空色デイズ -音のない世界の中心で-

ただ頷いてくれればよかったのに
平木明日香
平木明日香

第29話

公開日時: 2025年2月22日(土) 22:02
文字数:3,212



蒼一郎とゆいが、並んで歩いていく。


夕暮れの光が、2人の背中をゆるやかに包んでいた。


美柑は、その後ろ姿をじっと見つめながら、ぼんやりと考えていた。


——音が聞こえへん世界って、どんな感じなんやろう?


蒼一郎の「音楽」は、あまりにも確かだった。

それは、耳で聴くものではなく、心で感じる何かだった。


でも、ゆいはその「音」が届かない世界で生きている。


彼女にとって、音楽はどんな意味を持つんやろう?


「……」


美柑は、その答えを知りたかった。



ゆいと蒼一郎の間には、特別な空気があった。


音のない世界と、音を追い求める世界。

交わらないはずの2人が、自然に寄り添っている。


——音がなくても、人の間には“間合い”があるんやな。


言葉がなくても、音楽が聞こえなくても、人と人の距離は、ちゃんと測れる。


武術の「間合い」とは違う、もっと穏やかで、柔らかいもの。


——これが、私が探しているものなんやろうか?


それとも——



蒼一郎とゆいは、駅の近くで別れた。


ゆいはスマホを取り出し、蒼一郎に「また明日」と打ち込んで見せた。


蒼一郎は笑い、軽く手を振った。


美柑は、それを遠くから見ていた。


ゆいは、静かに電車を待っていた。

そして、その横顔はどこか寂しそうに見えた。


「……」


美柑は、少し迷った後、ゆいに近づいた。


「お前、蒼一郎のこと好きなんか?」


ゆいは、びくっと肩を震わせた。


そして、スマホを取り出し、少し考えた後、画面を見せた。


『誰!?』


美柑は画面を覗き、クスッと笑う。


「ただの通りすがりのもんや」


美柑の声を拾ったスマホが、ゆいに「言葉」を届ける。


通りすがりのもの…?


首を傾げつつ、ポチポチっと画面を押す。


『蒼一郎の友達?』


「違う」


『じゃあ、誰?』


「せやから言うたやろ。ただの“通りすがり”やって」


美柑の言葉に、再度首を傾げる。


中学生だった美柑の風貌は、自分よりもはるかに“大人”だった。


蒼一郎の知り合いなら、音楽の関係の人?


それとも——


「耳が聞こえないんやな」


『うん…』


「まあでもええやん。こうして会話が出来とるわけやし」


『そうだね』


「で、どうなん?どう思っとるん?」


ゆいはその言葉の意味がわからないわけじゃなかった。


好きかどうか。


でも、そんなことは一度も考えたことはなかった。


家が近くて、たまたま仲良くだったってだけで。


『わからない』


「……そっか」


美柑は、それ以上は何も言わなかった。


でも、その答えは、嘘ではない気がした。


ゆいは、音のない世界で、蒼一郎の「音楽」をどう感じているんやろう?


——私も、音を感じようとしてる。でも、それは“聞く”こととは違うんかもしれへん。


もしかしたら、ゆいは、私と同じように「音の正体」を探しているんかもしれへん。


美柑は、またどこかで会おう言って、戸惑うゆいを横目に手を振った。



その日、美柑は一人で三宮の街を歩いた。


ネオンの光、行き交う人々の足音、遠くから聞こえる電車のアナウンス。


どれも、当たり前にある「音」だった。


でも、ゆいには届かない音たち。


——音って、なんなんやろう?


音楽とは、ただの音の集まりなんか?

それとも、人の心に届く何かなんか?


「……」


美柑は、目を閉じてみた。


そして、蒼一郎のピアノの旋律を思い出す。


——澄んだ高音。

——深く響く低音。


音楽とは、単なる音ではなく——


「間合い」や。


音の間にある空白。


音と音をつなぐ「流れ」。


それは、武術の「間」と同じものやった。


「……」


美柑は、ゆっくりと息を吐いた。


音楽の正体は、武術の中にもあるんかもしれへん。


でも、それを知るには、

もう少しだけ——


この「音」を追いかける必要がある。



美柑は、道場の床に正座していた。


目を閉じ、深く息を吸う。


静寂の中で、自分の鼓動がわずかに聞こえる。


「……」


頭の中で、蒼一郎のピアノの旋律を思い出す。


——高音が星を描くように舞う。

——低音が大地のように支える。


音と音の間には、「間」がある。

流れるリズム、溜める呼吸、そして次の音へと繋がる空間。


——これって、武術の間合いと同じなんやないか?


