空色デイズ -音のない世界の中心で-

ただ頷いてくれればよかったのに
平木明日香
平木明日香

音のない世界

第1話

公開日時: 2025年2月11日(火) 22:49
文字数:4,391



橘ゆいは、生まれつき音のない世界にいた。


目を覚ましても、窓の外の車の音も、鳥のさえずりも聞こえない。

母が呼ぶ声も、時計の針の音も、何もない。世界はいつも静寂に包まれていた。


彼女が幼い頃、母は手話を使って「あんたは特別なんやで」と微笑んだ。

父もまた、「お前は誰よりも美しい音を持っとるんや」と言って、彼女の背中を撫でた。


しかし、学校に上がるとすぐに気づいた。


この世界において、「特別」であることは、必ずしも良いことではない。


「また無視かいな?」

「話しかけても気づかんし、感じ悪いやっちゃなあ」

「聞こえへんのやったら、学校来る意味ないんちゃうん?」


彼女の知らないところで、背後で笑い声が響いていたのかもしれない。だが、ゆいにはそれすらも聞こえなかった。


ある日、教室の黒板に大きく書かれていた文字を見た。


『耳が聞こえないくせに、なんで普通の学校に来るの?』


クラスメイトたちは、誰一人としてその文字を消さなかった。教師ですら、ただチラリと黒板を見て、何も言わずに授業を始めた。


ゆいは静かに席につき、何事もなかったかのようにノートを開いた。


それが、彼女の生き方だった。



最初は、少しでも普通に馴染もうと努力した。


補聴器をつけて、相手の口元を読んで、必死に会話を理解しようとした。

休み時間、クラスメイトの輪の中に入ろうとしたこともある。


けれど——。


「お前、ほんまに聞こえとるん? 適当に頷いとるだけちゃうん?」

「なんか気持ち悪いな、全然噛み合ってへんし」

「なんで、そんなんで普通の学校来たん?」


いつしか、話しかけても誰も返事をしなくなった。

「無視される」というより、「最初から存在しないもの」として扱われるようになった。


机の中に教科書を入れていたはずなのに、授業前にはなくなっていた。

上履きがどこかに捨てられていたこともある。


先生に相談しようとしても——。


「気にしすぎちゃうか?」

「みんな、そこまで悪気はないと思うで」

「聞こえへんのは大変やけど、もうちょっと頑張らなあかんのとちゃう?」


何を頑張ればよかったのか、ゆいにはわからなかった。




彼女にとって、世界はモノクロだった。


色は見えているはずなのに、どこか無機質で、冷たい印象しかなかった。


音がないからだろうか。

それとも、周りの人間が、誰も自分を見ていないからだろうか。


しかし、たった一人だけ、ゆいを「普通」に扱う人間がいた。


峯岸蒼一郎。


彼は天才ピアニストだった。幼い頃から世界的なコンクールで入賞し、新聞やテレビに取り上げられるような人物だった。


けれど、彼の周囲にいる人間は、誰も彼を「蒼一郎」として見ていなかった。


「ピアノがすごいから」

「天才だから」

「将来は世界に名を轟かせるだろうから」


彼を囲む人々の視線には、そんな期待が詰まっていた。


しかし、ゆいは違った。


彼女にとって、蒼一郎はただの「蒼一郎」でしかなかった。

音楽を知らない彼女には、彼の才能など関係なかった。


だからこそ、蒼一郎は、そんなゆいの存在に安堵していた。


彼は時折、ゆいの手を取り、ピアノの鍵盤に触れさせることがあった。

振動を感じることはできる。だが、それが「音」なのかどうかはわからなかった。


「お前に、俺の音を届けたいんや」


そう言われても、ゆいはただ「ふうん」と頷くだけだった。


蒼一郎がどれだけ努力しても、彼の音は、彼女の世界には存在しなかった。



『普通の世界では生きていけない』


そう悟ったのは、彼女が高校に上がってすぐのことだった。


何度頑張っても、何をしても、ここでは生きていけない。

ならば、ここにいる理由はない。


「もう、学校も家も、どっちもいらんわ」


荷物をまとめながら、ゆいは小さく呟いた。


そして、家を出た。


金はほとんどなかった。

けれど、それでも家にいるよりはマシだった。


最初の数日は、ネカフェやカラオケで夜を明かした。

けれど、金が尽きるのは時間の問題だった。


「働かなあかんな……」


そう思いながら、ゆいは神戸の繁華街を彷徨った。


ネオンがぎらつく夜の街。

その中には、昼間の世界とは違う「生き方」をしている人間たちがいた。


キャバクラの前で客を呼び込む女たち。

スーツ姿の男たちが、店の前で大声を張り上げている。

街角には、仕事を求める少女たちがたむろしていた。


「——こういう世界も、あるんやな」


ここなら、自分でも生きていけるかもしれない。

そんな漠然とした期待を抱きながら歩いていた、その時——。


目の前で、男が吹っ飛んだ。



「……なんや、今の?」


ゆいは思わず立ち止まった。


視線の先では、数人の男が路上に転がっていた。

顔を抑えて苦しんでいる男、膝をついて動けなくなっている男——。

そいつらを見下ろしているのは、一人の少女だった。


司美柑。


長身で、均整の取れた体つき。

短く切り揃えられた髪。

男たちに囲まれているにもかかわらず、どこか余裕すら感じさせる佇まい。


「……なにしとんねん、アンタら」


ゆっくりとした関西弁。

しかし、その声には圧倒的な威圧感があった。


倒れた男の一人が、震える声で叫ぶ。


「お、お前……女のくせに……っ!」


その瞬間、美柑が足を振り上げた。


バキッ!!


