三宮の喧騒を抜け、電車に揺られること20分。
郊外へと向かう車窓から、ゆいは静かな住宅街を眺めていた。
六甲山の麓に広がるこのエリアは、昔から変わらない穏やかな景色だった。
家々の間を縫うように坂道が続き、所々に小さな公園や古い喫茶店がある。
子供の頃——蒼一郎とよく歩いた道。
「……」
ゆいはスマホを握りしめた。
ピアノ教室の前で足を止める。
——この場所も、昔のままや。
木製の小さな看板がかかった入り口。
窓の向こうからは、淡く優しいピアノの音が聞こえてくる。
ゆいは、静かにドアを開けた。
「……ゆい?」
ピアノの音が止まり、蒼一郎が振り返る。
たった1週間ぶりやのに、彼は少し変わったように見えた。
いや、変わったのは——自分のほうかもしれへん。
相変わらず細身で、落ち着いた雰囲気の彼。
でも、以前よりも少しだけ警戒した目をしていた。
「どうして……ここに?」
ゆいは、スマホを開き、短く打ち込む。
「話したいことがある」
蒼一郎は、少し驚いた顔をした後、
ピアノの椅子から立ち上がり、ゆっくりと近づいてきた。
「……みんな、お前のこと探してる」
ゆいは、目を伏せた。
「学校、大騒ぎになってるんやで」
——そうやろな。
急に姿を消した生徒。
しかも、ずっといじめられていた自分や。
教師たちも、ようやく自分の存在を認識したやろう。
「それはわかってる」
「でも、今は誰にも会いたくない」
蒼一郎は、彼女の手元の画面を見て、少しだけ眉をひそめた。
「なんか……あったん?」
ゆいは、スマホを握りしめたまま、ゆっくりと打ち込む。
「今、夜の街で生きてる」
「——え?」
蒼一郎の表情が一変する。
「それ、どういうこと?」
「……」
ゆいは、スマホを閉じた。
「……蒼一郎」
かすれた声が喉から漏れる。
「……夜の街、出かけへん?」
「は?」
「一緒に、歩きたい」
蒼一郎は、驚いたようにゆいを見つめる。
「……なんで?」
「ただ、少しだけ……時間がほしい」
蒼一郎は、しばらく迷ったような顔をしていたが——
最後に、静かに頷いた。
「……わかった」
六甲山の麓から、駅へと続く長い坂道をゆっくりと降りる。
夕暮れ時の光が、街を柔らかく染めていた。
遠くで、子供たちが走り回る声が聞こえる。
カフェの前では、老夫婦がゆっくりと紅茶を飲んでいる。
ゆいは、ただ静かに歩きながら、
蒼一郎の隣にいる時間を感じていた。
「……なんで、学校に来なくなったん?」
蒼一郎がふと尋ねる。
「……」
ゆいは、スマホを開く。
「なんもかんも嫌になった」
蒼一郎は、ゆっくりと頷く。
「……そんなに、しんどかったん?」
ゆいは、「うん」と打ち込んだ。
「でも、お前……そんなところにいて、大丈夫なんか?」
ゆいは、しばらくスマホの画面を見つめた後、
少しだけ迷いながら、ゆっくりと打ち込む。
「強くなりたい」
蒼一郎は、その文字を見つめた。
「……強くなる、か」
ゆいは、「強さ」というものが、まだ何なのか分からなかった。
暴力か。
金か。
支配か。
それとも、蒼一郎のように、夢に向かって努力することなのか——。
「ねえ、蒼一郎」
「ん?」
「あんたにとって、“強さ”って、なんなん?」
蒼一郎は、少し考えるように空を見上げた。
「……俺にとっての“強さ”?」
ゆいは、静かに頷いた。
蒼一郎は、坂の途中で足を止める。
夕焼けの光を背にして、ゆいを見つめながら、静かに口を開いた。
「俺にとっての強さは——」
坂道の途中で立ち止まり、蒼一郎はゆいをじっと見つめた。
その目は、ゆいが知っている彼のものやった。
昔から、いつも真っ直ぐで、何かを信じている目。
「俺にとっての“強さ”——」
蒼一郎は、少し考えるように夕焼けの空を見上げた。
「それは……自分を持つことやと思う」
ゆいは、スマホを握りしめたまま、その言葉を見つめた。
「自分を……持つ?」
「そう」
