3人の影が、海岸の闇の中へと消えていった。
波が静かに揺れている。
何事もなかったかのように、——ただ、ゆらゆらと。
美柑は、静かに煙草を咥えたまま、海の方を眺めていた。
ゆいはただ、その横顔を見つめていた。
「……なんで、助けたん?」
スマホの画面に打ち込む。
美柑は、それを見ると軽く笑った。
「助けた? 何を?」
「……あたし」
「はぁ?」
美柑は煙を吐きながら、ゆるく首を振る。
「別に助けるつもりなんかあらへんで。たまたま目の前におっただけや」
「……」
美柑の態度は、あくまで淡々としていた。
その軽さが、逆にゆいの心をざわつかせる。
——この人は、どうしてこんなに余裕なんやろう。
さっきまでのやりとりを考えれば、本来ならもっと興奮していてもいいはず…
でも、美柑はまるで「呼吸をするように」力を行使した。
それが、ゆいには理解できなかった。
ゆいは、スマホに文字を打つ。
「……あたし、なんもできへん」
「せやな」
即答。
ためらいもなく、美柑はそう言い切った。
彼女の声を拾う音声アプリ。
スマホに映った美柑のその「言葉」を、ゆいはキュッと握りしめる。
「なんもできへんかった。昔からずっと。言いたいことも言えん。逃げることもできん」
「だから?」
美柑は、こちらを一瞥する。
「それで、何が言いたいん?」
「……」
ゆいは、言葉に詰まった。
本当は、何が言いたかったんやろう。
自分は何を求めている?
何を望んでいる?
考えても、何も浮かばなかった。
「——お前は、何がしたいん?」
美柑が、はっきりとした声でそう言った。
風が吹く。
ゆいの髪が、少しだけ揺れる。
「……」
「何がしたいかもわからんのに、ただ『なんもできへん』って言うてるん?」
美柑の視線は、どこまでも冷静だった。
ゆいは、スマホにゆっくりと文字を打ち込む。
「……何もない」
「ないなら、作ればええやん」
美柑はさらっと言った。
まるで、それが当たり前のことのように。
「何もないんやったら、作ればええ。力がないなら、手に入れればええ。そんな単純な話やろ?」
「……どうやって?」
「知りたい?」
美柑は、ゆいの目を見つめる。
ゆいは、その視線から逃げなかった。
そして——小さく、頷いた。
美柑は、ゆっくりと微笑んだ。
「ええやん。お前、意外とおもろいな」
海の向こうで、夜の観覧車がゆっくりと回っていた。
*
「ないなら、作ればええやん」
その言葉が、ゆいの胸の奥に残ったまま消えなかった。
作る?
どうやって?
ゆいは、スマホを握りしめたまま、美柑を見つめた。
「……力、欲しい?」
美柑が、夜の海を背にしながら言う。
「……」
ゆいは少しの間、何も打ち込まなかった。
何もない自分。
何もできない自分。
それを変えたいという気持ちは、確かにある。
でも——「力を手に入れる」という言葉が、どこか現実味を帯びていなかった。
そんなこと、可能なんか?
自分が、強くなる?
「……どうやって?」
スマホにそう打ち込む。
美柑は、ニヤリと笑った。
「お前、やっぱおもろいわ」
「……?」
「お前みたいな子、うちにピッタリや」
美柑はゆっくりと歩き出す。
波打ち際を歩きながら、ゆいの方を見ずに歩き続ける。
ゆいは、一瞬戸惑ったが、その後を追う。
波打ち際を離れ、砂浜を踏みしめながら、ゆいはスマホを開く。
「どこまで行くの?」
歩きながら、そう打ち込む。
しかし、美柑はそれを見ても、何も答えなかった。
ただ、ゆっくりと歩き続ける。
ゆいは、美柑の背中をじっと見つめた。
——この人の背中には、あたしに足りないものが全部ある気がする。
強さ。
余裕。
自信。
そして、「力」。
街の光が近づいてくる。
海風の冷たさが薄れ、騒がしい人の気配が戻ってくる。
ビルの間の細い路地を抜け、ふと視界が開けた瞬間——
三宮の雑踏が目の前に広がった。
タクシーがクラクションを鳴らし、駅前の広場ではギターを弾くストリートミュージシャンがいた。
どこかの酔っ払いが笑い声を上げ、ネオンの明かりが地面にぼんやりと映る。
いつもの街の光景だった。
でも、ゆいの中で、何かが少しだけ違って見えた。
美柑が、足を止める。
ゆっくりと振り返り、ゆいを見た。
「……お前は何が欲しいんや?」
ゆいは、その言葉に息を詰まらせた。
何が欲しい?
わからない。
自分には何もないことはわかっている。
でも、それを埋めるために何が必要なのか、それが何なのか——答えが出なかった。
ゆいは、スマホを開いても、何も打ち込めなかった。
美柑はゆいの沈黙を見て、ふっと笑った。
「処女はまだ捨ててへんのか?」
ゆいは、少し驚いたが、頷いた。
「そうか」
美柑は煙草を取り出し、ライターの火をつけた。
煙を吸い込み、夜空に向かって細く吐く。
「組織に入るには、覚悟がいる」
ゆいは、その言葉をスマホに打ち込みながら、もう一度読んだ。
——覚悟?
何の?
それが、ゆいにはわからなかった。
美柑は、騒がしい三宮の駅前で、肩をすくめるように笑った。
「ま、それはおいおいな」
そう言って、煙草を指に挟んだまま、ゆいを見た。
「ゲーセン行かん?」
「……え?」
「暇やし。ちょっと寄ってこか」
そう言って、美柑は駅前の商店街に入っていく。
ゆいは戸惑いながらも、後を追った。
駅前の商店街は、夜でも活気に満ちていた。
飲み屋の呼び込みが通行人に声をかけ、学生らしきグループがプリクラ機の前で騒いでいる。
たこ焼き屋の屋台から漂う香ばしい匂いが、胃にしみる。
そして——商店街の奥。
赤と青のネオンが光るゲームセンター。
美柑は、扉をくぐると、迷うことなく奥へ進んでいった。
大型筐体のゲームが並ぶ一角。
そこには、自販機の横にあぐらをかいて座る、一人の少女がいた。
金髪のロングヘア。
派手な柄の入ったスカジャンを羽織り、黒いショートパンツに厚底のブーツ。
耳には大ぶりのピアスが揺れ、手には缶コーヒー。
片手でスマホをいじりながら、もう片方の手で飴玉を転がしていた。
美柑が近づくと、少女は顔を上げた。
「おー、美柑やん」
声は低めで、落ち着いている。
飴玉をカリッと噛み砕きながら、立ち上がると、視線をゆいに向けた。
「……こいつが、噂の子?」
美柑は、軽く頷いた。
「原田マチ。うちの組織のもんや」
ゆいは、スマホに「よろしく」と打ち込んだ。
マチは、それを見ると、興味深げにゆいを眺めた。
「ふーん……美柑が連れてくるんやから、面白いやつなんやろ」
そう言って、口元を軽く歪める。
「お前、何ができるん?」
マチは背が高い。
ヌッと立ち上がった時、その圧倒的な存在感にゆいは後ずさった。
あんぐりと口が空いたまま、何も打ち込めなかった。
マチは、少しだけ笑う。
「ま、ええわ。とりあえず、ゲーセン行こや」
美柑は、横でくすっと笑いながら煙草を消した。
「うちのマチは口悪いけど、まぁ気にせんとき」
「……」
ゆいは、ただ頷いた。
夜のネオンの下で、世界が少しずつ、変わり始めていた。
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