鈍い音が響く。

男の顔が、ぐにゃりと歪んだ。

鼻血を吹き出しながら、そいつはそのままアスファルトに沈んだ。


「おいおい、女のくせにって……そっちが絡んできたんやろが」


美柑はポケットに手を突っ込んだまま、倒れた男を見下ろした。


「よう覚えとき。強いもんが勝つんや。男も女も関係ない。弱いヤツが死ぬ。それだけや」


ゆいは、その光景を見ていた。


息を呑む。

今まで見たこともない、「強さ」だった。


——これが、力なんか。


震えた。

怖かったわけじゃない。

むしろ、体の奥から熱いものがこみ上げてきた。


ゆいは、ふらふらと美柑のほうへ歩いていった。


美柑が、ちらりとこちらを見た。


「……あん?」


その目は、鋭く、鋭く。

まるで、猛獣みたいな目だった。


ゆいはポケットからスマホを取り出し、震える指でアプリを開いた。

音声変換アプリ。


「——あたしを……あんたのとこに入れてくれへん?」


スマホのスピーカーから、無機質な電子音が流れた。


美柑は目を細め、ゆいをじっと見つめた。


「……なんや、それ?」


ゆいは答えず、手話で必死に訴えかける。


——あたしは、耳が聞こえへん。

——でも、ここに入りたい。

——強くなりたいんや。


美柑の顔が、一瞬だけ驚いたように動いた。


戸惑いの表情。


それはきっと、「耳が聞こえない人間が、自分のところに入りたいと言っている」という状況を整理しきれなかったからだろう。


けれど、ゆいは諦めなかった。

何度も何度も、手話とスマホを使って、必死に伝え続けた。


美柑はしばらく沈黙していたが、やがて——。


「……おもろいやん」


ニヤリと笑った。


「ええで。ウチに入れたる。せやけど——」


美柑はゆいに歩み寄り、肩をぽんと叩いた。


「強くなりたいんやったら、それなりの覚悟、持っときや」


その笑顔が、ゆいには眩しく見えた。



美柑の言葉通り、ゆいは「真里亞」に入った。


「真里亞」とは、神戸を代表する不良グループの一つであり、関西でも有名な暴走族の一つだった。


「真里亞」は、ただの暴走族ではない。


表向きは神戸市中央区を拠点に活動する女性主体の暴走族。

だが、その実態は裏社会の資金繰りを行う組織であり、女たちが自らの力で生き抜くための拠点だった。


構成員は百人以上。メンバーの多くは、風俗嬢・ホステス・水商売の女たち。

さらに、企業の経理操作を担当する秘書、情報屋、薬物の運び屋、違法賭博のディーラーなど、多種多様な職種の女が揃っていた。


警察が手を出せない女の犯罪組織。

それが、真里亞だった。


しかし、組織には一つの理念があった。


「女が、女の力で生き抜く」


そのために、彼女たちは何でもやる。


金が必要なら、売春する。

地位が必要なら、弱い男を取り込む。

脅しが必要なら、暴力も辞さない。


男に支配される側ではなく、男を利用する側として、女だけの世界を作る。

それが、真里亞の生き方だった。


そして、その頂点に立つのが、美柑だった。



二代目総長。



