空色デイズ -音のない世界の中心で-

ただ頷いてくれればよかったのに
平木明日香
平木明日香

第17話

公開日時: 2025年2月20日(木) 01:09
文字数:3,031



三宮の喧騒を抜け、電車に揺られること20分。


郊外へと向かう車窓から、ゆいは静かな住宅街を眺めていた。


六甲山の麓に広がるこのエリアは、昔から変わらない穏やかな景色だった。


家々の間を縫うように坂道が続き、所々に小さな公園や古い喫茶店がある。


子供の頃——蒼一郎とよく歩いた道。


「……」


ゆいはスマホを握りしめた。


ピアノ教室の前で足を止める。


——この場所も、昔のままや。


木製の小さな看板がかかった入り口。

窓の向こうからは、淡く優しいピアノの音が聞こえてくる。


ゆいは、静かにドアを開けた。



「……ゆい?」


ピアノの音が止まり、蒼一郎が振り返る。


たった1週間ぶりやのに、彼は少し変わったように見えた。

いや、変わったのは——自分のほうかもしれへん。


相変わらず細身で、落ち着いた雰囲気の彼。

でも、以前よりも少しだけ警戒した目をしていた。


「どうして……ここに?」


ゆいは、スマホを開き、短く打ち込む。


「話したいことがある」


蒼一郎は、少し驚いた顔をした後、

ピアノの椅子から立ち上がり、ゆっくりと近づいてきた。


「……みんな、お前のこと探してる」


ゆいは、目を伏せた。


「学校、大騒ぎになってるんやで」


——そうやろな。


急に姿を消した生徒。

しかも、ずっといじめられていた自分や。

教師たちも、ようやく自分の存在を認識したやろう。


「それはわかってる」


「でも、今は誰にも会いたくない」


蒼一郎は、彼女の手元の画面を見て、少しだけ眉をひそめた。


「なんか……あったん?」


ゆいは、スマホを握りしめたまま、ゆっくりと打ち込む。


「今、夜の街で生きてる」


「——え?」


蒼一郎の表情が一変する。


「それ、どういうこと?」


「……」


ゆいは、スマホを閉じた。


「……蒼一郎」


かすれた声が喉から漏れる。


「……夜の街、出かけへん?」


「は?」


「一緒に、歩きたい」


蒼一郎は、驚いたようにゆいを見つめる。


「……なんで?」


「ただ、少しだけ……時間がほしい」


蒼一郎は、しばらく迷ったような顔をしていたが——

最後に、静かに頷いた。


「……わかった」



六甲山の麓から、駅へと続く長い坂道をゆっくりと降りる。


夕暮れ時の光が、街を柔らかく染めていた。


遠くで、子供たちが走り回る声が聞こえる。

カフェの前では、老夫婦がゆっくりと紅茶を飲んでいる。


ゆいは、ただ静かに歩きながら、

蒼一郎の隣にいる時間を感じていた。


「……なんで、学校に来なくなったん?」


蒼一郎がふと尋ねる。


「……」


ゆいは、スマホを開く。


「なんもかんも嫌になった」


蒼一郎は、ゆっくりと頷く。


「……そんなに、しんどかったん?」


ゆいは、「うん」と打ち込んだ。


「でも、お前……そんなところにいて、大丈夫なんか?」


ゆいは、しばらくスマホの画面を見つめた後、

少しだけ迷いながら、ゆっくりと打ち込む。


「強くなりたい」


蒼一郎は、その文字を見つめた。


「……強くなる、か」


ゆいは、「強さ」というものが、まだ何なのか分からなかった。


暴力か。

金か。

支配か。


それとも、蒼一郎のように、夢に向かって努力することなのか——。


「ねえ、蒼一郎」


「ん?」


「あんたにとって、“強さ”って、なんなん?」


蒼一郎は、少し考えるように空を見上げた。


「……俺にとっての“強さ”?」


ゆいは、静かに頷いた。


蒼一郎は、坂の途中で足を止める。


夕焼けの光を背にして、ゆいを見つめながら、静かに口を開いた。


「俺にとっての強さは——」



坂道の途中で立ち止まり、蒼一郎はゆいをじっと見つめた。


その目は、ゆいが知っている彼のものやった。


昔から、いつも真っ直ぐで、何かを信じている目。


「俺にとっての“強さ”——」


蒼一郎は、少し考えるように夕焼けの空を見上げた。


「それは……自分を持つことやと思う」


ゆいは、スマホを握りしめたまま、その言葉を見つめた。


