空色デイズ -音のない世界の中心で-

ただ頷いてくれればよかったのに
平木明日香
平木明日香

第25話

公開日時: 2025年2月22日(土) 20:11
文字数:2,099


美柑は、武術に没頭する日々を送っていた。


でも、その心の奥には、ずっと言葉にできない感覚が残り続けていた。


——「確かな何か」が欲しい。


強くなることは、漠然とした目標に過ぎなかった。

それよりも、もっと確実なもの。

はっきりとした「形」や「時間」。


空の色、風の匂い、日常の風景——

どこかに、たったひとつの「本当のもの」があるはずだった。


それが何なのか、美柑にはわからなかった。


道場に通う日々の中で見つけたものかもしれない。

それとも、幼い頃から抱えていた“何か”なのかもしれない。


でも、その答えが見つからないまま、

ただ時間だけが過ぎていった。



夜の三宮は、ネオンの光が溢れていた。


高層ビルの谷間をすり抜ける風は冷たく、道を行き交う人々の話し声が、都市の喧騒に溶け込んでいる。


美柑は、ただ歩いていた。


「……」


武術を磨き続けても、心の奥に残る“ズレ”が消えなかった。


強くなればなるほど、自分の輪郭が曖昧になっていくような感覚。

技を極めるほど、「何か」が欠けている気がする。


——私が求めているものは、本当に「強さ」なんか?


美柑は、その答えがわからなかった。


ただ、心のどこかでずっと探していた。


心の中で聞こえてくる「何か」を。

目では決して見えない、——「形」や「時間」を。



歩いているうちに、見覚えのある店の前に立っていた。


「Bar Vento(ヴェント)」


母の店の近くにあったバー。


幼い頃、母の仕事が終わるのを待っている間、この店のじいさんがよく話し相手になってくれていた。


「……久しぶりやな」


懐かしさに誘われるように、店の扉を押した。



バーの中は、柔らかなオレンジ色の灯りに包まれていた。


客のざわめきが静かに響く。

カウンターの奥には、年老いたバーテンダーがグラスを磨いていた。


そして——


“音”が、流れていた。


美柑は、足を止めた。


ゆっくりと、空間に溶け込むような旋律。


静かで、穏やかで、それでいて、どこか胸を締めつけるような——


「確かなもの」だった。


それは、まるで川の流れのようだった。

強さや速さではなく、ただ、あるべき姿でそこにある。


一切の力みがなく、ただ、存在する音。


美柑は、自分が息をするのも忘れるほど、その音に引き込まれた。


「……」


目を向けると、ステージの片隅で、ひとりの少年がピアノを弾いていた。


——峯岸蒼一郎。


この時、美柑はまだ、その名前を知らなかった。


でも、この瞬間に刻みつけられた音だけは、決して忘れられないものになった。



美柑は、音楽には詳しくなかった。


でも、今流れている曲が、ただの“背景音楽”じゃないことは、はっきりとわかった。


ひとつひとつの音が、まるで夜の空気と交わるように、丁寧に紡がれていく。


——澄んだ高音が、星を描くように舞う。

——柔らかな低音が、大地のように支える。


音が、空間の隅々まで染み渡る。


それはまるで、世界がひとつの「形」を持って存在しているような、そんな確かな手触りだった。


「……これ、なんて曲?」


気づけば、美柑はカウンターで呟いていた。


バーテンダーのじいさんが微笑む。


「ドビュッシーの「夢」や」


ドビュッシー——


聞いたことがあるような、ないような名前だった。


でも、そんなことはどうでもよかった。


今、この音の中にある“確かさ”が、すべてだった。



美柑は、これまで「強さ」を求めてきた。


だが、目の前の音は——

「強さ」とはまったく違うものだった。


軽やかに流れていく「旋律」には、技のような駆け引きもなければ、戦いのための間合いもない。


でも、それなのに。


——この音は、どこまでも太く、大きい。


“強さ”の次元を超えた、もっと確かなもの。


それが、耳の中でざわめいていた。


美柑は、何も考えられなくなった。


ただ、そこにある音を浴びるしかできなかった。


「……なんなんやろ、これ」


答えは出ないまま、美柑は、ピアノを弾く少年の姿をじっと見つめていた。


——この音の向こうに、私が探していた“何か”があるのかもしれへん。


そう、直感的に思った。



曲が終わると、少年は静かに鍵盤から手を離した。


美柑は、思わず声をかけた。


「……なぁ」


少年が、少し驚いた顔で振り向く。


「なんや、今の」


「あ……演奏のこと?」


「せや。なんやったん?」


少年は、一瞬考えてから、静かに答えた。


「ドビュッシーの……夢」


「そうやなくて」


美柑は、首を振った。


「なんで、そんな上手なん?」


「……上手?」


少年——蒼一郎は、ゆっくりと微笑んだ。


「たぶん、それは——」


「俺が、ピアノが好きやからやと思う」


「好き……?」


「うん。ピアノは、俺にとって“日常”みたいなもんやから」


美柑は、その言葉に息を呑んだ。



——日常


こんな年下の子が、涼しい顔をしてそう話す。


美柑にとって、「日常」とはもっと近く、それでいて遠いものだった。


少年の弾く旋律は、美柑の知る日常とは、かけ離れた距離の向こうに響いていた。


探していたもの。


それが、彼にはもうある。


——私は、それをまだ見つけられていないのに。


「……そっか」


美柑は、カウンターのグラスを見つめながら、小さく呟いた。


この夜、蒼一郎との出会いが——

美柑の生き方を、少しずつ変えていくことになるとは、この時の彼女はまだ知らなかった。

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