僕は自分の過去を知らない。なので記憶を失う前に出会った人たちに再会しても、どう接していいのかわからない。彼らとかつてどんな関係を築いていたのかもわからないからだ。
だから目の前にいる赤尾さんに対しても、今の僕は戸惑いを見せるしかなかった。
「か、彼女……?」
「そう、彼女。私と君は、付き合っていたのさぁ」
フフンと鼻を鳴らしながら笑うその姿に、やっぱり見覚えはない。
「あの、本当に僕とあなたは付き合っていたんですか?」
「そうだよぉ、私のことが信じられないかなぁ?」
「……本当に申し訳ないんですが、今の僕にとって、あなたは初対面ですから」
「うーん、そうだよねぇ。記憶喪失って、そういうものなんだよねぇ」
赤尾さんは残念そうにため息をつく。それを見て、僕は少し彼女の言葉について考えてみた。
仮に赤尾さんがウソをついていたとしよう。しかしそれはなんのために? わざわざ記憶を失った僕の彼女を名乗るメリットがあるのだろうか。別に僕はとりたてて格好良いと言われる容姿をしてないし、家が金持ちというわけでもない。その上、彼女となったら記憶喪失となった僕の世話をしなければならないのだから、かえってデメリットの方が大きい気がする。
しかしそれでも、『私はあなたの彼女です』と言われて、『はいそうですか』と納得するのも難しかった。例えそうだとしても、今の僕は赤尾さんのことを何も知らないのだから、以前にどんな関係であっても、元通りに接するのは無理だ。
だからとりあえず、質問をぶつけてみることにした。
「あの、証拠はあるんですか? 僕とあなたは恋人同士だったという証拠は?」
「うーん、それは難しいねぇ。君は写真嫌いで、私と一緒に写っている写真とかもないしねぇ」
「そうですか……」
しかし、記憶を失う前の僕が写真嫌いというのは、おそらく本当だ。家中を探してみても、両親の写真はあっても、僕自身が写っている写真はほとんどなかった。そのことを知っているだけでも、僕とある程度近い人間かもしれなかった。
だけどそれだけではまだ足りない。それにまだ、僕には疑問がある。
「ですが、あなたは僕の彼女なんですよね? それならどうして、今になって僕の前に現れたんですか? 僕が記憶を失ったのは、一学期の終わりのことで、今は十月です。あなたは僕が入院している時にも姿を現さなかった。今までどうして僕の前に姿を見せなかったんですか?」
「それはねぇ、君が記憶を失う直前、私が君と大きなケンカをしたのさぁ」
「え……?」
「その理由なんだけどねぇ……今になって考えてみると大したことないんだけども、夏休みの間に遊びに行く場所についてなんだよねぇ。私は遊園地に行きたがって、君は映画館に行きたいと言って、互いに譲らなかったんだよねぇ。それで私たちは少し距離を取ることにしたのさぁ」
「は、はぁ……」
「しかし困ったことに、その直後に君は記憶を失ってしまった。さすがに私もショックを受けたよぉ。しかし私は君とケンカ中の身だったからねぇ。君の前に姿を現すかどうか迷っていたのさぁ」
「……」
……確かに、一応のスジは通っているような気がする。というか、彼女が何者であろうとあまり僕には関係ない。どうせ今の僕には何もないし、彼女が僕の記憶を取り戻してくれるわけでも、生きる目的を与えてくれるわけでもない。どうせ何も変わらないのだ。
「……話はわかりました。ですが今の僕はあなたの知っている蓬莱実嵯人ではない、もはや別人と言っても過言ではありません。あなたと元通り付き合うことはできないです」
はっきりと彼女に告げ、僕は家に帰ろうとする。しかし彼女は僕の背中に向けて声をかけた。
「じゃあ、私が君がなぜ記憶を失ったか知っているとしたら、君はどうするのかなぁ?」
その発言は、僕の歩みを止めるには十分すぎる力を放っていた。
「……僕がなぜ、記憶を失ったかを知っているんですか?」
「私はそう言ったよぉ」
「だったら教えてください。僕はどうしてこうなったんですか?」
今の僕には何もない。生きる目的も、なにもかも。そう思っていた。 だけど目の前にいるこの女性は、僕の失われた記憶の手がかりを知っている。だとしたら、僕は……
記憶を取り戻すことを、当面の目的にしてもいいのかもしれない。
「じゃあ教えてあげるよぉ、君はクラスメイトの扇綾香さんに暴力を受けていたんだ」
「……それは、知ってます。今もそうですし」
「扇さんの暴力は、それはもう過激なものでねぇ。私もそれを止めるために何度か扇さんと衝突したよぉ。でもねぇ、終業式のあの日、扇さんはとうとう一線を越えようとしたんだよぉ」
「一線って……?」
「……君を階段から突き落としたのさぁ」
「……は?」
僕を、階段から突き落とした?
赤尾さんは先ほどまでとは違い、気まずそうに顔を伏せている。確かに本人の前でこんなことを言うのは辛いだろう。
だけど僕は考える。僕は記憶を失った時、学校の階段の下に倒れていた。その時、瀧くんも一緒に倒れていて、彼は命を落とした。そして赤尾さんの言葉が真実だとすれば、その状況を作り出したのは扇さんだ。
つまり、こういうことか?
――僕は扇綾香によって階段から突き落とされて記憶を失い、瀧くんはそれを助けようとして巻き込まれて命を失った。
つまり、僕の記憶を奪ったのは、扇綾香だということだ。
その推測に辿り着いた瞬間、僕の身体に何かが駆け巡った。
なんだろう、体中に何か熱いものが巡っていく。今まで空っぽだった僕の身体に、急速に何かが満ちていく。
そうだ、僕は今まで生きる目的なんてなかった。扇さんに反撃する理由なんてものもなかった。だけど今、この瞬間に生きる理由ができたじゃないか。
……僕の記憶を奪った、扇綾香というクソ女に復讐するという生きる理由が。
「はは、ははは……」
口から自然と笑いが漏れてくる。そういえば、記憶を失ってから初めて僕は笑ったかもしれない。だけどこの笑いは止まらなかった。
「あっははははははははは!!」
ああ、なんだろう、すごく嬉しい。僕は今から復讐のために生きれるんだ。生きていていいんだ。生きる理由が明確になるのって、こんなに嬉しいことなんだ。
「……大丈夫かなぁ、蓬莱くん?」
赤尾さんが心配そうに声をかける。そうだ、この人にはちゃんとお礼を言わないと。
「ありがとうございます、赤尾さん。なんだか生まれ変わった気分です」
「そうかい?」
「ええ、とりあえず今日はもう帰りますよ。ですけど赤尾さん、明日もちょっとお話したいことがあるので、お会いできますか?」
「うん? 大丈夫だよぉ。だって私は……君の、彼女だからねぇ……」
あれ、なんだか赤尾さんが少し顔をしかめているように見えるなあ。まあいいか。
「それじゃ、また明日……」
そう言って僕は校庭に出る。空を見ると、日はすっかり暮れて、夜の寒気が僕を撫でる。ああ、なんだろうなあ、この寒さがすごく心地良い。今の僕には心温まる関係なんて、必要ない。この復讐の心さえあれば、他に何もいらない。
ああ、あの扇綾香を叩きつぶして、僕の記憶を奪ったことを泣いて謝らせる日が楽しみだなあ。あの女はなんて言って謝ってくるのかなあ。もしかして身体を差し出して許してくれとか言うのかなあ。
まあ、どんなことを言ったとしても、どんな懇願をしたとしても、許すつもりはないけどね。
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