「…ハァッ…ハァッ…」
波の音が聞こえない。
けれど、その動きは見える。
海はただ、無表情に寄せては返していた。
街の光を静かに反射しながら、黒い水面がゆらめく。
ゆいは、息を切らしながら足を止めた。
やっと、たどり着いた。
美柑との待ち合わせ場所——西埠頭の海岸。
足元の砂がじんわりと沈む。
靴の中に砂が入り込んで、不快な感触がした。
「はぁ……」
長く息を吐いた、その時——。
後ろから、誰かが近づいてくる気配がした。
ゆいが振り向くよりも早く、腕を掴まれる。
「……!」
制服の襟が引っ張られ、体が揺さぶられる。
そこにいたのは、宮下、西本、高梨の3人だった。
さっき振り切ったはずやのに——追ってきたんか。
彼女たちは何かを喋っている。
でも、聞こえない。
宮下がスマホをこちらに向ける。
そこには、「泳いでみろよ」と書かれていた。
ゆいは、その文字を見つめたまま動かなかった。
「……」
西本と高梨が笑いながら、ゆいの上着を掴む。
ボタンが弾け飛び、シャツの前が乱暴に開かれる。
「……!!」
抵抗しようとした。
でも、無駄だった。
宮下が、もう一度スマホに文字を打つ。
「これから遊ぶんだから、体は洗っておいたほうがいいよ」
西本と高梨がそれを見て、さらに笑う。
スマホを構え、動画を回し始める。
「……」
ゆいは、ゆっくりと彼女たちを睨み返した。
——こんな時、1人ではどうすることもできない。
力ずくで逃げることさえ、ままならない。
自分の力のなさを痛感する。
小学生の時も、中学生の時も、ずっとそうだった。
周囲の人間からの酷い仕打ちに、自然と抵抗しなくなっていった。
傷つくのが怖いからじゃない。
ただ、自分の力ではどうすることもできなかったから。
世界はいつも静かだった。
目の前には、広大な海が広がっている。
何事もなく、穏やかに行ったり来たりする波。
笑いながら自分を見下ろす3人と、何も変わらず動き続ける世界。
ゆいは、肌で感じる。
この世界には——言いようもないほど大きな「壁」があることを。
「……」
ゆいは、いつからか空を見なくなっていた。
世界の「色」を見なくなっていた。
人々の表情、太陽の光、青空の広がり。
それらは、いつしかゆいにとって無関係の「出来事」になった。
すべてが、無機質だった。
叫びたくても、叫べない。
走りたくても、走れない。
動かない体を、波の方へと押される。
そして——。
その時。
風が、吹いた。
3人組の背後。
ゆいを無理やり海へ押し出そうとしていた彼女たちの背後に——
黒い影が、立っていた。
「——あんたら、何してんの?」
ゆいには、その声は聞こえなかった。
でも、その姿は見えた。
夜の海を背に、立っていたのは、美柑だった。
*
「——あんたら、何してんの?」
静かな夜の海を背に、影がゆっくりと近づいてくる。
3人組の動きが、ピタリと止まった。
美柑。
短く揺れる黒髪。
目を細めながら、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
サンダルの底が砂を踏む音だけが、無音の世界に響く。
ゆいは息を呑んだ。
美柑は、まるで何でもないことのように、軽く首を傾げる。
「なぁ、聞いとんねんけど」
宮下、西本、高梨の3人は、一瞬顔を見合わせた。
西本が真っ先に口を開く。
「……あんた、誰?」
美柑はゆっくりと手をポケットに突っ込んだ。
「誰って……そんなん、どうでもええやろ」
薄く笑う。
その笑い方が、ゆいにはよくわからなかった。
軽く見えて、冷たく見えて、それでいて異様な圧を感じる。
宮下が腕を組み、強がるように口を開く。
「あたしら、この子とちょっと遊んでただけやけど?」
「そうそう、別にええやん。この子の練習に付き合っとっただけやし」
高梨がスマホを構えながら、ニヤニヤと笑う。
「せっかくやし、記念に撮っとこう思って」
美柑は、その言葉を聞いても特に表情を変えなかった。
ただ、ゆっくりと西本のほうへ歩く。
その歩幅は大きくないのに、なぜか妙に迫力があった。
——圧倒的な「力」を持つ人間の歩き方やった。
西本が後ずさる。
「……何?」
美柑は、ふと立ち止まると、ゆっくりと笑った。
「おもろいなぁ」
「……は?」
「せやけど、もっとおもろいこと教えたるわ」
次の瞬間——。
美柑の手が、スマホを持っていた西本の腕を掴んだ。
「——え?」
西本の顔が、一気に青ざめる。
美柑は、まるで蛇みたいに細く笑ったまま、西本の手首をひねった。
「——っ!!?」
スマホが地面に落ちる。
「っざけんな!! 何すんねん!!」
宮下が叫ぶ。
美柑は冷静に、足元のスマホを見下ろした。
そして——軽く、足を上げた。
次の瞬間。
パキンッ!!
スマホの画面が、音を立てて割れた。
「……!!」
3人組の顔が、一瞬にして凍りつく。
「っ……なに……っ!」
美柑は、何も言わず、落ちたスマホを軽く蹴り転がした。
波打ち際まで転がったそれを見つめながら、宮下が顔を真っ赤にする。
「……お前、何様のつもりやねん!! こっちは友達と遊んどっただけや!!」
美柑は、その言葉にふっと目を細めた。
「遊び?」
「そ、そうや! こいつが学校来えへんから、ちょっと話ししとっただけや!」
「せやなぁ……」
美柑は、ポケットから煙草を取り出した。
ライターの火が、小さく揺れる。
「せやけど、遊びってのは、全員が楽しまなあかんねんで」
ゆっくりと煙を吐く。
「あんたらは楽しいかもしれへんけど——こいつはどうや?」
ゆいを指さす。
宮下は、わずかに口を開きかけたが、言葉が出てこなかった。
美柑は、ゆいを一瞥すると、また視線を3人に戻す。
「なぁ、ほんまに遊びやってんな?」
「……せや」
「ほんなら、今からうちらが、お前らと『遊び』してもええんちゃう?」
宮下の顔が、ぴくっと引きつる。
「……は?」
美柑は、ゆっくりと笑った。
「今度は、こっちの番やろ?」
ゆいは、そのやり取りを、ただ見ていた。
自分ではどうすることもできなかったこの状況を、
美柑は一瞬で覆してしまった。
ゆいには、それが衝撃だった。
「力を持つ人間」は、こうも簡単に世界を変えられるんや。
「力がない人間」との、決定的な違いを見せつけられた気がした。
宮下たちは、言葉を失っていた。
そして、次の瞬間——
「……っ、行こ!」
西本がそう言って、3人は一斉に走り出した。
夜の海岸に、砂を蹴る音が響く。
美柑は、追いかけもしなかった。
ただ、ゆっくりと煙草の火を落とし、砂の上で揉み消す。
「……」
ゆいは、その背中を見つめていた。
ただ、圧倒されたまま——。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!