空色デイズ -音のない世界の中心で-

ただ頷いてくれればよかったのに
平木明日香
平木明日香

第18話

公開日時: 2025年2月21日(金) 08:56
文字数:3,044



歩道には、客引きのキャッチが立ち、ビルのネオンがチカチカと点滅している。


アーケードの下では、カップルが笑い合い、道端では、ギターを弾くストリートミュージシャンの姿があった。


——これが、「日常」なんやろうか?


ゆいは、ふとそう思った。


「なぁ、ゆい」


スマホを見つめていたゆいに、蒼一郎が声をかける。


「お前、最近どんな暮らししとるん?」


ゆいは、一瞬だけ迷った。


でも、隠すつもりもなかった。


スマホに、ゆっくりと打ち込む。


「真里亞で生きてる」


「……真里亞?」


蒼一郎の足が、わずかに止まった。


「それ、なんなん?」


ゆいは、少し考えてから、また文字を打ち込む。


「女のための組織。自由を手に入れる場所」


蒼一郎は、スマホの画面を見つめたまま、ゆっくりと顔を上げる。


「……それ、どういう意味?」


ゆいは、迷うことなく続けた。


「美柑っていう人が作った組織。女が、強く生きるための場所」


蒼一郎の眉が、わずかに寄る。


「……強く?」


「うん」


「…組織って、へんな組織やないやろな?」


「どういう意味?」


「…いや、ほら、あるやん?暴走族とか、そういうさ…?」


「まぁ、あながち間違ってないよ」


「…まじか。…なんで、そんな場所に?」


ゆいは、しばらく指を止めた後、短く打ち込んだ。


「強くなりたいから」


蒼一郎は、ゆっくりと息を吐いた。


「……そんなこと、せんでもええやろ」


「なんで?」


ゆいは、顔を上げた。


蒼一郎は、まっすぐにゆいを見つめていた。


「そんなところにいちゃ、ダメや」


「なんで?」


ゆいの心が、少しだけ揺れる。


「お前、そんな世界に染まったら、もう戻られへんかもしれんやん」


「戻る?」


「普通の生活に」


ゆいは、スマホを強く握った。


「……」


——普通の生活。


そんなもの、ゆいには最初からなかった。


学校では、いじめられていた。

家では、家族とまともな会話もなかった。


「“普通”って、何?」


ゆいは、スマホにそう打ち込む。


蒼一郎は、その文字をじっと見つめた。


「普通って、なんやろな」


彼は、小さく息をつく。


「俺も、それがわからんときはある」


「でも、少なくとも、お前が“真里亞”とかいうところで生きていくのは、絶対違うと思う」


「なんで?」


「だって、お前……」


蒼一郎は、一瞬言葉を詰まらせた。


「そんなの、望んでへんやろ?」


「……」


ゆいの心の奥が、少しだけ揺れた。


望んでへん?


じゃあ、私は何を望んでる?


「俺は、お前がそんな世界におるん、イヤや」


蒼一郎が、静かに言う。


「……お前が、そんなところで“強さ”とか探すん、間違っとる」


ゆいは、スマホの画面をじっと見つめた。


——間違っとる?


