僕には自分というものが不足している。この場合の『自分』というのは、個人的な嗜好や価値観、更に言えば自分の核となる主義主張というものを指すのだと思う。とにかく今の僕には、自分が不足しているのだ。
まあ当然だろう、記憶喪失なのだから。しかしそれを一言で済ませてしまっては、僕としては困ってしまう。なぜならその『自分が不足している』状態のおかげで、僕はどうしていいのかがわからないからだ。
「ああっと、手が滑ったなあ!」
だからこうして、扇さんがわざとらしく腕を振り回して、僕の弁当を床にぶちまけても、僕はどう反応していいのかわからなかった。
「あ、ああ……」
困った。そう、僕としては今日のお昼ご飯がなくなってしまったのだから、確かに困ってはいるのだ。だけどそれ以上に、僕は扇さんに対してどういう感情を抱けばいいのかがわからなかった。
「ああ、ごめんねえ蓬莱? 決してわざとじゃないからさあ」
笑いながら形ながらの謝罪をしてくる扇さんだったけど、床にぶちまけられた弁当を片付けようとはしない。仕方なく僕が弁当を片付けようと、身体をかがめる。
だけどその頭が、扇さんの足によって踏みつけられた。
「いたっ!」
こうなるとは全く予想していなかったので、僕は顔面を床に激突させてしまう。床にぶちまけられた米粒が、僕の顔に貼り付いた。
「蓬莱さぁ、食べ物を粗末にしちゃダメよねえ? 床にあっても、ちゃんとお弁当は食べないと」
扇さんは僕の後頭部をグリグリと踏みつけながら、笑っている。さすがの僕も、どうしてここまでされないといけないのかと疑問を抱き始めた。
僕は両手を床について強引に起き上がった。
「きゃあっ!」
扇さんの足は僕の後頭部を踏んでいたが、僕が起き上がったことによりバランスを崩し、尻餅をつく。
起き上がった僕は顔を拭い、床にへたりこむ扇さんを見下ろした。
「な、なによ?」
扇さんは少し動揺したような声を出し、僕の出方を伺う。一方の僕は、立ち上がったはいいものの、どうしていいのかやっぱりわからなかった。
周りのクラスメイトたちを見る。彼らは僕がここまで虐げられているのに、誰も見向きもしない。まるで何も無いかのように、黙々と昼食をとっている。だけど僕はそれをおかしいとは思わない。多分どこの学校も、こういうものなのだろうと思っていた。
ただ問題は、僕が扇さんに反撃していいのかどうかということだった。もし扇さんが記憶を失う前の僕にひどい目に遭わされて、今はその復讐をしているのだとしたら、僕に反撃する権利は無い。というよりも、自分がどういう人間だったのかわからない僕にとって、扇綾香に反撃するという行動は、とても恐ろしくて出来なかった。
僕にはここまで積み上げた人生の経験がほぼない。だから扇さんに反撃したらどうなるのかわからない。もしかしたら扇さんにもっとひどい目に遭わされるのかもしれない。そのことが、僕の足を止めさせていた。立ち上がっただけの僕は、それ以上進むことはできなかった。
そんな僕をよそに、扇さんはいつの間にか立ち上がっていた。
「蓬莱ぃ!」
そして彼女の拳が、僕の腹に突き入れられる。
「あぐっ!」
特に強く殴られたというわけではなかったけれど、その痛み以上に、『殴られた』という事実そのものが僕の心を抉る。そう、僕はこの教室において、殴られてしかるべき弱者だという事実があるのだ。
「……アンタ、いい度胸してるじゃない。私の下僕だということを、きっちりわからせないといけないようね。放課後、残りなさいよ」
扇さんは吐き捨てるように言うと、自分の弁当を持って、教室を出て行った。
……その顔がどこか寂しそうに見えたのは、おそらく気のせいだろう。
授業が終わり、帰りのホームルームが始まる。
「ホームルームを始めますよ、皆さん席についてください」
教室に入ってきたのは、このクラスの担任教師である、萱愛キリカ先生だった。見た目からして優しげな風貌をした中年女性で、ふくよかな体型とパーマがあてられた黒髪が特徴的だった。だけど僕も、クラスメイトたちも、この先生が見た目通りにただ優しい教師ではないことを知っている。そのためか、萱愛先生が教壇に立つと、クラスの皆も大人しく席に座る。
萱愛先生は今日の連絡事項を五分ほど話した後、教壇から降りた。
「連絡事項は以上です。ですが、帰る前に今日も瀧くんのために黙祷を捧げましょう」
萱愛先生は、神妙な表情で宣言し、クラスの皆がため息をつくのが聞こえた。いくらこの学校から事故死した生徒が出たとはいえ、もうそれは3ヶ月も前のことだ。それなのにこの先生は、毎日黙祷を捧げようと言ってくるからなのか、生徒のみんなもうんざりしているように見えた。その態度が見えてしまったのか、萱愛先生が唐突に叫ぶ。
「なんですかみなさん! その面倒そうな顔は! みなさんは瀧くんが天国で幸せになれなくていいのですか!? このクラス、いえこの学校で二度とあのような悲劇が起こってはならないのです! そのためにも、瀧くんに黙祷を捧げましょう!」
