扇綾香を思う存分蹂躙していた僕だったが、ここで始業の五分前を知らせるチャイムが鳴り始めた。萱愛先生にこの光景を見られるのはいくらなんでもまずいので、僕は扇綾香の頭を踏みつけていた足を放す。
無言で立ち上がった扇綾香の顔は、鼻から出てきた血と、目から溢れた涙と、床のホコリで汚れきっていた。よく考えたら、やりすぎたかもしれない。僕の気持ちとしては満足なのだが、もし萱愛先生に今の扇綾香の姿を見られたら、いくらなんでも怪しむだろう。
ここで萱愛先生に余計な詮索を入れられて、僕の復讐を邪魔されてもまずい。ここで扇綾香に釘を刺しておかないとならない。だが、その時だった。
「はい皆さん、朝のホームルームを始めますよー!」
始業のチャイムが鳴るより早く、萱愛先生が教室に入ってきてしまった。まずい、ここで扇綾香が萱愛先生に泣きついたらアウトだ。しかし今、それを強引に止めるのも不自然だ。どうする?
思案していた僕だったが、以外にも扇綾香は特に何かを言うわけでもなく、自分の席に戻ろうとした。
どういうことだろう? 僕としては好都合ではあるが、ここで扇綾香が萱愛先生に何も言わないというのは不自然だ。いや、もしかしたら僕に暴力を受けたことを訴えれば、同時に自分の行った暴力行為も明るみに出るリスクを恐れているのかもしれない。それならおかしくはない。
だけど萱愛先生は、顔から血を流して制服がホコリまみれになっている扇綾香の姿を見逃さなかった。
「お、扇さん、どうしたの! 血が出てるじゃない!」
「……すみません、ちょっと転んでしまいました」
「そうなの!? じゃあすぐに保健室で手当を受けないと! 保健委員の人、扇さんを保健室に連れて行って!」
「……」
その後、扇綾香は無言で保健室に連れて行かれた。教室を出るまでも、特に萱愛先生に何かを訴えるわけでもなく、何も言わなかった。 しかしやはりこれは好都合だ。どんな理由があるかはわからないが、扇綾香は僕の暴力を他人に漏らすつもりはないらしい。もしかしたら、さっきの『何があっても私を許さないでください』という発言に関係しているのかもしれない。
だけど僕としては、扇綾香がいかに反省していようと関係ない。今までの復讐を果たすだけだ。
そう思っていると、扇綾香を見送っていた萱愛先生が教室に入ってきた。
「さてと、じゃあ改めて、ホームルームを始めます。まず最初に……蓬莱くん、ちょっと前に出てきてちょうだい」
「え? は、はい」
いきなり名前を呼ばれて、僕は少し動揺してしまった。なんだろう、扇綾香への暴力に感づかれてしまったのだろうか。しかしここで変に逆らってもまずい。素直に呼び出しに応じよう。
僕は先生の言うとおりに、教壇に上がった。
「さて皆さん、この間の話を覚えていますか? そうです、蓬莱くんが扇さんにきちんと謝れなかった件です」
……ああ、そういえば萱愛先生が『蓬莱くんを良い子に戻す』とかそんなことを言っていたような気がする。扇綾香への復讐のことに夢中で、それを忘れていたな。
「先生は考えました。蓬莱くんはどうして扇さんに謝れなかったのか。こんなおかしいことは、普通はあり得ないことなのです。悪いことをしたら、謝るのが当然ですからね」
……あれ? なんか僕が悪人のように扱われてない? 僕は扇綾香に一方的に殴られてたって言ったよね?
「ですが先生は一つの結論に辿り着きました。そう、全ては蓬莱くんの記憶喪失がきっかけなのです。おそらく蓬莱くんは、記憶喪失のために、情緒不安定になっているのです。それ以外考えられません」
「は……?」
情緒不安定? 僕が?
