美柑は、それからも何度かBar Ventoを訪れた。
ピアノの音を聞くたびに、心がざわついた。
今まで武術にしか興味がなかったはずなのに——
「……なんでやろ」
ピアノの音が、頭から離れなかった。
武道は、強さを磨くものだった。
でも、音楽は——ただ、そこに“在る”ものだった。
どちらも、技術を極めるもの。
なのに、根本的に何かが違う。
「この違いは、なんなんや?」
ある日、またBar Ventoで蒼一郎と会った。
「お姉ちゃん、また来てたんや」
「……お姉ちゃん言うな。美柑でええ」
「そっか、美柑」
蒼一郎は無邪気に笑った。
「美柑もピアノが好きなん?」
「……わからん。せやけど、気になる」
「なんで?」
「…なんで?うーん、“強さ”とは違う何かを感じるから」
「強さ?」
「私、格闘技をちょっと齧っとんねん。そういう「意味」や」
蒼一郎は、少し考えてから答えた。
「音楽って、別に誰かを倒すもんちゃうもんね」
「せやな」
「でも、不思議やねん」
「何が?」
「音楽って、“何か”を伝えることはできるんよ」
美柑は、その言葉に驚いた。
「伝える?」
「うん。言葉がなくても、心に届くことがある」
——言葉がなくても、届く?
それは、武術とはまったく違う考え方だった。
「なぁ、美柑」
蒼一郎は、ピアノの鍵盤に手を置きながら言った。
「美柑の武術って、何が大事なん?」
「何がって、…うーん、そうやなぁ。強いて言うなら、距離感、かな」
「距離感??」
「うん。まあ、考え方はそれぞれやけど、私は「距離感」やと思ってる」
「それって、…ようするに“間合い”ってこと?」
「そうそう」
「“間合い”が大事。そういうこと?」
「うん」
「せやったら、音楽もそうやで」
美柑は、思わず眉をひそめた。
「どういうこと?」
「間合いって、相手との距離を測ることやろ?」
「せやな」
「音楽も、音と音の間に“間”がある」
蒼一郎は、静かに鍵盤を叩いた。
ポーン——と、単音が響く。
「この音が鳴った後——」
次の音までの“間”がある。
「この“間”の取り方で、音楽は変わる」
美柑は、その言葉に驚いた。
「……!」
音楽の世界にも、「間合い」がある。
それは、まるで武術のようだった。
「音楽と武術は違う。でも、どっちも“間”が大事なんや」
美柑は、その言葉を反芻した。
武術は、間合いと流れを掴むもの。
音楽もまた、音の間合いを掴むもの。
「……同じなんか?」
武術と音楽は、遠いものではなかったのかもしれない。
「試してみる?」
蒼一郎が、美柑にピアノの前に座るよう促した。
「……無理やって」
「そんなことないよ。鍵盤を押すだけ」
蒼一郎は、優しく微笑む。
美柑は、しぶしぶピアノに手を置いた。
「適当に弾いてみて?」
「適当って……」
「好きなところを押せばええねん」
美柑は、ゆっくりと指を動かした。
ポン——
ピアノの鍵盤が、一音だけ響いた。
「……」
蒼一郎が、次の音を弾いた。
ポン——
美柑は、無意識にまた別の鍵盤を押した。
「そう、それでええんよ」
音が、繋がっていく。
「美柑、今の間、どう感じた?」
「……空気みたいやった」
「せやろ?」
蒼一郎は、嬉しそうに笑った。
「武術で間合いを感じるみたいに、音楽でも「間」っていうものがあるんや」
美柑は、その瞬間に確信した。
——「私は、音楽と同じ感覚を、武術の中でずっと探してたんや」
音楽の流れ。
音の間合い。
リズムの持つ時間の“ズレ”と“調和”。
それらは、武術の間合いと全く同じだった。
ただ、武術は戦うためのもの。
音楽は、何かを“伝える”ためのもの。
「……不思議やな」
美柑は、思わず呟いた。
「せやろ?」
蒼一郎が、満足そうに頷いた。
「音楽って、武術と違うけど、繋がってる」
「……そやな」
美柑は、鍵盤の上に置いた指先を見つめた。
「間合い」とは、戦いだけのものじゃない。
「流れ」とは、音楽にも存在する。
「時間」とは、ただ過ぎ去るものではなく、繋げるもの。
この夜、美柑は新しい視点を手に入れた。
——「音楽」という、武術とは違う“もうひとつの強さ”を。
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