蒼一郎を選んだのは、手っ取り早かったからだ。
学校に行かなくなる前までは、毎日のように一緒にいた。
彼はゆいを特別扱いせず、普通に接してくれる数少ない人間だった。
ゆいにとっては、それだけのこと。
だから、彼を選んだ。
「知り合いの男と寝てこい」
美柑の言葉が頭をよぎる。
ゆいはスマホを取り出し、蒼一郎の連絡先を開いた。
最後に会話したのは、いつだったか。
迷いはなかった。
ためらう必要もない。
——チャットボタンを押す。
数回のコール音のあと、画面が繋がった。
『……ゆい?』
蒼一郎の声が、画面の中で変換される。
「久しぶり」
『お前、どこにおるん? ずっと連絡取れんかったやんか』
彼の言葉には、わずかに安堵が混じっていた。
ゆいは冷静に文字を打つ。
スマホの音声アプリが、電子音で変換する。
「話したいことがある。会える?」
『……え? あ、うん。どこおるん?』
「駅前のカフェ」
『……わかった。すぐ行く』
チャットを切ると、ゆいは画面を見つめた。
心臓が、少しだけ早くなっている気がした。
30分後、蒼一郎がカフェに現れた。
黒のパーカーにジーンズという、変わらないラフな格好。
相変わらず、目立つ顔立ちをしていた。
彼はゆいを見つけると、小さく笑った。
『……久しぶり。元気してたん?』
ゆいは軽く頷いた。
蒼一郎が席に座る。
『なんかさ……めっちゃ久しぶりやん。学校、全然来てへんかったやろ』
ゆいはスマホを取り出し、メッセージを打つ。
「学校、やめた」
蒼一郎の表情がわずかに強張る。
『……え? え、なんで?』
「意味ないから」
短く返すと、彼はしばらく黙った。
何かを言いたげだったが、言葉を飲み込んだ。
そして、ゆいは本題を切り出す。
「お願いがある」
蒼一郎は驚いたように目を見開く。
『……え、なに?』
ゆいはスマホの画面を見つめながら、ゆっくりと文字を打った。
「あんたと、寝たい」
蒼一郎の顔が、固まった。
『……え?』
まばたきすら忘れたような顔で、スマホの画面を見つめる。
『え、えっと……え?』
ゆいは、もう一度送信する。
「処女を捨てたい。手っ取り早いから、あんたを選んだ」
蒼一郎の耳まで赤くなった。
『……ちょ、ちょっと待ってや』
彼は慌てて、カフェの周りを見回した。
まるで誰かにこの会話を聞かれていないか確認するように。
『えっと……あの……え? え?』
「何回聞くん?」
『いや、いやいや……え、え、え? いや……』
完全にパニックになっていた。
『ちょ、えっと……なんでそんなこと言うん?』
ゆいは静かにメッセージを打つ。
「理由がいる?」
蒼一郎は、困惑した顔で画面を見つめる。
『いや、理由がいるとかいう話ちゃうやん……そもそも……そもそもさ……』
彼は何度も口を開いては閉じ、言葉を探した。
『……え、ほんまに? え、冗談とかやないん?』
「本気やで」
蒼一郎の指が、ぎゅっとズボンの上で握りしめられる。
『……なんか、お前、めっちゃ変や』
「そう? 普通やけど」
『いや、普通ちゃうって……』
彼の声は、どんどん小さくなっていた。
『てかさ……そもそも、俺が相手って、おかしない?』
「おかしい?」
『いや、その……俺、そんなの、したことないし……』
彼の顔は真っ赤だった。
『お前も、やろ? そもそも、そんなのって、そんな、簡単にするもんちゃうやん……』
ゆいは、首を傾げる。
「なんで?」
『なんでって……』
蒼一郎は、口を開いたまま、言葉を詰まらせる。
『……お前、ほんまにそれでええん?』
「うん」
ゆいは淡々と答えた。
本当に、そう思っていた。
「あんたが無理なら、別の男探すけど」
その言葉を聞いた瞬間、蒼一郎の拳がテーブルを叩いた。
周囲の客が一瞬こちらを見たが、彼はそれを気にする様子もなかった。
『なぁ……お前、ほんまにそんなことでええんか?』
「何が?」
『そんな、誰でもええみたいに処女捨てるとか……』
「どうでもええねん。処女に価値なんかない」
蒼一郎は、息を詰まらせた。
彼はしばらく俯いたあと、小さな声で呟いた。
『……俺は、無理や』
「なんで?」
蒼一郎は、ゆっくり顔を上げる。
『……お前のこと、そんなふうに扱われへん』
ゆいは、何も言えなかった。
心の奥で、何かが揺れた。
それが何なのか、ゆいにはわからなかった。
ただ、わからなくても関係ない。
蒼一郎が拒否したなら、それで終わりだ。
この話は、もう終わり。
ゆいはスマホを閉じ、椅子から立ち上がろうとした。
しかし——。
『……なぁ、なんでやめたん?』
蒼一郎の声が聞こえた。
ゆいは、一瞬だけ手を止めた。
彼はじっとこちらを見つめている。
その目には、怒りも呆れもない。ただ、ただ真っ直ぐな疑問だけがあった。
ゆいは再びスマホを開き、冷静に文字を打つ。
「言ったやん。意味ないから」
蒼一郎は、わずかに眉をひそめた。
『意味ないって……何が?』
「全部」
『全部って、なんやねん……』
彼の声が、少し強くなった。
『勉強も? 友達も? それに、ピアノも……全部意味ないんか?』
その言葉に、ゆいはふと記憶を遡った。
中学時代の放課後——。
蒼一郎の指先が、ゆっくりと動いた。
『ユ・イ』
手話でゆいの名前を表現する。
「また間違えとるで」
