クラブ「NOIR」の奥、VIP席。
フロアの騒がしさとは対照的に、ここだけは異様な静けさが漂っていた。
スーツ姿の男たちが座り、テーブルには高級ブランデーのボトルが置かれている。
ゆいは、美柑たちと共に少し距離を取って座った。
——「取引」。
今まさに、それが始まろうとしていた。
「……で?」
リョウが、軽く酒を煽りながら、スーツの男を見た。
「そっちの条件、聞かせてもらおか」
対面の男——神戸の西側を拠点にする組織の幹部らしき男が、静かに口を開く。
「——この前の件、話はまとまったんか?」
リョウは、ゆるく笑いながら肩をすくめた。
「さぁな。そっちがどこまで本気かによるんちゃう?」
男の隣にいた若いスーツ姿の男が、わずかに顔をしかめる。
「……美柑のとこは、いつもこうやな。はっきりせぇへん」
「慎重なだけや」
リョウは、氷の入ったグラスを軽く揺らした。
「ほら、うちら“信用”が大事な仕事しとるからな」
ゆいは、その会話をじっと見つめていた。
言葉の意味はすぐに理解できなかったが、空気の張り詰め方だけは感じ取れた。
「——で、どうする?」
リョウが、グラスを置きながら続ける。
「金の話やろ?」
男は頷いた。
「300万、先払いする」
ゆいの指が、わずかに震えた。
——300万?
そんな大金が、たった数秒の会話で飛び交う。
リョウは、笑いながら指を鳴らした。
「300、なぁ……」
「少ないか?」
「そやなぁ」
リョウは、しばらく考え込んだ後、美柑の方をチラリと見た。
美柑は、煙草の煙をゆっくりと吐くだけで、何も言わなかった。
——「お前が決めろ」。
リョウは、ふっと笑い、指を立てた。
「500や」
「……」
男の顔が、一瞬だけ険しくなる。
「強気やな」
「まぁな」
リョウは気にする様子もなく、酒を一口飲んだ。
ゆいは、目の前の光景を、ただ黙って見つめるしかなかった。
——これは、「ゲーム」やない。
——「取引」。
この世界で金を動かすというのは、こういうことなんや。
美柑が、ゆいの方をちらりと見た。
「どう? ちょっとはわかってきた?」
ゆいは、スマホに「……少しだけ」と打ち込んだ。
美柑は、満足そうに微笑んだ。
交渉はまだ続いていた。
ゆいは、じっとそのやりとりを見つめたまま、「金の流れ」を知る第一歩を踏み出していた。
リョウが指を一本立てたまま、テーブルに肘をつく。
「500」
神戸の西側の組織の男が、その数字を静かに反芻する。
「……ほぉ」
グラスを持ち上げ、軽く口をつける。
隣に座る若い男が、少し苛立ったように腕を組んだ。
「さっきまで300で話しとったやろ」
リョウは肩をすくめた。
「そうや。でも、話してるうちに考えが変わったんや」
男が鼻で笑う。
「足元見てるんちゃうか?」
リョウは、その言葉にも気にする様子はなかった。
「足元見るのは、交渉の基本やろ?」
軽く笑いながら、リョウは酒を飲む。
ゆいは、そのやり取りをじっと見つめていた。
——こんな会話ひとつで、何百万が動くんか。
相手の男は、少しの間沈黙した。
そして、煙草に火をつけると、ゆっくりと息を吐いた。
「……わかった。500でええ」
リョウの唇がわずかに持ち上がる。
「そやろ?」
軽く指を鳴らすと、後ろに控えていた部下がスーツの内ポケットから封筒を取り出し、テーブルに置いた。
——500万円。
封筒の端から覗く札束。
美柑はそれを一瞥するが、特に何も言わない。
リョウは、封筒を軽く指で弾きながら、男の方を見る。
「ほんなら、約束通りのモンを用意するわ」
男は頷いた。
「頼むで、美柑ちゃん」
美柑は、軽く笑っただけで答えなかった。
交渉成立。
ゆいは、その場の空気に圧倒されながらも、「金の流れ」を初めて実感した。
——「言葉ひとつで金が動く」。
それが、この世界の現実。
「……」
相手の男が、ふとゆいの方に視線を向ける。
「そういえば、その子は?」
美柑が軽く首を傾げる。
「新人や」
「へぇ」
男が、興味深げにゆいを見つめる。
「……耳が聞こえへんって、ほんまなんか?」
リョウがふっと笑った。
「美柑が冗談言うタイプに見えるか?」
「……まぁ、確かにな」
男は、ゆいをじっと見つめたまま、軽く口角を上げた。
「……おもろいやん」
ゆいは、スマホを握りしめた。
何を言われるか、少しだけ緊張が走る。
美柑は、ゆるく笑ったまま、テーブルを軽く叩いた。
「ほな、今日はこのへんで解散や」
リョウが立ち上がり、封筒をポケットに突っ込む。
ゆいもまた、席を立った。
背後から、男の視線を感じたまま——。
この世界の「ルール」を、少しずつ知っていく。
クラブ「NOIR」の扉を開けると、夜の冷たい空気が流れ込んだ。
三宮の繁華街には、まだ多くの人が行き交っていたが、
先ほどまでいたVIPルームの静寂とはまるで別の世界のようだった。
美柑が煙草をくわえ、ライターで火をつける。
「……お疲れさん」
リョウが軽く伸びをしながら、ポケットから封筒を取り出した。
「いやぁ、500まで持っていけたんはええけど、思ったよりあいつら警戒しとったな」
美柑は、煙を吐きながら肩をすくめる。
「まぁな。うちらのこと、どこまで信用してええか悩んでるんやろ」
「そら、せやろな」
マチが、缶コーヒーを開けながら言う。
「“真里亞”はまだまだ成長中の組織やし、信用できるかどうか、相手も探っとる」
リョウは封筒を振りながら苦笑した。
「ま、それでも500は500や」
美柑がちらりとゆいの方を見た。
「どうやった?」
ゆいは、スマホにゆっくりと文字を打ち込んだ。
「……何もできなかった」
リョウがそれを覗き込み、口の端を持ち上げる。
「せやな。お前はただ横で見とっただけや」
その言葉に、ゆいの指が止まる。
「……でも、それは当然のことや」
美柑が、ゆっくりと煙を吐きながら言った。
「今のお前はまだ“部外者”に近い。いきなり何かできると思ってへん」
ゆいは、その言葉をじっと読んだ後、スマホに打ち込む。
「……何かできるようになりたい」
美柑は、その文字を見て、ふっと笑った。
「そっか」
リョウが両手を広げた。
「そしたら、次はお前が何か動いてみる番ちゃうか?」
ゆいは、その言葉に少し息を詰まらせた。
「今までは、ただ見てるだけの観客やった」
マチがゆいの隣に立ち、缶コーヒーを軽く振る。
「でも、次はお前が『プレイヤー』にならなあかん」
——「プレイヤー」。
今まではただ流されて生きてきた。
でも、この世界では、「流される側」は何も得られへん。
ゆいは、スマホを握りしめた。
美柑が、彼女の肩を軽く叩いた。
「ほな、やってみるか?」
ゆいは、静かに頷いた。
——ここから、本当に自分が試される。
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