マチとともにビルを出ると、朝の空気がひんやりと肌を刺した。
——この街は、こんなにも静かやったんか。
ゆいは、さっきまでいた酒と煙草の匂いの充満する空間を思い出す。
そこにいたのは、金を持っていないことを開き直る男。
そして、力がないと何もできない自分。
ゆいはスマホを握りしめた。
「ほな、美柑ちゃんに報告しに行くで」
マチが軽く肩を叩きながら言う。
ゆいは「うん」とだけ打ち込んだ。
「ふーん。ほな、回収は半分だけか」
美柑は、デスクに足を乗せながらマチの報告を聞いていた。
「せやな。でも、ゆいがちゃんと最後に決めさせたんや」
「へぇ」
美柑の目が、ゆいに向けられる。
「お前、どうやった?」
ゆいは、スマホに「……緊張した」と打つ。
「せやろな」
美柑は笑う。
「まぁ、初仕事にしては上出来やな」
「……」
「せやけど——」
美柑は、ゆいをじっと見た。
「お前、まだ本気やないな」
ゆいの指が止まる。
「どういう意味?」
スマホにそう打ち込むと、美柑はくすっと笑う。
「なんも難しいことやない」
「お前、まだ“真里亞”におる覚悟できてへんやろ?」
ゆいは、何も返せなかった。
マチが腕を組んで、美柑の隣でニヤリと笑う。
「ええタイミングやん。美柑、次の仕事の話したら?」
「せやな」
美柑は、デスクの引き出しから一枚の写真を取り出し、テーブルに放った。
「——次の仕事や」
写真には、30代後半くらいの男が写っていた。
スーツを着こなしているが、どこか軽薄そうな印象を受ける。
「この男、飯田(いいだ)っちゅうてな。関西のそこそこデカい企業の幹部や」
ゆいは、スマホを握りしめた。
「なんで、この人の写真?」
「こいつが、真里亞に大事な“金”を落としてくれるVIP客やからや」
美柑は、写真を指でトントンと叩く。
「せやけどな、この飯田、ちょっと“扱い”が難しいんよ」
「……?」
「気分屋で、気に入らんことがあったらすぐ機嫌悪くなる」
「せやから、うちらはこいつの“ご機嫌取り”をする必要があるんや」
ゆいの心臓が、ズキリと音を立てた。
「それって、どういうこと?」
「言葉通りの意味や」
美柑は、ゆいの目を真っ直ぐに見た。
「女が武器になる世界もあるってことや」
「……」
「お前、この仕事、やれるか?」
ゆいの指が、一瞬止まる。
「……」
「そんなん、無理にとは言わへんで」
美柑は肩をすくめる。
「ただな、ここで生きるって決めるんなら——お前も、何かを捨てなあかん時が来るで」
「……何かを、捨てる?」
「せや」
「強くなるっちゅうのは、ただ喧嘩ができることやない」
「自分の“価値”を、どう使うかや」
ゆいは、美柑の言葉をじっと見つめた。
「……」
「考える時間はやる」
美柑は、ゆいの前に写真を置く。
「答えを出したら、またここに来いや」
「……」
ゆいは、事務所を出て、一人で街を歩いていた。
人混みの中を抜け、川沿いのベンチに座る。
スマホを開く。
「私は、本当にここで生きていけるんやろうか」
「“強くなる”って、どういうことなんやろうか」
自分が今まで考えていた「強さ」とは違う。
「暴力」や「脅し」だけではない。
「女としての価値」まで、利用する世界。
——私は、どうすればいい?
心の中で、何かが崩れていくような感覚があった。
誰かに相談しようとした時——
ふと、ゆいの頭に浮かんだのは、一人の名前だった。
——蒼一郎。
彼なら、何か言ってくれるやろうか。
何か、違う道を教えてくれるやろうか。
でも——。
スマホの連絡先を開きかけた手が、止まる。
「……」
今さら、彼に頼ってもええんか?
彼の言う「綺麗な世界」に戻るつもりなんか?
ゆいは、静かにスマホの画面を指を乗せた。
——自分で、決めなあかん。
そう思った瞬間、初めて自分の足で立っている気がした。
この選択が、間違いなのか、正しいのか。
それは、まだ分からん。
でも——今は、もう戻れない。
◇
『蒼一郎』
スマホの画面を見つめながら、ゆいはその名前を打ち込んでいた。
長い間、連絡していなかったわけではない。
でも、1週間前に会って以来、言葉を交わしていなかった。
あの時——
「処女を捨てる」
そう言った自分と、それを全く理解できなかった蒼一郎。
2人はすれ違ったまま、別れていた。
それなのに、今さら何を話せる?
——それでも。
今、どうしても話をしたかった。
ゆいは、迷いながらも、短いメッセージを打ち込んだ。
「会いたい」
送信ボタンを押してから、心臓が少しだけ高鳴る。
——彼は、返事をくれるやろうか?
しばらくして、スマホが震えた。
「今どこ?」
彼の返信を見て、ゆいは迷わず打ち込んだ。
「そっちに行く」
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