ゆいがそう言うと、蒼一郎は「え?」と困惑した顔をする。
「ここはもうちょい、こう」
ゆいが手を動かして見せると、蒼一郎はじっとそれを見つめ、真似した。
『これで、合ってる?』
「まあまあやな」
蒼一郎は「ふう」と息を吐きながら笑った。
『やっぱ、手話って難しいわ』
「そっちが難しいなら、あたしもピアノやるわ」
『えっ? マジで?』
「でも、耳聞こえへんし、無理やけどな」
『そんなん関係ないやろ』
蒼一郎は自分のスマホを取り出し、あるピアノ曲の動画を開いた。
『音はな、耳で聴くだけやない。指で感じるもんや』
そう言って、ゆいの手を取った。
そして、ピアノの鍵盤の上にそっと置く。
『俺の音、ちゃんと伝わる?』
鍵盤が静かに振動するのを、ゆいは指先で感じた。
でも、それが「音」なのかどうか、よくわからなかった。
「なんか、震えてるだけやけど」
『そうか……』
蒼一郎は少し悔しそうに笑った。
『でもな、俺は思うねん』
ゆいは彼を見る。
『世界には音があるはずやって。耳が聞こえへんくても、言葉が通じへんくても、それはちゃんとあるはずやねん』
蒼一郎は真剣な顔で言った。
『だから、俺はお前に、いつか音を届ける』
その言葉が、当時のゆいにはよくわからなかった。
でも、彼が本気でそう思っていることだけは伝わった。
現在——。
「あたしにとっては、意味ない」
ゆいは、冷静にメッセージを送信した。
蒼一郎の顔が、わずかに曇る。
『意味ないって……?』
「普通の生活。普通の人間関係。全部、おんなじことの繰り返しやん。何やっても、同じ。何も変わらんし、誰も変わらん。そんなん、飽きるに決まってるやろ」
蒼一郎は口を開こうとしたが、言葉が出なかった。
ゆいは、ゆっくりとメッセージを打つ。
「蒼一郎は、毎日おんなじ景色見てて飽きへんの? なんでそんなこと続けられるん?」
蒼一郎は、きつく唇を噛んだ。
『……俺は、ピアノが好きやから』
ゆいは、微笑んだ。
「そういうのが、あたしにはないねん」
蒼一郎は、黙ったままゆいを見つめた。
『……じゃあ、これから何するん?』
「もう決まってる」
『……どこで、何を?』
「あたしは、もう新しい世界に入ってる」
ゆいは立ち上がった。
「もう行くわ。あんたも、ピアノ頑張りや」
そう言い残し、彼の視界から立ち去った。
カフェを出ると、ゆいはゆっくりと河川敷へ向かった。
空は、鮮やかなオレンジ色に染まっていた。
夏の終わり。
太陽はまだ少し高い位置にあったが、遠くのビル群の向こうに沈みかけている。
河川敷の風は生ぬるく、川の流れる音が遠くで響いていた。
——「音」って、なんなんだろう。
ゆいは、川面をじっと見つめた。
静かな水面が、時折小さく揺れる。
その波紋の向こうに、ビルの光がちらちらと揺らめいていた。
足元の草むらには、どこからか飛んできたコンビニのレシートが舞い込んでいる。
「……」
ゆいは無意識にスマホを開き、蒼一郎とのメッセージ履歴を見た。
「なんで、あんたを選んだんやろ」
そう呟いても、答えは出なかった。
恋心があるわけではない。
蒼一郎のことを特別に思ったこともない。
なのに、どうして彼を誘ったんだろう。
もっと適当な相手を探せばよかった。
適当に誰かと寝てしまえば、それでよかった。
なのに、蒼一郎の顔が浮かぶ。
彼の、困惑した顔。
彼の、真っ直ぐな問いかけ。
『お前、ほんまにそれでええん?』
その言葉が、どうしても頭の中から消えなかった。
「……わからへん」
河川敷のベンチに腰を下ろし、空を見上げる。
蒼一郎は、昔から「音」のことを話していた。
ピアノの旋律。
リズム。
世界の音。
耳が聞こえない自分には、すべてが無意味な言葉だった。
——「世界には音があるはずやって。耳が聞こえへんくても、言葉が通じへんくても、それはちゃんとあるはずやねん。」
彼は、そう言っていた。
ゆいには、それが信じられなかった。
そんなもの、あるわけないじゃん。
音は、耳で聞こえるもの。
それが聞こえなければ、世界に音なんて存在しない。
ただ、それだけの話でしょ?
でも。
どうしても、心の中で引っかかっていた。
川の流れを眺める。
風が吹いて、河川敷の草が揺れる。
この動きに、音があるんだろうか?
この川の水の動きにも、音があるんだろうか?
「……ないやろ」
ゆいはそう呟く。
でも、もし蒼一郎がここにいたら、なんて言うんだろう。
「あるで。ちゃんとある」
そんなふうに、笑いながら言うんだろうか。
ふと、自分の手を見つめる。
ピアノの鍵盤に触れたときの感覚。
あの、微かな振動。
あれは、音なんか?
「わからへん……」
また、わからないことが増えた。
世界は、無機質で、ただ流れていくだけのものだと思っていたのに。
ゆいは、軽く膝を抱えて、夕日を見つめた。
オレンジの光が、静かに水面に反射していた。
この光にも、「音」があるんだろうか。
それを、知る方法はあるんだろうか。
いや、そんなことは考えても無駄や。
どうせ、音なんて存在せえへん。
生きる価値なんて、どこにもない。
これから先、どうやって生きていけばいいのかも、わからない。
でも——。
この夕日は、綺麗だった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!