空色デイズ -音のない世界の中心で-

ただ頷いてくれればよかったのに
平木明日香
平木明日香

第5話

公開日時: 2025年2月15日(土) 21:55
文字数:2,751




3人の影が、海岸の闇の中へと消えていった。


波が静かに揺れている。


何事もなかったかのように、——ただ、ゆらゆらと。




美柑は、静かに煙草を咥えたまま、海の方を眺めていた。


ゆいはただ、その横顔を見つめていた。


「……なんで、助けたん?」


スマホの画面に打ち込む。


美柑は、それを見ると軽く笑った。


「助けた? 何を?」


「……あたし」


「はぁ?」


美柑は煙を吐きながら、ゆるく首を振る。


「別に助けるつもりなんかあらへんで。たまたま目の前におっただけや」


「……」


美柑の態度は、あくまで淡々としていた。


その軽さが、逆にゆいの心をざわつかせる。


——この人は、どうしてこんなに余裕なんやろう。


さっきまでのやりとりを考えれば、本来ならもっと興奮していてもいいはず…


でも、美柑はまるで「呼吸をするように」力を行使した。


それが、ゆいには理解できなかった。



ゆいは、スマホに文字を打つ。


「……あたし、なんもできへん」


「せやな」


即答。


ためらいもなく、美柑はそう言い切った。


彼女の声を拾う音声アプリ。


スマホに映った美柑のその「言葉」を、ゆいはキュッと握りしめる。


「なんもできへんかった。昔からずっと。言いたいことも言えん。逃げることもできん」


「だから?」


美柑は、こちらを一瞥する。


「それで、何が言いたいん?」


「……」


ゆいは、言葉に詰まった。


本当は、何が言いたかったんやろう。


自分は何を求めている?

何を望んでいる?


考えても、何も浮かばなかった。


「——お前は、何がしたいん?」


美柑が、はっきりとした声でそう言った。


風が吹く。


ゆいの髪が、少しだけ揺れる。


「……」


「何がしたいかもわからんのに、ただ『なんもできへん』って言うてるん?」


美柑の視線は、どこまでも冷静だった。


ゆいは、スマホにゆっくりと文字を打ち込む。


「……何もない」


「ないなら、作ればええやん」


美柑はさらっと言った。


まるで、それが当たり前のことのように。


「何もないんやったら、作ればええ。力がないなら、手に入れればええ。そんな単純な話やろ?」


「……どうやって?」


「知りたい?」


美柑は、ゆいの目を見つめる。


ゆいは、その視線から逃げなかった。


そして——小さく、頷いた。


美柑は、ゆっくりと微笑んだ。


「ええやん。お前、意外とおもろいな」


海の向こうで、夜の観覧車がゆっくりと回っていた。







「ないなら、作ればええやん」


その言葉が、ゆいの胸の奥に残ったまま消えなかった。


作る?

どうやって?


ゆいは、スマホを握りしめたまま、美柑を見つめた。


「……力、欲しい?」


美柑が、夜の海を背にしながら言う。


「……」


ゆいは少しの間、何も打ち込まなかった。


何もない自分。

何もできない自分。


それを変えたいという気持ちは、確かにある。


でも——「力を手に入れる」という言葉が、どこか現実味を帯びていなかった。


そんなこと、可能なんか?


自分が、強くなる?