美柑は、ゆっくりと目を開けた。


「……試してみるか」



「……お前、最近なにか変わったな」


祖父であり、師である大重灌流が、組手の最中にふと呟いた。


「ほう……」


美柑は、いつものように祖父と向かい合う。


呼吸を整え、間合いを測る。


今までは、敵の動きを予測し、相手の間合いに入り込むことを意識していた。


でも、今日は違う。


相手の間だけじゃなく、自分の「流れ」を意識する。


「……」


まるで、音楽を演奏するように。


——相手の動きが、旋律になる。

——自分の動きが、リズムになる。

——そして、その間を繋ぐ「無音」が、間合いになる。


美柑は、軽く膝を曲げ、次の攻撃の瞬間を待った。


灌流が動く。


踏み込み、拳が美柑の顔面へと迫る——


その瞬間。


——間合いの「音」が聞こえた。


——時間が、流れるように見えた。


美柑は、無意識に体を捌いた。


灌流の拳は、わずかに空を切る。


「……!」


そのまま、間合いの流れを掴み、

美柑は祖父の懐に入り込んだ。


そして——


ピタリと動きを止めた。


まるで、音楽の終止符を打つように。


「……!」


祖父は目を見開き、すぐに軽く笑った。


「面白いな」


美柑は、息を吐いた。


「今の、なんやったんや……?」


——音楽の感覚や。


間合いを掴むことは、リズムを掴むことと同じやった。


流れを読み、音を操るように、武術を操る。


「……これや」


美柑は、拳を軽く握りしめた。


「私の戦い方が、ようやく見えてきた」



「灌流、もう一戦」


「ほう?」


祖父は、楽しそうに頷いた。


「ええぞ。お前の新しい間合い、見せてみぃ」


美柑は、ゆっくりと構えを取った。


——今度は、音楽を演奏するように戦う。


「……行くで」


武術と音楽の境界が、ゆっくりと混ざり合い始めていた。



道場に、静かな緊張感が漂っていた。


灌流と美柑が、向かい合う。


「……お前、何か掴んだんか?」


祖父が、わずかに目を細めた。


美柑は、静かに拳を握る。


「……まだ全部はわかってへん」


「せやけど……確かに“音”を感じる」


灌流は、その言葉に小さく笑った。


「ならば、試してみるがええ」


「お前の“音の戦い”、ワシに見せてみぃ」


美柑は、深く息を吸い込んだ。


そして——


ゆっくりと、一歩踏み出した。



今までの戦い方とは、違った。


普通なら、間合いを詰めるか、相手の動きに合わせて先を取る。


でも、今の美柑は違う。


「……」


まるで、舞うように動く。


相手の間合いを測るのではなく、「音楽のリズムに乗る」ように、空間を漂う。


——ステップを刻むように、軽やかに動く。

——呼吸と間を揃え、流れを掴む。


まるで、ピアノの旋律のように。


灌流は、その動きに一瞬驚いた。


「ほう……」


次の瞬間、美柑が動いた。


その動きは、まるで“跳ねる音”のようだった。


——予測できない、独特なリズム。


灌流が攻撃を繰り出す。


しかし——


美柑は、その攻撃をまるで「音の流れを読んでいる」ように捌いた。


——間の取り方が違う。

——攻撃のタイミングが掴めない。


灌流は、思わず舌を打つ。


「おもしろい……!」



美柑は、確信した。


「音楽の間合いを使えば、戦いの流れを変えられる」


相手の攻撃に合わせるのではなく——

音楽のテンポで動く。


相手の流れに乗るのではなく——

リズムを操る。


ピアノの旋律のように、相手の攻撃の間に「音を挟むように」動く。


——まるで、新しい武術の形。


「これは、私の戦いや」



灌流は、深く息を吐きながら構えを解いた。


「……成長したな」


美柑は、肩で息をしながら拳を下ろした。


「……ええんか?」


「ええも何も、お前の“動き”は確かに、昔とは比べ物にならん」


灌流は、楽しそうに笑った。


「まさか、ここまでできるようになるとはな」


「ワシは、もうお前に教えることはない」


美柑は、その言葉に驚いた。


「……なんやて?」


「こっからは、お前自身が考えていくんや」


「後は、お前が自分の“型“を完成させる番や」


——自分の型。


美柑は、その言葉を噛み締めた。


「私の「型」を、完成させる……」



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