蒼一郎とゆいが、並んで歩いていく。
夕暮れの光が、2人の背中をゆるやかに包んでいた。
美柑は、その後ろ姿をじっと見つめながら、ぼんやりと考えていた。
——音が聞こえへん世界って、どんな感じなんやろう?
蒼一郎の「音楽」は、あまりにも確かだった。
それは、耳で聴くものではなく、心で感じる何かだった。
でも、ゆいはその「音」が届かない世界で生きている。
彼女にとって、音楽はどんな意味を持つんやろう?
「……」
美柑は、その答えを知りたかった。
ゆいと蒼一郎の間には、特別な空気があった。
音のない世界と、音を追い求める世界。
交わらないはずの2人が、自然に寄り添っている。
——音がなくても、人の間には“間合い”があるんやな。
言葉がなくても、音楽が聞こえなくても、人と人の距離は、ちゃんと測れる。
武術の「間合い」とは違う、もっと穏やかで、柔らかいもの。
——これが、私が探しているものなんやろうか?
それとも——
蒼一郎とゆいは、駅の近くで別れた。
ゆいはスマホを取り出し、蒼一郎に「また明日」と打ち込んで見せた。
蒼一郎は笑い、軽く手を振った。
美柑は、それを遠くから見ていた。
ゆいは、静かに電車を待っていた。
そして、その横顔はどこか寂しそうに見えた。
「……」
美柑は、少し迷った後、ゆいに近づいた。
「お前、蒼一郎のこと好きなんか?」
ゆいは、びくっと肩を震わせた。
そして、スマホを取り出し、少し考えた後、画面を見せた。
『誰!?』
美柑は画面を覗き、クスッと笑う。
「ただの通りすがりのもんや」
美柑の声を拾ったスマホが、ゆいに「言葉」を届ける。
通りすがりのもの…?
首を傾げつつ、ポチポチっと画面を押す。
『蒼一郎の友達?』
「違う」
『じゃあ、誰?』
「せやから言うたやろ。ただの“通りすがり”やって」
美柑の言葉に、再度首を傾げる。
中学生だった美柑の風貌は、自分よりもはるかに“大人”だった。
蒼一郎の知り合いなら、音楽の関係の人?
それとも——
「耳が聞こえないんやな」
『うん…』
「まあでもええやん。こうして会話が出来とるわけやし」
『そうだね』
「で、どうなん?どう思っとるん?」
ゆいはその言葉の意味がわからないわけじゃなかった。
好きかどうか。
でも、そんなことは一度も考えたことはなかった。
家が近くて、たまたま仲良くだったってだけで。
『わからない』
「……そっか」
美柑は、それ以上は何も言わなかった。
でも、その答えは、嘘ではない気がした。
ゆいは、音のない世界で、蒼一郎の「音楽」をどう感じているんやろう?
——私も、音を感じようとしてる。でも、それは“聞く”こととは違うんかもしれへん。
もしかしたら、ゆいは、私と同じように「音の正体」を探しているんかもしれへん。
美柑は、またどこかで会おう言って、戸惑うゆいを横目に手を振った。
その日、美柑は一人で三宮の街を歩いた。
ネオンの光、行き交う人々の足音、遠くから聞こえる電車のアナウンス。
どれも、当たり前にある「音」だった。
でも、ゆいには届かない音たち。
——音って、なんなんやろう?
音楽とは、ただの音の集まりなんか?
それとも、人の心に届く何かなんか?
「……」
美柑は、目を閉じてみた。
そして、蒼一郎のピアノの旋律を思い出す。
——澄んだ高音。
——深く響く低音。
音楽とは、単なる音ではなく——
「間合い」や。
音の間にある空白。
音と音をつなぐ「流れ」。
それは、武術の「間」と同じものやった。
「……」
美柑は、ゆっくりと息を吐いた。
音楽の正体は、武術の中にもあるんかもしれへん。
でも、それを知るには、
もう少しだけ——
この「音」を追いかける必要がある。
美柑は、道場の床に正座していた。
目を閉じ、深く息を吸う。
静寂の中で、自分の鼓動がわずかに聞こえる。
「……」
頭の中で、蒼一郎のピアノの旋律を思い出す。
——高音が星を描くように舞う。
——低音が大地のように支える。
音と音の間には、「間」がある。
流れるリズム、溜める呼吸、そして次の音へと繋がる空間。
——これって、武術の間合いと同じなんやないか?
