橘ゆいは、生まれつき音のない世界にいた。
目を覚ましても、窓の外の車の音も、鳥のさえずりも聞こえない。
母が呼ぶ声も、時計の針の音も、何もない。世界はいつも静寂に包まれていた。
彼女が幼い頃、母は手話を使って「あんたは特別なんやで」と微笑んだ。
父もまた、「お前は誰よりも美しい音を持っとるんや」と言って、彼女の背中を撫でた。
しかし、学校に上がるとすぐに気づいた。
この世界において、「特別」であることは、必ずしも良いことではない。
「また無視かいな?」
「話しかけても気づかんし、感じ悪いやっちゃなあ」
「聞こえへんのやったら、学校来る意味ないんちゃうん?」
彼女の知らないところで、背後で笑い声が響いていたのかもしれない。だが、ゆいにはそれすらも聞こえなかった。
ある日、教室の黒板に大きく書かれていた文字を見た。
『耳が聞こえないくせに、なんで普通の学校に来るの?』
クラスメイトたちは、誰一人としてその文字を消さなかった。教師ですら、ただチラリと黒板を見て、何も言わずに授業を始めた。
ゆいは静かに席につき、何事もなかったかのようにノートを開いた。
それが、彼女の生き方だった。
最初は、少しでも普通に馴染もうと努力した。
補聴器をつけて、相手の口元を読んで、必死に会話を理解しようとした。
休み時間、クラスメイトの輪の中に入ろうとしたこともある。
けれど——。
「お前、ほんまに聞こえとるん? 適当に頷いとるだけちゃうん?」
「なんか気持ち悪いな、全然噛み合ってへんし」
「なんで、そんなんで普通の学校来たん?」
いつしか、話しかけても誰も返事をしなくなった。
「無視される」というより、「最初から存在しないもの」として扱われるようになった。
机の中に教科書を入れていたはずなのに、授業前にはなくなっていた。
上履きがどこかに捨てられていたこともある。
先生に相談しようとしても——。
「気にしすぎちゃうか?」
「みんな、そこまで悪気はないと思うで」
「聞こえへんのは大変やけど、もうちょっと頑張らなあかんのとちゃう?」
何を頑張ればよかったのか、ゆいにはわからなかった。
彼女にとって、世界はモノクロだった。
色は見えているはずなのに、どこか無機質で、冷たい印象しかなかった。
音がないからだろうか。
それとも、周りの人間が、誰も自分を見ていないからだろうか。
しかし、たった一人だけ、ゆいを「普通」に扱う人間がいた。
峯岸蒼一郎。
彼は天才ピアニストだった。幼い頃から世界的なコンクールで入賞し、新聞やテレビに取り上げられるような人物だった。
けれど、彼の周囲にいる人間は、誰も彼を「蒼一郎」として見ていなかった。
「ピアノがすごいから」
「天才だから」
「将来は世界に名を轟かせるだろうから」
彼を囲む人々の視線には、そんな期待が詰まっていた。
しかし、ゆいは違った。
彼女にとって、蒼一郎はただの「蒼一郎」でしかなかった。
音楽を知らない彼女には、彼の才能など関係なかった。
だからこそ、蒼一郎は、そんなゆいの存在に安堵していた。
彼は時折、ゆいの手を取り、ピアノの鍵盤に触れさせることがあった。
振動を感じることはできる。だが、それが「音」なのかどうかはわからなかった。
「お前に、俺の音を届けたいんや」
そう言われても、ゆいはただ「ふうん」と頷くだけだった。
蒼一郎がどれだけ努力しても、彼の音は、彼女の世界には存在しなかった。
『普通の世界では生きていけない』
そう悟ったのは、彼女が高校に上がってすぐのことだった。
何度頑張っても、何をしても、ここでは生きていけない。
ならば、ここにいる理由はない。
「もう、学校も家も、どっちもいらんわ」
荷物をまとめながら、ゆいは小さく呟いた。