組織のすべてを統括し、裏社会と繋がりを持ち、暴力と金を掌握する女。

その存在は、街の男たちでさえ一目置くほどだった。


彼女の前では、誰もが頭を下げる。

誰もが、彼女の「力」に従うしかない。


ゆいは、その美柑のもとに入った。



「女が生きるには、力がいる。そうやろ?」



美柑はそう言った。


その言葉に、ゆいは心の底から共感した。


学校では何をしても無駄だった。

普通の社会では生きていけなかった。


しかし、美柑の住んでいる世界は違う。

ここでは、「力」がすべてを決める。


「ここなら、あたしにも価値がある」


そう確信した。


けれど——。


美柑が、ゆいのスマホ画面を指差した。


「……お前、処女なんやろ?」


ゆいは頷いた。


「そうやけど、それが何か?」


美柑は少しだけ眉を寄せ、ゆいのスマホを指でトントンと叩く。

ゆいは頷き、スマホを開いた。


2人の間で、チャットアプリが立ち上がる。


美柑: お前、ほんまに風俗で働くつもりか?


ゆい: うん。金が要るから


数秒の間。


美柑: アホか


そう送られた瞬間、美柑はソファにバサッと座り、タバコに火をつけた。

しかし、視線はスマホ画面に固定されたまま。


美柑: 処女はあかん。風俗嬢は体を資本にする仕事や。……せやけど、それがどんだけしんどい仕事かわかっとるんか?


ゆいはすぐに返信を打つ。


ゆい: 好きでもない男と寝て、金を稼ぐだけやろ?簡単やん


その返事を見た瞬間、美柑は一瞬だけ目を見開いた。


そして、ゆっくりと指を動かす。


美柑: そう思うんやったら、お前、まだまだガキやな


美柑: 男と寝るだけの仕事、楽そうやって思うかもしれん。でも、心が病む子もおるんや。売春って、男に体売るだけちゃうねん。自分の価値を金で決められるんや


一拍置いて、さらに追撃するようにもう一文。


美柑: それでも、本気でやる気あるんか?


ゆいの手が、スマホの上で止まる。


迷いではない。ただ、考えた。


ゆい: ある


送信ボタンを押すと、すぐに美柑が返信した。


美柑: ほんまにそう思っとるんやったら、まずは誰かと寝てこいや


ゆい: ……なんで?


美柑: 経験がないやつが、この世界でやっていけるわけないやろ


美柑: 処女がいきなり風俗で働くんは、自転車乗ったことない子供がいきなりバイク乗るようなもんや。痛い思いするのは目に見えとる


美柑: 自分の体を使って金を稼ぐ。それがどんな感覚なんか、一回知っとかなあかん


タバコの煙が、ふわりと宙を漂う。

美柑はスマホの画面を見たまま、ゆるく煙を吐き出した。


ゆいは、じっとスマホを見つめた。


美柑: 知り合いに誰かおるやろ? そいつと寝てこい。それができんかったら、うちで働く資格はない


送られたメッセージを読み、ゆいは小さく息を吐いた。


そして——。


ゆい: ……わかった


スマホのチャット履歴を開く。


指が止まった。


そこにあった名前は——峯岸蒼一郎。

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