美柑は、ゆっくりと目を開けた。
「……試してみるか」
「……お前、最近なにか変わったな」
祖父であり、師である大重灌流が、組手の最中にふと呟いた。
「ほう……」
美柑は、いつものように祖父と向かい合う。
呼吸を整え、間合いを測る。
今までは、敵の動きを予測し、相手の間合いに入り込むことを意識していた。
でも、今日は違う。
相手の間だけじゃなく、自分の「流れ」を意識する。
「……」
まるで、音楽を演奏するように。
——相手の動きが、旋律になる。
——自分の動きが、リズムになる。
——そして、その間を繋ぐ「無音」が、間合いになる。
美柑は、軽く膝を曲げ、次の攻撃の瞬間を待った。
灌流が動く。
踏み込み、拳が美柑の顔面へと迫る——
その瞬間。
——間合いの「音」が聞こえた。
——時間が、流れるように見えた。
美柑は、無意識に体を捌いた。
灌流の拳は、わずかに空を切る。
「……!」
そのまま、間合いの流れを掴み、
美柑は祖父の懐に入り込んだ。
そして——
ピタリと動きを止めた。
まるで、音楽の終止符を打つように。
「……!」
祖父は目を見開き、すぐに軽く笑った。
「面白いな」
美柑は、息を吐いた。
「今の、なんやったんや……?」
——音楽の感覚や。
間合いを掴むことは、リズムを掴むことと同じやった。
流れを読み、音を操るように、武術を操る。
「……これや」
美柑は、拳を軽く握りしめた。
「私の戦い方が、ようやく見えてきた」
「灌流、もう一戦」
「ほう?」
祖父は、楽しそうに頷いた。
「ええぞ。お前の新しい間合い、見せてみぃ」
美柑は、ゆっくりと構えを取った。
——今度は、音楽を演奏するように戦う。
「……行くで」
武術と音楽の境界が、ゆっくりと混ざり合い始めていた。
道場に、静かな緊張感が漂っていた。
灌流と美柑が、向かい合う。
「……お前、何か掴んだんか?」
祖父が、わずかに目を細めた。
美柑は、静かに拳を握る。
「……まだ全部はわかってへん」
「せやけど……確かに“音”を感じる」
灌流は、その言葉に小さく笑った。
「ならば、試してみるがええ」
「お前の“音の戦い”、ワシに見せてみぃ」
美柑は、深く息を吸い込んだ。
そして——
ゆっくりと、一歩踏み出した。
今までの戦い方とは、違った。
普通なら、間合いを詰めるか、相手の動きに合わせて先を取る。
でも、今の美柑は違う。
「……」
まるで、舞うように動く。
相手の間合いを測るのではなく、「音楽のリズムに乗る」ように、空間を漂う。
——ステップを刻むように、軽やかに動く。
——呼吸と間を揃え、流れを掴む。
まるで、ピアノの旋律のように。
灌流は、その動きに一瞬驚いた。
「ほう……」
次の瞬間、美柑が動いた。
その動きは、まるで“跳ねる音”のようだった。
——予測できない、独特なリズム。
灌流が攻撃を繰り出す。
しかし——
美柑は、その攻撃をまるで「音の流れを読んでいる」ように捌いた。
——間の取り方が違う。
——攻撃のタイミングが掴めない。
灌流は、思わず舌を打つ。
「おもしろい……!」
美柑は、確信した。
「音楽の間合いを使えば、戦いの流れを変えられる」
相手の攻撃に合わせるのではなく——
音楽のテンポで動く。
相手の流れに乗るのではなく——
リズムを操る。
ピアノの旋律のように、相手の攻撃の間に「音を挟むように」動く。
——まるで、新しい武術の形。
「これは、私の戦いや」
灌流は、深く息を吐きながら構えを解いた。
「……成長したな」
美柑は、肩で息をしながら拳を下ろした。
「……ええんか?」
「ええも何も、お前の“動き”は確かに、昔とは比べ物にならん」
灌流は、楽しそうに笑った。
「まさか、ここまでできるようになるとはな」
「ワシは、もうお前に教えることはない」
美柑は、その言葉に驚いた。
「……なんやて?」
「こっからは、お前自身が考えていくんや」
「後は、お前が自分の“型“を完成させる番や」
——自分の型。
美柑は、その言葉を噛み締めた。
「私の「型」を、完成させる……」
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