「……どうやって?」


スマホにそう打ち込む。


美柑は、ニヤリと笑った。


「お前、やっぱおもろいわ」


「……?」


「お前みたいな子、うちにピッタリや」


美柑はゆっくりと歩き出す。


波打ち際を歩きながら、ゆいの方を見ずに歩き続ける。



ゆいは、一瞬戸惑ったが、その後を追う。


波打ち際を離れ、砂浜を踏みしめながら、ゆいはスマホを開く。


「どこまで行くの?」


歩きながら、そう打ち込む。


しかし、美柑はそれを見ても、何も答えなかった。


ただ、ゆっくりと歩き続ける。


ゆいは、美柑の背中をじっと見つめた。


——この人の背中には、あたしに足りないものが全部ある気がする。


強さ。

余裕。

自信。

そして、「力」。


街の光が近づいてくる。


海風の冷たさが薄れ、騒がしい人の気配が戻ってくる。


ビルの間の細い路地を抜け、ふと視界が開けた瞬間——

三宮の雑踏が目の前に広がった。


タクシーがクラクションを鳴らし、駅前の広場ではギターを弾くストリートミュージシャンがいた。

どこかの酔っ払いが笑い声を上げ、ネオンの明かりが地面にぼんやりと映る。


いつもの街の光景だった。


でも、ゆいの中で、何かが少しだけ違って見えた。


美柑が、足を止める。


ゆっくりと振り返り、ゆいを見た。


「……お前は何が欲しいんや?」


ゆいは、その言葉に息を詰まらせた。


何が欲しい?


わからない。


自分には何もないことはわかっている。

でも、それを埋めるために何が必要なのか、それが何なのか——答えが出なかった。


ゆいは、スマホを開いても、何も打ち込めなかった。


美柑はゆいの沈黙を見て、ふっと笑った。


「処女はまだ捨ててへんのか?」


ゆいは、少し驚いたが、頷いた。


「そうか」


美柑は煙草を取り出し、ライターの火をつけた。


煙を吸い込み、夜空に向かって細く吐く。


「組織に入るには、覚悟がいる」


ゆいは、その言葉をスマホに打ち込みながら、もう一度読んだ。


——覚悟?


何の?


それが、ゆいにはわからなかった。


美柑は、騒がしい三宮の駅前で、肩をすくめるように笑った。


「ま、それはおいおいな」


そう言って、煙草を指に挟んだまま、ゆいを見た。


「ゲーセン行かん?」


「……え?」


「暇やし。ちょっと寄ってこか」


そう言って、美柑は駅前の商店街に入っていく。


ゆいは戸惑いながらも、後を追った。



駅前の商店街は、夜でも活気に満ちていた。


飲み屋の呼び込みが通行人に声をかけ、学生らしきグループがプリクラ機の前で騒いでいる。

たこ焼き屋の屋台から漂う香ばしい匂いが、胃にしみる。


そして——商店街の奥。


赤と青のネオンが光るゲームセンター。


美柑は、扉をくぐると、迷うことなく奥へ進んでいった。


大型筐体のゲームが並ぶ一角。

そこには、自販機の横にあぐらをかいて座る、一人の少女がいた。


金髪のロングヘア。


派手な柄の入ったスカジャンを羽織り、黒いショートパンツに厚底のブーツ。

耳には大ぶりのピアスが揺れ、手には缶コーヒー。


片手でスマホをいじりながら、もう片方の手で飴玉を転がしていた。


美柑が近づくと、少女は顔を上げた。


「おー、美柑やん」


声は低めで、落ち着いている。


飴玉をカリッと噛み砕きながら、立ち上がると、視線をゆいに向けた。


「……こいつが、噂の子?」


美柑は、軽く頷いた。


「原田マチ。うちの組織のもんや」


ゆいは、スマホに「よろしく」と打ち込んだ。


マチは、それを見ると、興味深げにゆいを眺めた。


「ふーん……美柑が連れてくるんやから、面白いやつなんやろ」


そう言って、口元を軽く歪める。


「お前、何ができるん?」


マチは背が高い。


ヌッと立ち上がった時、その圧倒的な存在感にゆいは後ずさった。


あんぐりと口が空いたまま、何も打ち込めなかった。


マチは、少しだけ笑う。


「ま、ええわ。とりあえず、ゲーセン行こや」


美柑は、横でくすっと笑いながら煙草を消した。


「うちのマチは口悪いけど、まぁ気にせんとき」


「……」


ゆいは、ただ頷いた。


夜のネオンの下で、世界が少しずつ、変わり始めていた。

読み終わったら、ポイントを付けましょう!

ツイート