「自分を……持つ?」


「そう」


蒼一郎は、ゆっくりと坂道の石畳を蹴るように歩き出す。


「俺はさ、小さい頃からピアノしかやってこなかった」


「ずっと、それが俺のすべてやった」


「でも、中学のとき、一回ピアノを辞めようと思ったことがある」


ゆいは、驚いて彼を見た。


——初めて聞く話やった。


「なんで?」


蒼一郎は、少し笑うように口元をゆるめる。


「才能がないと思ったから」


ゆいは、スマホの画面を見つめた。


蒼一郎は、天才ピアニストやった。

誰もが認める才能の持ち主。


でも、本人は違うと思っていた。


「俺より上手い奴なんて、いくらでもいた」


「だから、辞めたら楽になるんちゃうかって考えたんや」


ゆいは、スマホにゆっくりと打ち込んだ。


「でも、辞めへんかったんやろ?」


「うん」


蒼一郎は、ゆっくりと笑った。


「結局な、ピアノを弾くことが“俺”やったんや」


「誰がなんと言おうと、どれだけ悩んでも、俺はこれしかなかった」


「辞めたら、俺が俺じゃなくなる気がした」


ゆいは、画面を見つめながら考えた。


——それが、蒼一郎にとっての“強さ”なんや。


「お前は?」


突然、蒼一郎が聞いてきた。


「お前にとっての強さは、なんなん?」


ゆいは、スマホを見つめたまま、答えられへんかった。


自分にとっての強さ——


それは、美柑が持つ“力”なんか?

それとも、蒼一郎が言うように、自分を貫くことなんか?


「……」


「考えたこと、ある?」


「……」


ゆいは、ゆっくりとスマホに打ち込んだ。


「わからん」


蒼一郎は、その文字を見つめて、静かに頷いた。


「そっか」


「ほんなら、一緒に探そか」


——探す?


ゆいは、スマホを見つめたまま、ゆっくりと顔を上げた。


「お前が思う“強さ”がなんなのか」


「夜の街に行く前に、一回ゆっくり考えてみたらええ」


「どうやって?」


「一緒に歩くんや」


蒼一郎は、坂道を指さした。


「俺は、音楽で世界を見る」


「お前は、お前の世界の見方で、何かを探したらええ」


ゆいは、一瞬だけ迷ったが、静かに頷いた。


「……」


——何かを、探す。



六甲の長閑な街並みを抜け、

2人は電車に乗って、三宮へと戻ってきた。


夜のネオンが輝き、駅前の繁華街には、

酔っ払ったサラリーマンや若者たちが行き交っている。


ゆいは、スマホを握りしめながら、その光景を見つめた。


「……俺、こんな時間の三宮って初めてかも」


蒼一郎が周りをキョロキョロと見渡しながら言う。


「お前、いつもこんなとこおるん?」


ゆいは、「うん」とだけ打ち込んだ。


「そっか……」


蒼一郎の目には、この街がどう映ってるんやろうか。


「お前さ、ここで何してんの?」


ゆいは、少し迷ったあと、短く打ち込んだ。


「生きてる」


「……」


蒼一郎は、その文字をじっと見つめた。


「……生きるために、ここにおるん?」


「うん」


「お前は、ここで何を見つけた?」


ゆいは、一瞬だけ指を止めた。


見つけたんやろうか。

自分にとっての“強さ”を。


「……」


でも、答えは出なかった。


「わからん」


スマホにそう打ち込むと、蒼一郎は小さく息を吐いた。


「ほんなら、俺も一緒に探す」


「……?」


「お前が、本当にここにおるべきなのか」


「それとも、違う場所があるのか」


「俺、お前のこと、ちゃんと知りたい」


ゆいの心が、少しだけ揺れる。


——自分の居場所。


ここにいるべきなのか。

それとも、違う道があるのか。


美柑が見せてくれた世界と、蒼一郎が信じる世界。


ゆいは、どちらに進むべきなのか——。


でも、まだ答えは見つからない。


「……」


ゆいは、スマホを閉じた。


「とりあえず、飯でも食う?」


蒼一郎が笑いながら言う。


「お前、なんか食べたいもんある?」


ゆいは、スマホを開いて、短く打った。


「ラーメン」


蒼一郎は、ふっと笑った。


「ええな。ほな、行こか」


ゆいは、その言葉に頷いた。



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