「ですから皆さん、蓬莱くんは扇さんに謝れなかったけど、それは仕方のないことなのです。彼は可哀想な記憶喪失者なんです。だから皆さんも彼を許してあげましょうね」
「あ、あの、先生?」
「ん? なあに、蓬莱くん?」
「ええと、その、僕は別に記憶喪失で情緒不安定になっているから、扇さんに謝らなかったわけじゃ……」
「大丈夫よ蓬莱くん!」
僕の反論は萱愛先生の大声にかき消された。
「先生はわかっているの! 君は良い子だって! 今はまだ記憶喪失で精神が不安定かもしれないけど、君はきっと扇さんに謝れるわ! だから先生はその手助けをしたいの!」
「……」
ダメだ、萱愛先生は僕の言葉を聞こうとしない。僕がどんな人間かを知ろうとしていない。これではいくら反論を試みても無駄だろう。
「それでね、先生は考えたの。蓬莱くんが以前の自分がどんな人だったか思い出せば、ちゃんと良い子になれるんじゃないかって」
「……!」
「だから皆さん。今度はこの紙に、記憶を失う前に蓬莱くんがどんな人だったか書いてみましょう。大丈夫、皆が頑張れば蓬莱くんはきっと記憶を取り戻せるわ」
これは……もしかしてチャンスなんじゃないか?
奇しくも、萱愛先生が僕の記憶を取り戻す方向に皆を導いている。これで以前の僕の情報が得られれば、扇綾香が僕を突き落としたという記憶が蘇るのかもしれない。そうすれば……
僕の扇綾香への復讐は、完全に正当なものになる。
そうなれば僕の復讐はこんなもんじゃ済まない。このクラス全体を巻き込んで、扇綾香の全てを破壊し尽くしてやる。そう思って、僕は期待してクラスを見回した。
「……?」
なんだろう、なぜか皆、気まずそうに顔を俯かせている。まるで触れられたくないことに触れられたような……そんな感じがする。なんだ? もしかして、記憶を失う前の僕に何かあるのか?
「どうしたの? 皆も蓬莱くんを助けたいでしょう? なら協力しなきゃ。皆で力を合わせれば、きっと彼を救えるわ!」
萱愛先生もクラスが気まずい空気に包まれているのは感じ取ったようだが、その理由まではわからないようだ。そうなると、生徒の間だけで何か秘密があるのだろうか。
しかしその時、教室の扉が開け放たれ、見覚えのある長い銀髪の女子が飛び込んできた。
「萱愛先生!」
銀髪の女子、扇綾香は顔についたホコリを綺麗に洗い流していたが、その顔を焦りで歪ませていた。
「あら扇さん、もう大丈夫なの?」
「それより萱愛先生……蓬莱くんの記憶を思い出させようとしているんですか……?」
「ええそうよ。だってその方がいいでしょう? そうすれば蓬莱くんもちゃんと素直な良い子に……」
「その必要はありません!」
扇綾香は珍しく大声を出して萱愛先生に詰め寄った。
「……蓬莱くんは今のままでいいんです。失った記憶を無理に思い出させようとするより、今の高校生活を楽しむことに集中させてあげるべきです」
「ダメよ扇さん。蓬莱くんは今、情緒不安定なの。このままだとちゃんと謝れない人間になってしまうの」
「大丈夫です。私は蓬莱くんに謝ってもらうことを望んでいません。彼が謝りたくないというのであれば、それで大丈夫です」
「でもねえ、扇さ……」
「蓬莱くんは私が責任を持って面倒を見ます。それではダメですか?」
扇綾香は必死で萱愛先生に訴えかけていた。まるで僕が記憶を取り戻すのを、全力で拒絶しているように。
だけどこの反応で確信した。やはり僕の記憶を奪ったのは扇綾香だったんだ。コイツは僕が記憶を取り戻すことで、自分の行いが明るみに出ることを恐れているんだ。そうに違いない。
それならやはり、僕の復讐は正当なものだったんだ。
見ていろ扇綾香。お前が僕から奪った分、僕がお前の大事なものを奪ってやる。それが僕に与えられた生きがいだ。僕の生きる目的なんだ。そうでないと困る。そう、困るんだ。
だから僕は、『扇綾香が僕の記憶を封じ込めるのは何か別の理由があるのではないか』という考えを強引に頭から追い出した。
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