空色デイズ -音のない世界の中心で-

ただ頷いてくれればよかったのに
平木明日香
平木明日香

第4話

公開日時: 2025年2月15日(土) 00:23
文字数:2,575



「…ハァッ…ハァッ…」




波の音が聞こえない。


けれど、その動きは見える。


海はただ、無表情に寄せては返していた。

街の光を静かに反射しながら、黒い水面がゆらめく。


ゆいは、息を切らしながら足を止めた。


やっと、たどり着いた。


美柑との待ち合わせ場所——西埠頭の海岸。


足元の砂がじんわりと沈む。

靴の中に砂が入り込んで、不快な感触がした。


「はぁ……」


長く息を吐いた、その時——。


後ろから、誰かが近づいてくる気配がした。


ゆいが振り向くよりも早く、腕を掴まれる。


「……!」


制服の襟が引っ張られ、体が揺さぶられる。


そこにいたのは、宮下、西本、高梨の3人だった。


さっき振り切ったはずやのに——追ってきたんか。


彼女たちは何かを喋っている。


でも、聞こえない。


宮下がスマホをこちらに向ける。


そこには、「泳いでみろよ」と書かれていた。


ゆいは、その文字を見つめたまま動かなかった。


「……」


西本と高梨が笑いながら、ゆいの上着を掴む。


ボタンが弾け飛び、シャツの前が乱暴に開かれる。


「……!!」


抵抗しようとした。

でも、無駄だった。


宮下が、もう一度スマホに文字を打つ。


「これから遊ぶんだから、体は洗っておいたほうがいいよ」


西本と高梨がそれを見て、さらに笑う。

スマホを構え、動画を回し始める。


「……」


ゆいは、ゆっくりと彼女たちを睨み返した。


——こんな時、1人ではどうすることもできない。


力ずくで逃げることさえ、ままならない。


自分の力のなさを痛感する。


小学生の時も、中学生の時も、ずっとそうだった。


周囲の人間からの酷い仕打ちに、自然と抵抗しなくなっていった。

傷つくのが怖いからじゃない。


ただ、自分の力ではどうすることもできなかったから。


世界はいつも静かだった。


目の前には、広大な海が広がっている。

何事もなく、穏やかに行ったり来たりする波。


笑いながら自分を見下ろす3人と、何も変わらず動き続ける世界。


ゆいは、肌で感じる。


この世界には——言いようもないほど大きな「壁」があることを。


「……」


ゆいは、いつからか空を見なくなっていた。


世界の「色」を見なくなっていた。


人々の表情、太陽の光、青空の広がり。

それらは、いつしかゆいにとって無関係の「出来事」になった。


すべてが、無機質だった。


叫びたくても、叫べない。

走りたくても、走れない。


動かない体を、波の方へと押される。


そして——。




その時。


風が、吹いた。


3人組の背後。


ゆいを無理やり海へ押し出そうとしていた彼女たちの背後に——


黒い影が、立っていた。


「——あんたら、何してんの?」


ゆいには、その声は聞こえなかった。


でも、その姿は見えた。


夜の海を背に、立っていたのは、美柑だった。








「——あんたら、何してんの?」


静かな夜の海を背に、影がゆっくりと近づいてくる。


3人組の動きが、ピタリと止まった。


美柑。


短く揺れる黒髪。

目を細めながら、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。


サンダルの底が砂を踏む音だけが、無音の世界に響く。


ゆいは息を呑んだ。


美柑は、まるで何でもないことのように、軽く首を傾げる。


「なぁ、聞いとんねんけど」


宮下、西本、高梨の3人は、一瞬顔を見合わせた。


西本が真っ先に口を開く。


「……あんた、誰?」


美柑はゆっくりと手をポケットに突っ込んだ。


「誰って……そんなん、どうでもええやろ」


薄く笑う。


その笑い方が、ゆいにはよくわからなかった。

軽く見えて、冷たく見えて、それでいて異様な圧を感じる。


宮下が腕を組み、強がるように口を開く。


「あたしら、この子とちょっと遊んでただけやけど?」


「そうそう、別にええやん。この子の練習に付き合っとっただけやし」


高梨がスマホを構えながら、ニヤニヤと笑う。


「せっかくやし、記念に撮っとこう思って」


美柑は、その言葉を聞いても特に表情を変えなかった。


ただ、ゆっくりと西本のほうへ歩く。


その歩幅は大きくないのに、なぜか妙に迫力があった。


——圧倒的な「力」を持つ人間の歩き方やった。


西本が後ずさる。


「……何?」


美柑は、ふと立ち止まると、ゆっくりと笑った。


「おもろいなぁ」


「……は?」


「せやけど、もっとおもろいこと教えたるわ」


次の瞬間——。


美柑の手が、スマホを持っていた西本の腕を掴んだ。


「——え?」


西本の顔が、一気に青ざめる。


美柑は、まるで蛇みたいに細く笑ったまま、西本の手首をひねった。


「——っ!!?」


スマホが地面に落ちる。


「っざけんな!! 何すんねん!!」


宮下が叫ぶ。


美柑は冷静に、足元のスマホを見下ろした。


そして——軽く、足を上げた。


次の瞬間。


パキンッ!!


スマホの画面が、音を立てて割れた。


「……!!」


3人組の顔が、一瞬にして凍りつく。


「っ……なに……っ!」


美柑は、何も言わず、落ちたスマホを軽く蹴り転がした。


波打ち際まで転がったそれを見つめながら、宮下が顔を真っ赤にする。


「……お前、何様のつもりやねん!! こっちは友達と遊んどっただけや!!」


美柑は、その言葉にふっと目を細めた。


「遊び?」


「そ、そうや! こいつが学校来えへんから、ちょっと話ししとっただけや!」


「せやなぁ……」


美柑は、ポケットから煙草を取り出した。

ライターの火が、小さく揺れる。


「せやけど、遊びってのは、全員が楽しまなあかんねんで」


ゆっくりと煙を吐く。


「あんたらは楽しいかもしれへんけど——こいつはどうや?」


ゆいを指さす。


宮下は、わずかに口を開きかけたが、言葉が出てこなかった。


美柑は、ゆいを一瞥すると、また視線を3人に戻す。


「なぁ、ほんまに遊びやってんな?」


「……せや」


「ほんなら、今からうちらが、お前らと『遊び』してもええんちゃう?」


宮下の顔が、ぴくっと引きつる。


「……は?」


美柑は、ゆっくりと笑った。


「今度は、こっちの番やろ?」


ゆいは、そのやり取りを、ただ見ていた。


自分ではどうすることもできなかったこの状況を、

美柑は一瞬で覆してしまった。


ゆいには、それが衝撃だった。


「力を持つ人間」は、こうも簡単に世界を変えられるんや。


「力がない人間」との、決定的な違いを見せつけられた気がした。


宮下たちは、言葉を失っていた。


そして、次の瞬間——


「……っ、行こ!」


西本がそう言って、3人は一斉に走り出した。


夜の海岸に、砂を蹴る音が響く。


美柑は、追いかけもしなかった。


ただ、ゆっくりと煙草の火を落とし、砂の上で揉み消す。


「……」


ゆいは、その背中を見つめていた。


ただ、圧倒されたまま——。

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