そして、家を出た。
金はほとんどなかった。
けれど、それでも家にいるよりはマシだった。
最初の数日は、ネカフェやカラオケで夜を明かした。
けれど、金が尽きるのは時間の問題だった。
「働かなあかんな……」
そう思いながら、ゆいは神戸の繁華街を彷徨った。
ネオンがぎらつく夜の街。
その中には、昼間の世界とは違う「生き方」をしている人間たちがいた。
キャバクラの前で客を呼び込む女たち。
スーツ姿の男たちが、店の前で大声を張り上げている。
街角には、仕事を求める少女たちがたむろしていた。
「——こういう世界も、あるんやな」
ここなら、自分でも生きていけるかもしれない。
そんな漠然とした期待を抱きながら歩いていた、その時——。
目の前で、男が吹っ飛んだ。
「……なんや、今の?」
ゆいは思わず立ち止まった。
視線の先では、数人の男が路上に転がっていた。
顔を抑えて苦しんでいる男、膝をついて動けなくなっている男——。
そいつらを見下ろしているのは、一人の少女だった。
司美柑。
長身で、均整の取れた体つき。
短く切り揃えられた髪。
男たちに囲まれているにもかかわらず、どこか余裕すら感じさせる佇まい。
「……なにしとんねん、アンタら」
ゆっくりとした関西弁。
しかし、その声には圧倒的な威圧感があった。
倒れた男の一人が、震える声で叫ぶ。
「お、お前……女のくせに……っ!」
その瞬間、美柑が足を振り上げた。
バキッ!!
鈍い音が響く。
男の顔が、ぐにゃりと歪んだ。
鼻血を吹き出しながら、そいつはそのままアスファルトに沈んだ。
「おいおい、女のくせにって……そっちが絡んできたんやろが」
美柑はポケットに手を突っ込んだまま、倒れた男を見下ろした。
「よう覚えとき。強いもんが勝つんや。男も女も関係ない。弱いヤツが死ぬ。それだけや」
ゆいは、その光景を見ていた。
息を呑む。
今まで見たこともない、「強さ」だった。
——これが、力なんか。
震えた。
怖かったわけじゃない。
むしろ、体の奥から熱いものがこみ上げてきた。
ゆいは、ふらふらと美柑のほうへ歩いていった。
美柑が、ちらりとこちらを見た。
「……あん?」
その目は、鋭く、鋭く。
まるで、猛獣みたいな目だった。
ゆいはポケットからスマホを取り出し、震える指でアプリを開いた。
音声変換アプリ。
「——あたしを……あんたのとこに入れてくれへん?」
スマホのスピーカーから、無機質な電子音が流れた。
美柑は目を細め、ゆいをじっと見つめた。
「……なんや、それ?」
ゆいは答えず、手話で必死に訴えかける。
——あたしは、耳が聞こえへん。
——でも、ここに入りたい。
——強くなりたいんや。
美柑の顔が、一瞬だけ驚いたように動いた。
戸惑いの表情。
それはきっと、「耳が聞こえない人間が、自分のところに入りたいと言っている」という状況を整理しきれなかったからだろう。
けれど、ゆいは諦めなかった。
何度も何度も、手話とスマホを使って、必死に伝え続けた。
美柑はしばらく沈黙していたが、やがて——。
「……おもろいやん」
ニヤリと笑った。
「ええで。ウチに入れたる。せやけど——」
美柑はゆいに歩み寄り、肩をぽんと叩いた。
「強くなりたいんやったら、それなりの覚悟、持っときや」
その笑顔が、ゆいには眩しく見えた。
美柑の言葉通り、ゆいは「真里亞」に入った。
「真里亞」とは、神戸を代表する不良グループの一つであり、関西でも有名な暴走族の一つだった。
「真里亞」は、ただの暴走族ではない。
表向きは神戸市中央区を拠点に活動する女性主体の暴走族。
だが、その実態は裏社会の資金繰りを行う組織であり、女たちが自らの力で生き抜くための拠点だった。
