空色デイズ -音のない世界の中心で-

ただ頷いてくれればよかったのに
平木明日香
平木明日香

第16話

公開日時: 2025年2月20日(木) 00:59
文字数:1,845



マチとともにビルを出ると、朝の空気がひんやりと肌を刺した。


——この街は、こんなにも静かやったんか。


ゆいは、さっきまでいた酒と煙草の匂いの充満する空間を思い出す。

そこにいたのは、金を持っていないことを開き直る男。

そして、力がないと何もできない自分。


ゆいはスマホを握りしめた。


「ほな、美柑ちゃんに報告しに行くで」


マチが軽く肩を叩きながら言う。


ゆいは「うん」とだけ打ち込んだ。



「ふーん。ほな、回収は半分だけか」


美柑は、デスクに足を乗せながらマチの報告を聞いていた。


「せやな。でも、ゆいがちゃんと最後に決めさせたんや」


「へぇ」


美柑の目が、ゆいに向けられる。


「お前、どうやった?」


ゆいは、スマホに「……緊張した」と打つ。


「せやろな」


美柑は笑う。


「まぁ、初仕事にしては上出来やな」


「……」


「せやけど——」


美柑は、ゆいをじっと見た。


「お前、まだ本気やないな」


ゆいの指が止まる。


「どういう意味?」


スマホにそう打ち込むと、美柑はくすっと笑う。


「なんも難しいことやない」


「お前、まだ“真里亞”におる覚悟できてへんやろ?」


ゆいは、何も返せなかった。


マチが腕を組んで、美柑の隣でニヤリと笑う。


「ええタイミングやん。美柑、次の仕事の話したら?」


「せやな」


美柑は、デスクの引き出しから一枚の写真を取り出し、テーブルに放った。


「——次の仕事や」



写真には、30代後半くらいの男が写っていた。


スーツを着こなしているが、どこか軽薄そうな印象を受ける。


「この男、飯田(いいだ)っちゅうてな。関西のそこそこデカい企業の幹部や」


ゆいは、スマホを握りしめた。


「なんで、この人の写真?」


「こいつが、真里亞に大事な“金”を落としてくれるVIP客やからや」


美柑は、写真を指でトントンと叩く。


「せやけどな、この飯田、ちょっと“扱い”が難しいんよ」


「……?」


「気分屋で、気に入らんことがあったらすぐ機嫌悪くなる」


「せやから、うちらはこいつの“ご機嫌取り”をする必要があるんや」


ゆいの心臓が、ズキリと音を立てた。


「それって、どういうこと?」


「言葉通りの意味や」


美柑は、ゆいの目を真っ直ぐに見た。


「女が武器になる世界もあるってことや」


「……」


「お前、この仕事、やれるか?」


ゆいの指が、一瞬止まる。


「……」


「そんなん、無理にとは言わへんで」


美柑は肩をすくめる。


「ただな、ここで生きるって決めるんなら——お前も、何かを捨てなあかん時が来るで」


「……何かを、捨てる?」


「せや」


「強くなるっちゅうのは、ただ喧嘩ができることやない」


「自分の“価値”を、どう使うかや」


ゆいは、美柑の言葉をじっと見つめた。


「……」


「考える時間はやる」


美柑は、ゆいの前に写真を置く。


「答えを出したら、またここに来いや」



「……」


ゆいは、事務所を出て、一人で街を歩いていた。


人混みの中を抜け、川沿いのベンチに座る。


スマホを開く。


「私は、本当にここで生きていけるんやろうか」


「“強くなる”って、どういうことなんやろうか」


自分が今まで考えていた「強さ」とは違う。


「暴力」や「脅し」だけではない。

「女としての価値」まで、利用する世界。


——私は、どうすればいい?


心の中で、何かが崩れていくような感覚があった。




誰かに相談しようとした時——

ふと、ゆいの頭に浮かんだのは、一人の名前だった。


——蒼一郎。


彼なら、何か言ってくれるやろうか。

何か、違う道を教えてくれるやろうか。


でも——。


スマホの連絡先を開きかけた手が、止まる。


「……」


今さら、彼に頼ってもええんか?

彼の言う「綺麗な世界」に戻るつもりなんか?


ゆいは、静かにスマホの画面を指を乗せた。


——自分で、決めなあかん。


そう思った瞬間、初めて自分の足で立っている気がした。


この選択が、間違いなのか、正しいのか。


それは、まだ分からん。


でも——今は、もう戻れない。







『蒼一郎』


スマホの画面を見つめながら、ゆいはその名前を打ち込んでいた。


長い間、連絡していなかったわけではない。

でも、1週間前に会って以来、言葉を交わしていなかった。


あの時——


「処女を捨てる」


そう言った自分と、それを全く理解できなかった蒼一郎。

2人はすれ違ったまま、別れていた。


それなのに、今さら何を話せる?


——それでも。


今、どうしても話をしたかった。


ゆいは、迷いながらも、短いメッセージを打ち込んだ。


「会いたい」


送信ボタンを押してから、心臓が少しだけ高鳴る。


——彼は、返事をくれるやろうか?


しばらくして、スマホが震えた。


「今どこ?」


彼の返信を見て、ゆいは迷わず打ち込んだ。


「そっちに行く」

読み終わったら、ポイントを付けましょう!

ツイート