蒼一郎は、ゆっくりと坂道の石畳を蹴るように歩き出す。
「俺はさ、小さい頃からピアノしかやってこなかった」
「ずっと、それが俺のすべてやった」
「でも、中学のとき、一回ピアノを辞めようと思ったことがある」
ゆいは、驚いて彼を見た。
——初めて聞く話やった。
「なんで?」
蒼一郎は、少し笑うように口元をゆるめる。
「才能がないと思ったから」
ゆいは、スマホの画面を見つめた。
蒼一郎は、天才ピアニストやった。
誰もが認める才能の持ち主。
でも、本人は違うと思っていた。
「俺より上手い奴なんて、いくらでもいた」
「だから、辞めたら楽になるんちゃうかって考えたんや」
ゆいは、スマホにゆっくりと打ち込んだ。
「でも、辞めへんかったんやろ?」
「うん」
蒼一郎は、ゆっくりと笑った。
「結局な、ピアノを弾くことが“俺”やったんや」
「誰がなんと言おうと、どれだけ悩んでも、俺はこれしかなかった」
「辞めたら、俺が俺じゃなくなる気がした」
ゆいは、画面を見つめながら考えた。
——それが、蒼一郎にとっての“強さ”なんや。
「お前は?」
突然、蒼一郎が聞いてきた。
「お前にとっての強さは、なんなん?」
ゆいは、スマホを見つめたまま、答えられへんかった。
自分にとっての強さ——
それは、美柑が持つ“力”なんか?
それとも、蒼一郎が言うように、自分を貫くことなんか?
「……」
「考えたこと、ある?」
「……」
ゆいは、ゆっくりとスマホに打ち込んだ。
「わからん」
蒼一郎は、その文字を見つめて、静かに頷いた。
「そっか」
「ほんなら、一緒に探そか」
——探す?
ゆいは、スマホを見つめたまま、ゆっくりと顔を上げた。
「お前が思う“強さ”がなんなのか」
「夜の街に行く前に、一回ゆっくり考えてみたらええ」
「どうやって?」
「一緒に歩くんや」
蒼一郎は、坂道を指さした。
「俺は、音楽で世界を見る」
「お前は、お前の世界の見方で、何かを探したらええ」
ゆいは、一瞬だけ迷ったが、静かに頷いた。
「……」
——何かを、探す。
六甲の長閑な街並みを抜け、
2人は電車に乗って、三宮へと戻ってきた。
夜のネオンが輝き、駅前の繁華街には、
酔っ払ったサラリーマンや若者たちが行き交っている。
ゆいは、スマホを握りしめながら、その光景を見つめた。
「……俺、こんな時間の三宮って初めてかも」
蒼一郎が周りをキョロキョロと見渡しながら言う。
「お前、いつもこんなとこおるん?」
ゆいは、「うん」とだけ打ち込んだ。
「そっか……」
蒼一郎の目には、この街がどう映ってるんやろうか。
「お前さ、ここで何してんの?」
ゆいは、少し迷ったあと、短く打ち込んだ。
「生きてる」
「……」
蒼一郎は、その文字をじっと見つめた。
「……生きるために、ここにおるん?」
「うん」
「お前は、ここで何を見つけた?」
ゆいは、一瞬だけ指を止めた。
見つけたんやろうか。
自分にとっての“強さ”を。
「……」
でも、答えは出なかった。
「わからん」
スマホにそう打ち込むと、蒼一郎は小さく息を吐いた。
「ほんなら、俺も一緒に探す」
「……?」
「お前が、本当にここにおるべきなのか」
「それとも、違う場所があるのか」
「俺、お前のこと、ちゃんと知りたい」
ゆいの心が、少しだけ揺れる。
——自分の居場所。
ここにいるべきなのか。
それとも、違う道があるのか。
美柑が見せてくれた世界と、蒼一郎が信じる世界。
ゆいは、どちらに進むべきなのか——。
でも、まだ答えは見つからない。
「……」
ゆいは、スマホを閉じた。
「とりあえず、飯でも食う?」
蒼一郎が笑いながら言う。
「お前、なんか食べたいもんある?」
ゆいは、スマホを開いて、短く打った。
「ラーメン」
蒼一郎は、ふっと笑った。
「ええな。ほな、行こか」
ゆいは、その言葉に頷いた。
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