構成員は百人以上。メンバーの多くは、風俗嬢・ホステス・水商売の女たち。
さらに、企業の経理操作を担当する秘書、情報屋、薬物の運び屋、違法賭博のディーラーなど、多種多様な職種の女が揃っていた。
警察が手を出せない女の犯罪組織。
それが、真里亞だった。
しかし、組織には一つの理念があった。
「女が、女の力で生き抜く」
そのために、彼女たちは何でもやる。
金が必要なら、売春する。
地位が必要なら、弱い男を取り込む。
脅しが必要なら、暴力も辞さない。
男に支配される側ではなく、男を利用する側として、女だけの世界を作る。
それが、真里亞の生き方だった。
そして、その頂点に立つのが、美柑だった。
二代目総長。
組織のすべてを統括し、裏社会と繋がりを持ち、暴力と金を掌握する女。
その存在は、街の男たちでさえ一目置くほどだった。
彼女の前では、誰もが頭を下げる。
誰もが、彼女の「力」に従うしかない。
ゆいは、その美柑のもとに入った。
「女が生きるには、力がいる。そうやろ?」
美柑はそう言った。
その言葉に、ゆいは心の底から共感した。
学校では何をしても無駄だった。
普通の社会では生きていけなかった。
しかし、美柑の住んでいる世界は違う。
ここでは、「力」がすべてを決める。
「ここなら、あたしにも価値がある」
そう確信した。
けれど——。
美柑が、ゆいのスマホ画面を指差した。
「……お前、処女なんやろ?」
ゆいは頷いた。
「そうやけど、それが何か?」
美柑は少しだけ眉を寄せ、ゆいのスマホを指でトントンと叩く。
ゆいは頷き、スマホを開いた。
2人の間で、チャットアプリが立ち上がる。
美柑: お前、ほんまに風俗で働くつもりか?
ゆい: うん。金が要るから
数秒の間。
美柑: アホか
そう送られた瞬間、美柑はソファにバサッと座り、タバコに火をつけた。
しかし、視線はスマホ画面に固定されたまま。
美柑: 処女はあかん。風俗嬢は体を資本にする仕事や。……せやけど、それがどんだけしんどい仕事かわかっとるんか?
ゆいはすぐに返信を打つ。
ゆい: 好きでもない男と寝て、金を稼ぐだけやろ?簡単やん
その返事を見た瞬間、美柑は一瞬だけ目を見開いた。
そして、ゆっくりと指を動かす。
美柑: そう思うんやったら、お前、まだまだガキやな
美柑: 男と寝るだけの仕事、楽そうやって思うかもしれん。でも、心が病む子もおるんや。売春って、男に体売るだけちゃうねん。自分の価値を金で決められるんや
一拍置いて、さらに追撃するようにもう一文。
美柑: それでも、本気でやる気あるんか?
ゆいの手が、スマホの上で止まる。
迷いではない。ただ、考えた。
ゆい: ある
送信ボタンを押すと、すぐに美柑が返信した。
美柑: ほんまにそう思っとるんやったら、まずは誰かと寝てこいや
ゆい: ……なんで?
美柑: 経験がないやつが、この世界でやっていけるわけないやろ
美柑: 処女がいきなり風俗で働くんは、自転車乗ったことない子供がいきなりバイク乗るようなもんや。痛い思いするのは目に見えとる
美柑: 自分の体を使って金を稼ぐ。それがどんな感覚なんか、一回知っとかなあかん
タバコの煙が、ふわりと宙を漂う。
美柑はスマホの画面を見たまま、ゆるく煙を吐き出した。
ゆいは、じっとスマホを見つめた。
美柑: 知り合いに誰かおるやろ? そいつと寝てこい。それができんかったら、うちで働く資格はない
送られたメッセージを読み、ゆいは小さく息を吐いた。
そして——。
ゆい: ……わかった
スマホのチャット履歴を開く。
指が止まった。
そこにあった名前は——峯岸蒼一郎。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!