空色デイズ -音のない世界の中心で-

ただ頷いてくれればよかったのに
平木明日香
平木明日香

第9話

公開日時: 2025年2月19日(水) 13:16
文字数:2,653



クラブ「NOIR」の奥、VIP席。


フロアの騒がしさとは対照的に、ここだけは異様な静けさが漂っていた。


スーツ姿の男たちが座り、テーブルには高級ブランデーのボトルが置かれている。


ゆいは、美柑たちと共に少し距離を取って座った。


——「取引」。


今まさに、それが始まろうとしていた。


「……で?」


リョウが、軽く酒を煽りながら、スーツの男を見た。


「そっちの条件、聞かせてもらおか」


対面の男——神戸の西側を拠点にする組織の幹部らしき男が、静かに口を開く。


「——この前の件、話はまとまったんか?」


リョウは、ゆるく笑いながら肩をすくめた。


「さぁな。そっちがどこまで本気かによるんちゃう?」


男の隣にいた若いスーツ姿の男が、わずかに顔をしかめる。


「……美柑のとこは、いつもこうやな。はっきりせぇへん」


「慎重なだけや」


リョウは、氷の入ったグラスを軽く揺らした。


「ほら、うちら“信用”が大事な仕事しとるからな」


ゆいは、その会話をじっと見つめていた。


言葉の意味はすぐに理解できなかったが、空気の張り詰め方だけは感じ取れた。


「——で、どうする?」


リョウが、グラスを置きながら続ける。


「金の話やろ?」


男は頷いた。


「300万、先払いする」


ゆいの指が、わずかに震えた。


——300万?


そんな大金が、たった数秒の会話で飛び交う。


リョウは、笑いながら指を鳴らした。


「300、なぁ……」


「少ないか?」


「そやなぁ」


リョウは、しばらく考え込んだ後、美柑の方をチラリと見た。


美柑は、煙草の煙をゆっくりと吐くだけで、何も言わなかった。


——「お前が決めろ」。


リョウは、ふっと笑い、指を立てた。


「500や」


「……」


男の顔が、一瞬だけ険しくなる。


「強気やな」


「まぁな」


リョウは気にする様子もなく、酒を一口飲んだ。


ゆいは、目の前の光景を、ただ黙って見つめるしかなかった。


——これは、「ゲーム」やない。


——「取引」。


この世界で金を動かすというのは、こういうことなんや。


美柑が、ゆいの方をちらりと見た。


「どう? ちょっとはわかってきた?」


ゆいは、スマホに「……少しだけ」と打ち込んだ。


美柑は、満足そうに微笑んだ。


交渉はまだ続いていた。


ゆいは、じっとそのやりとりを見つめたまま、「金の流れ」を知る第一歩を踏み出していた。




リョウが指を一本立てたまま、テーブルに肘をつく。


「500」


神戸の西側の組織の男が、その数字を静かに反芻する。


「……ほぉ」


グラスを持ち上げ、軽く口をつける。


隣に座る若い男が、少し苛立ったように腕を組んだ。


「さっきまで300で話しとったやろ」


リョウは肩をすくめた。


「そうや。でも、話してるうちに考えが変わったんや」


男が鼻で笑う。


「足元見てるんちゃうか?」


リョウは、その言葉にも気にする様子はなかった。


「足元見るのは、交渉の基本やろ?」


軽く笑いながら、リョウは酒を飲む。


ゆいは、そのやり取りをじっと見つめていた。


——こんな会話ひとつで、何百万が動くんか。


相手の男は、少しの間沈黙した。


そして、煙草に火をつけると、ゆっくりと息を吐いた。


「……わかった。500でええ」


リョウの唇がわずかに持ち上がる。


「そやろ?」


軽く指を鳴らすと、後ろに控えていた部下がスーツの内ポケットから封筒を取り出し、テーブルに置いた。


——500万円。


封筒の端から覗く札束。

美柑はそれを一瞥するが、特に何も言わない。


リョウは、封筒を軽く指で弾きながら、男の方を見る。


「ほんなら、約束通りのモンを用意するわ」


男は頷いた。


「頼むで、美柑ちゃん」


美柑は、軽く笑っただけで答えなかった。


交渉成立。


ゆいは、その場の空気に圧倒されながらも、「金の流れ」を初めて実感した。


——「言葉ひとつで金が動く」。


それが、この世界の現実。


「……」


相手の男が、ふとゆいの方に視線を向ける。


「そういえば、その子は?」


美柑が軽く首を傾げる。


「新人や」


「へぇ」


男が、興味深げにゆいを見つめる。


「……耳が聞こえへんって、ほんまなんか?」


リョウがふっと笑った。


「美柑が冗談言うタイプに見えるか?」


「……まぁ、確かにな」


男は、ゆいをじっと見つめたまま、軽く口角を上げた。


「……おもろいやん」


ゆいは、スマホを握りしめた。


何を言われるか、少しだけ緊張が走る。


美柑は、ゆるく笑ったまま、テーブルを軽く叩いた。


「ほな、今日はこのへんで解散や」


リョウが立ち上がり、封筒をポケットに突っ込む。


ゆいもまた、席を立った。


背後から、男の視線を感じたまま——。


この世界の「ルール」を、少しずつ知っていく。



クラブ「NOIR」の扉を開けると、夜の冷たい空気が流れ込んだ。


三宮の繁華街には、まだ多くの人が行き交っていたが、

先ほどまでいたVIPルームの静寂とはまるで別の世界のようだった。


美柑が煙草をくわえ、ライターで火をつける。


「……お疲れさん」


リョウが軽く伸びをしながら、ポケットから封筒を取り出した。


「いやぁ、500まで持っていけたんはええけど、思ったよりあいつら警戒しとったな」


美柑は、煙を吐きながら肩をすくめる。


「まぁな。うちらのこと、どこまで信用してええか悩んでるんやろ」


「そら、せやろな」


マチが、缶コーヒーを開けながら言う。


「“真里亞”はまだまだ成長中の組織やし、信用できるかどうか、相手も探っとる」


リョウは封筒を振りながら苦笑した。


「ま、それでも500は500や」


美柑がちらりとゆいの方を見た。


「どうやった?」


ゆいは、スマホにゆっくりと文字を打ち込んだ。


「……何もできなかった」


リョウがそれを覗き込み、口の端を持ち上げる。


「せやな。お前はただ横で見とっただけや」


その言葉に、ゆいの指が止まる。


「……でも、それは当然のことや」


美柑が、ゆっくりと煙を吐きながら言った。


「今のお前はまだ“部外者”に近い。いきなり何かできると思ってへん」


ゆいは、その言葉をじっと読んだ後、スマホに打ち込む。


「……何かできるようになりたい」


美柑は、その文字を見て、ふっと笑った。


「そっか」


リョウが両手を広げた。


「そしたら、次はお前が何か動いてみる番ちゃうか?」


ゆいは、その言葉に少し息を詰まらせた。


「今までは、ただ見てるだけの観客やった」


マチがゆいの隣に立ち、缶コーヒーを軽く振る。


「でも、次はお前が『プレイヤー』にならなあかん」


——「プレイヤー」。


今まではただ流されて生きてきた。

でも、この世界では、「流される側」は何も得られへん。


ゆいは、スマホを握りしめた。


美柑が、彼女の肩を軽く叩いた。


「ほな、やってみるか?」


ゆいは、静かに頷いた。


——ここから、本当に自分が試される。





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