「お前、ほんまにそこで生きていくつもりなん?」


ゆいの指が、一瞬止まった。


そして、ゆっくりと動く。


「わからん」


蒼一郎は、息を呑んだ。


「そっか……」


ゆいは、スマホを握りしめたまま、足元のアスファルトを見つめた。


蒼一郎の言葉は、どこか遠くの出来事のように響いた。


でも、心の奥では、何かが小さく揺れていた。



街を歩きながら、2人はラーメン屋を探していた。


「どっか適当に入るか?」


蒼一郎が言うと、ゆいはスマホを開いて、少しだけ迷った。


「行ったことない店、探してみる?」


「ええやん。ほんならそうしよ」


駅前の通りを抜け、繁華街の奥へと進む。


ネオンが揺れる通りには、飲み屋やクラブが立ち並び、その合間にラーメン屋の赤い提灯が見え隠れしている。


しかし——


しばらく歩いても、なかなか「入りたい」と思える店が見つからなかった。


蒼一郎が、少し歩き疲れたように言う。


「適当に入ってもええけど、せっかくやし、お前が好きな店にしよや」


ゆいは、スマホに打ち込む。


「ほんなら、いつも行っとったとこでええ?」


「お、ええやん。どこ?」


ゆいは、少し考えてから、静かに足を向けた。


結局——


選んだのは、昔から通っていたラーメン屋だった。




【路地裏のラーメン屋「神虎軒(しんこけん)」】



三宮の繁華街から少し離れた、静かな裏通り。


小さな看板の下に、白い暖簾がかかっている。


「神虎軒」


ここは、ゆいが幼い頃から通っていた店だった。


——家族と一緒に。


「へぇ、こんなとこにあったんか」


蒼一郎が暖簾をくぐりながら言う。


「渋いな、ええ感じのとこや」


店内はカウンター席だけの、こぢんまりした作り。

奥の厨房では、年配の店主が手際よく中華鍋を振っていた。


ゆいは、慣れたように席につく。


蒼一郎は、ゆいの動きを見て少し笑った。


「めっちゃ馴染んどるやん」


ゆいは、スマホに短く打つ。


「ここ、昔から来とった」


「へぇ……ほな、おすすめは?」


「チャーハンセット」


蒼一郎は、メニューを見て頷いた。


「ほな、それにするわ。お前も?」


ゆいは、コクリと頷く。


店主が「何にするん?」と気さくに尋ねると、ゆいは「チャーハンセット2つ」と言わんばかりにジェスチャーする。


店主はゆいのことを覚えているようだった。


最初は言葉を発しない彼女に戸惑ったような表情を見せていたが、ゆいが差し出したスマホの画面を覗き込んだ後、「ああ、ゆいちゃんか」と小さく呟いた。


蒼一郎が驚いたように目を丸くする。


「めっちゃ常連やん」


ゆいは、小さく微笑んだ。


——ここは彼女にとって、昔の“日常”の一部だった。




しばらくして、カウンターにチャーハンセットが置かれた。


醤油の香ばしい香りが立ち上る。


蒼一郎が、スープを一口飲んで「うまっ」と目を見開いた。


「ええやん、ここ。ええ店選んだな」


ゆいは、スマホを握ったまま、小さく頷く。


少し迷った後——


「ここ、昔は家族でよく来とった」


そう、打ち込んだ。


蒼一郎は、箸を止める。


「……そっか」


ゆいは、チャーハンを口に運びながら、少しだけ視線を落とした。


「今も?」


蒼一郎が静かに聞く。


ゆいは、スマホを開いて、一瞬だけ指を止めた。


そして、短く打ち込んだ。


「もう来てない」


「……」


「母さんと父さんは、もう離れ離れになっちゃったし」


蒼一郎は、何も言わずに、ゆいの言葉を待った。


ゆいは、ゆっくりと続ける。


「私が生まれてから、ずっとや」


「……お前が生まれてから?」


「私のせいで、仲が悪くなった」


蒼一郎は、箸を置いた。


「なんで、そう思うん?」


ゆいは、一度スマホを伏せた。


そして、少し息を吐いて、再び画面を見つめる。


「私が耳が聞こえへんから」


「母さんは、私のせいで家を出ていった」


蒼一郎の手が、わずかに震えた。


「……お前、それ、本気で思っとるん?」


ゆいは、スマホに「うん」と打った。


「違うやろ」


蒼一郎の声が、少しだけ強くなった。


「それ、お前のせいやない」


ゆいは、静かに画面を見つめる。


「……せやけど、私がおらんかったら、家族はもっと上手くいっとったかもしれん」


「そんなわけないやろ」


「ほんまに?」


「ほんまや」


蒼一郎は、まっすぐにゆいを見つめた。


「お前が悪いんやったら、俺も悪いってことになるやん」


「……?」


「俺は、ピアノばっかりやっとる。家のことなんか、ほとんど手伝わん」


「せやけど、うちの家族は、そんなことでバラバラにならへん」


「それと同じや」


「お前が耳が聞こえへんからって、それで家族が壊れるんやったら、最初から壊れとったんや」


「それは、お前のせいやない」


ゆいの心の奥に、何かが触れた。


でも——


その言葉を、簡単に受け入れることはできなかった。


だから、ゆいは、ゆっくりと打ち込む。


「わからん」


蒼一郎は、静かに頷いた。


「ほんなら、また考えたらええ」


「お前が悪いんちゃうって、俺は思うけどな」


ゆいは、スマホを握りしめながら、チャーハンを口に運んだ。


醤油の香ばしい味が、胸に沁みるように感じた。

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