえへんくても、言葉が通じへんくても、それはちゃんとあるはずやねん』


蒼一郎は真剣な顔で言った。


『だから、俺はお前に、いつか音を届ける』


その言葉が、当時のゆいにはよくわからなかった。


でも、彼が本気でそう思っていることだけは伝わった。


現在——。


「あたしにとっては、意味ない」


ゆいは、冷静にメッセージを送信した。


蒼一郎の顔が、わずかに曇る。


『意味ないって……?』


「普通の生活。普通の人間関係。全部、おんなじことの繰り返しやん。何やっても、同じ。何も変わらんし、誰も変わらん。そんなん、飽きるに決まってるやろ」


蒼一郎は口を開こうとしたが、言葉が出なかった。


ゆいは、ゆっくりとメッセージを打つ。


「蒼一郎は、毎日おんなじ景色見てて飽きへんの? なんでそんなこと続けられるん?」


蒼一郎は、きつく唇を噛んだ。


『……俺は、ピアノが好きやから』


ゆいは、微笑んだ。


「そういうのが、あたしにはないねん」


蒼一郎は、黙ったままゆいを見つめた。


『……じゃあ、これから何するん?』


「もう決まってる」


『……どこで、何を?』


「あたしは、もう新しい世界に入ってる」


ゆいは立ち上がった。


「もう行くわ。あんたも、ピアノ頑張りや」


そう言い残し、彼の視界から立ち去った。



カフェを出ると、ゆいはゆっくりと河川敷へ向かった。


空は、鮮やかなオレンジ色に染まっていた。


夏の終わり。


太陽はまだ少し高い位置にあったが、遠くのビル群の向こうに沈みかけている。


河川敷の風は生ぬるく、川の流れる音が遠くで響いていた。


——「音」って、なんなんだろう。


ゆいは、川面をじっと見つめた。


静かな水面が、時折小さく揺れる。

その波紋の向こうに、ビルの光がちらちらと揺らめいていた。


足元の草むらには、どこからか飛んできたコンビニのレシートが舞い込んでいる。


「……」


ゆいは無意識にスマホを開き、蒼一郎とのメッセージ履歴を見た。


「なんで、あんたを選んだんやろ」


そう呟いても、答えは出なかった。


恋心があるわけではない。


蒼一郎のことを特別に思ったこともない。

なのに、どうして彼を誘ったんだろう。


もっと適当な相手を探せばよかった。

適当に誰かと寝てしまえば、それでよかった。


なのに、蒼一郎の顔が浮かぶ。

彼の、困惑した顔。

彼の、真っ直ぐな問いかけ。


『お前、ほんまにそれでええん?』


その言葉が、どうしても頭の中から消えなかった。


「……わからへん」


河川敷のベンチに腰を下ろし、空を見上げる。


蒼一郎は、昔から「音」のことを話していた。

ピアノの旋律。

リズム。

世界の音。


耳が聞こえない自分には、すべてが無意味な言葉だった。


——「世界には音があるはずやって。耳が聞こえへんくても、言葉が通じへんくても、それはちゃんとあるはずやねん。」


彼は、そう言っていた。


ゆいには、それが信じられなかった。

そんなもの、あるわけないじゃん。


音は、耳で聞こえるもの。

それが聞こえなければ、世界に音なんて存在しない。


ただ、それだけの話でしょ?


でも。


どうしても、心の中で引っかかっていた。


川の流れを眺める。


風が吹いて、河川敷の草が揺れる。


この動きに、音があるんだろうか?

この川の水の動きにも、音があるんだろうか?


「……ないやろ」


ゆいはそう呟く。


でも、もし蒼一郎がここにいたら、なんて言うんだろう。


「あるで。ちゃんとある」


そんなふうに、笑いながら言うんだろうか。


ふと、自分の手を見つめる。


ピアノの鍵盤に触れたときの感覚。

あの、微かな振動。


あれは、音なんか?


「わからへん……」


また、わからないことが増えた。


世界は、無機質で、ただ流れていくだけのものだと思っていたのに。


ゆいは、軽く膝を抱えて、夕日を見つめた。


オレンジの光が、静かに水面に反射していた。


この光にも、「音」があるんだろうか。


それを、知る方法はあるんだろうか。


いや、そんなことは考えても無駄や。

どうせ、音なんて存在せえへん。


生きる価値なんて、どこにもない。

これから先、どうやって生きていけばいいのかも、わからない。


でも——。


この夕日は、綺麗だった。

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