歩道には、客引きのキャッチが立ち、ビルのネオンがチカチカと点滅している。
アーケードの下では、カップルが笑い合い、道端では、ギターを弾くストリートミュージシャンの姿があった。
——これが、「日常」なんやろうか?
ゆいは、ふとそう思った。
「なぁ、ゆい」
スマホを見つめていたゆいに、蒼一郎が声をかける。
「お前、最近どんな暮らししとるん?」
ゆいは、一瞬だけ迷った。
でも、隠すつもりもなかった。
スマホに、ゆっくりと打ち込む。
「真里亞で生きてる」
「……真里亞?」
蒼一郎の足が、わずかに止まった。
「それ、なんなん?」
ゆいは、少し考えてから、また文字を打ち込む。
「女のための組織。自由を手に入れる場所」
蒼一郎は、スマホの画面を見つめたまま、ゆっくりと顔を上げる。
「……それ、どういう意味?」
ゆいは、迷うことなく続けた。
「美柑っていう人が作った組織。女が、強く生きるための場所」
蒼一郎の眉が、わずかに寄る。
「……強く?」
「うん」
「…組織って、へんな組織やないやろな?」
「どういう意味?」
「…いや、ほら、あるやん?暴走族とか、そういうさ…?」
「まぁ、あながち間違ってないよ」
「…まじか。…なんで、そんな場所に?」
ゆいは、しばらく指を止めた後、短く打ち込んだ。
「強くなりたいから」
蒼一郎は、ゆっくりと息を吐いた。
「……そんなこと、せんでもええやろ」
「なんで?」
ゆいは、顔を上げた。
蒼一郎は、まっすぐにゆいを見つめていた。
「そんなところにいちゃ、ダメや」
「なんで?」
ゆいの心が、少しだけ揺れる。
「お前、そんな世界に染まったら、もう戻られへんかもしれんやん」
「戻る?」
「普通の生活に」
ゆいは、スマホを強く握った。
「……」
——普通の生活。
そんなもの、ゆいには最初からなかった。
学校では、いじめられていた。
家では、家族とまともな会話もなかった。
「“普通”って、何?」
ゆいは、スマホにそう打ち込む。
蒼一郎は、その文字をじっと見つめた。
「普通って、なんやろな」
彼は、小さく息をつく。
「俺も、それがわからんときはある」
「でも、少なくとも、お前が“真里亞”とかいうところで生きていくのは、絶対違うと思う」
「なんで?」
「だって、お前……」
蒼一郎は、一瞬言葉を詰まらせた。
「そんなの、望んでへんやろ?」
「……」
ゆいの心の奥が、少しだけ揺れた。
望んでへん?
じゃあ、私は何を望んでる?
「俺は、お前がそんな世界におるん、イヤや」
蒼一郎が、静かに言う。
「……お前が、そんなところで“強さ”とか探すん、間違っとる」
ゆいは、スマホの画面をじっと見つめた。
——間違っとる?
「お前、ほんまにそこで生きていくつもりなん?」
ゆいの指が、一瞬止まった。
そして、ゆっくりと動く。
「わからん」
蒼一郎は、息を呑んだ。
「そっか……」
ゆいは、スマホを握りしめたまま、足元のアスファルトを見つめた。
蒼一郎の言葉は、どこか遠くの出来事のように響いた。
でも、心の奥では、何かが小さく揺れていた。
街を歩きながら、2人はラーメン屋を探していた。
「どっか適当に入るか?」
蒼一郎が言うと、ゆいはスマホを開いて、少しだけ迷った。
「行ったことない店、探してみる?」
「ええやん。ほんならそうしよ」
駅前の通りを抜け、繁華街の奥へと進む。
ネオンが揺れる通りには、飲み屋やクラブが立ち並び、その合間にラーメン屋の赤い提灯が見え隠れしている。
しかし——
しばらく歩いても、なかなか「入りたい」と思える店が見つからなかった。
蒼一郎が、少し歩き疲れたように言う。
「適当に入ってもええけど、せっかくやし、お前が好きな店にしよや」
ゆいは、スマホに打ち込む。
「ほんなら、いつも行っとったとこでええ?」
「お、ええやん。どこ?」
ゆいは、少し考えてから、静かに足を向けた。
結局——
選んだのは、昔から通っていたラーメン屋だった。
【路地裏のラーメン屋「神虎軒(しんこけん)」】
三宮の繁華街から少し離れた、静かな裏通り。
小さな看板の下に、白い暖簾がかかっている。
「神虎軒」
ここは、ゆいが幼い頃から通っていた店だった。
——家族と一緒に。
「へぇ、こんなとこにあったんか」
蒼一郎が暖簾をくぐりながら言う。
「渋いな、ええ感じのとこや」
店内はカウンター席だけの、こぢんまりした作り。
奥の厨房では、年配の店主が手際よく中華鍋を振っていた。
ゆいは、慣れたように席につく。
蒼一郎は、ゆいの動きを見て少し笑った。
「めっちゃ馴染んどるやん」
ゆいは、スマホに短く打つ。
「ここ、昔から来とった」
「へぇ……ほな、おすすめは?」
「チャーハンセット」
蒼一郎は、メニューを見て頷いた。
「ほな、それにするわ。お前も?」
ゆいは、コクリと頷く。
店主が「何にするん?」と気さくに尋ねると、ゆいは「チャーハンセット2つ」と言わんばかりにジェスチャーする。
店主はゆいのことを覚えているようだった。
最初は言葉を発しない彼女に戸惑ったような表情を見せていたが、ゆいが差し出したスマホの画面を覗き込んだ後、「ああ、ゆいちゃんか」と小さく呟いた。
蒼一郎が驚いたように目を丸くする。
「めっちゃ常連やん」
ゆいは、小さく微笑んだ。
——ここは彼女にとって、昔の“日常”の一部だった。
しばらくして、カウンターにチャーハンセットが置かれた。
醤油の香ばしい香りが立ち上る。
蒼一郎が、スープを一口飲んで「うまっ」と目を見開いた。
「ええやん、ここ。ええ店選んだな」
ゆいは、スマホを握ったまま、小さく頷く。
少し迷った後——
「ここ、昔は家族でよく来とった」
そう、打ち込んだ。
蒼一郎は、箸を止める。
「……そっか」
ゆいは、チャーハンを口に運びながら、少しだけ視線を落とした。
「今も?」
蒼一郎が静かに聞く。
ゆいは、スマホを開いて、一瞬だけ指を止めた。
そして、短く打ち込んだ。
「もう来てない」
「……」
「母さんと父さんは、もう離れ離れになっちゃったし」
蒼一郎は、何も言わずに、ゆいの言葉を待った。
ゆいは、ゆっくりと続ける。
「私が生まれてから、ずっとや」
「……お前が生まれてから?」
「私のせいで、仲が悪くなった」
蒼一郎は、箸を置いた。
「なんで、そう思うん?」
ゆいは、一度スマホを伏せた。
そして、少し息を吐いて、再び画面を見つめる。
「私が耳が聞こえへんから」
「母さんは、私のせいで家を出ていった」
蒼一郎の手が、わずかに震えた。
「……お前、それ、本気で思っとるん?」
ゆいは、スマホに「うん」と打った。
「違うやろ」
蒼一郎の声が、少しだけ強くなった。
「それ、お前のせいやない」
ゆいは、静かに画面を見つめる。
「……せやけど、私がおらんかったら、家族はもっと上手くいっとったかもしれん」
「そんなわけないやろ」
「ほんまに?」
「ほんまや」
蒼一郎は、まっすぐにゆいを見つめた。
「お前が悪いんやったら、俺も悪いってことになるやん」
「……?」
「俺は、ピアノばっかりやっとる。家のことなんか、ほとんど手伝わん」
「せやけど、うちの家族は、そんなことでバラバラにならへん」
「それと同じや」
「お前が耳が聞こえへんからって、それで家族が壊れるんやったら、最初から壊れとったんや」
「それは、お前のせいやない」
ゆいの心の奥に、何かが触れた。
でも——
その言葉を、簡単に受け入れることはできなかった。
だから、ゆいは、ゆっくりと打ち込む。
「わからん」
蒼一郎は、静かに頷いた。
「ほんなら、また考えたらええ」
「お前が悪いんちゃうって、俺は思うけどな」
ゆいは、スマホを握りしめながら、チャーハンを口に運んだ。
醤油の香ばしい味が、胸に沁みるように感じた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!