萱愛先生はまるでヒステリーを起こしたように人が変わり、みんなの間に緊張が走る。僕も二学期に入ってから、この先生が唐突にヒステリーを起こすのを何度か見ているので慣れつつあったが、それでもいきなり叫ばれるのは嫌だった。
「先生は皆さんを信じています。皆さんは本当は瀧くんの冥福を心から望んでいるはずなのです。その気持ちに素直になりましょう!」
そして今度はうっとりとした顔で、クラスの皆に語りかけた。このように萱愛先生はコロコロと態度が変わるので、対応が本当に面倒だ。しかしもちろん、そんなことは誰も口にしない。
……形ばかりの黙祷が終わり、萱愛先生は満足した顔で教室から出て行く。それと同時にクラスの緊張が解け、各自が帰りの支度をする。 だけど僕は、昼休みに宣言された通り、すぐに帰ることは出来なかった。そう、扇さんが僕の行く手を阻んでいたのだ。
「蓬莱、昼にも言ったけど、アンタちょっと残りなさいよ」
扇さんはその銀髪を靡かせて、僕の前に立ち塞がり、この場に残るように告げる。僕はそれに逆らう気も起こらず、素直に動かずにいた。 しばらくして、教室には僕と扇さんだけが残された。
「さてと、蓬莱。アンタまだ私に対する態度がわかっていないようね」
「あの、扇さん……」
「なによ?」
このタイミングでこんなことを聞くのはおかしい気もする。だけど今、この学校で一番僕に近いのは彼女だ。だから彼女に聞くのが一番の近道だと思った。
「……記憶を失う前の僕って、どんな人間だったんですか?」
その質問をぶつけた直後。扇さんの顔がこわばった。そして何かに耐えるように口を結び、僕の顔を睨む。
「あの、扇さん?」
「……私は、やらないといけないんです……」
「は?」
扇さんが何かを呟いたように聞こえたが、内容までは聞こえなかった。その直後、彼女はいつものように怒った顔で僕に平手打ちをした。
「……つっ!!」
「言わなかった? アンタは記憶を失う前から私の下僕だったの。だからこうして私に殴られている。それが全て。わかった?」
「……」
そうだと言われたら、僕には反論する材料がない。そして僕は扇さんに殴られ、蹴られ、侮蔑される。今の僕にはそれしかなかった。
扇さんに踏まれながら、考える。どうしてだろう、どうしてこんなことになってしまったのだろう。僕には何もない。扇さんに反撃する自信も、自分の記憶も、自分の主張もない。だから僕は為すがままにされている。自分がどういう人間だったかわからないまま、虐げられている。
なぜ僕がこんな目に遭うのかわからない。だけど僕は確実に、この状況を悲観し始めていた。どうして自分だけがこんな辛い目に遭わなければならないのかと思い始めていた。
僕はこれからどうなるのだろう。かつては何か目標や夢があったのかもしれない。だけど記憶と共にそれも失ってしまった。だから今の僕には生きる目的がない。どうして生きているのかがわからない。
僕は、もう……生きているのが辛い。
「う、ううっ……」
気づけば僕は、涙を流していた。どうやら記憶のない僕でも、これが不幸な状況であることだと理解できたようだ。扇さんに踏まれ続けて汚れがついた頬が、涙で濡れていく。
「あ……」
僕を踏みつけている扇さんは、それを見てどこか動揺したような声を発した。彼女もやり過ぎだと思ったのだろうか。僕の頭から足をどける。
「……そろそろ、頃合いですね」
そしてまた何かを呟いたが、僕には聞こえなかった。彼女が何を言ったか問いただそうと顔を上げると、彼女は僕に合わせるように屈んで顔を近づける。
「ねえ蓬莱。私のことが憎い?」
「……」
僕はそれに答えなかった。『憎くない』とは答えられない。ここまでひどい目に遭わされているのだから。だけど彼女を憎んでいるのかはわからなかった。
「……答えられないってことは、少なくとも憎んでないわけじゃないようね。ま、そうでしょうね」
扇さんはそれを確認すると、いつかの邪悪な笑いを浮かべる。
「悔しかったら、私に反撃してみなさいな。いつでも受けて立ってやるから」
そう言うと、扇さんは立ち上がって教室を出て行った。
それはまるで挑発のような言葉だったが、僕はその顔を見て、ある一つの印象を抱いた。
……あの人、あの悪そうな笑顔、全然似合わないな。
「いつつ……」
あちこち殴られて、踏まれた僕は、身体の節々に痛みを感じていた。 昇降口から外を見ると、もう日が沈み始めていた。この調子だと、母さんに心配をかけるかもしれない。早く帰ろう。
そう思って靴を履き替えると、校門に一人の女性が立っているのが見えた。
その女性は僕を目が合うと、まっすぐこちらに向かって歩いてくる。誰だろう? 少なくとも記憶を失ってから出会った知り合いではない。そうなると、記憶を失う前の知り合いだろうか。
「やあ、蓬莱くん、待っていたよぉ」
女性は僕の目の前まで来ると、背中から流した茶髪の毛先を弄りながら話しかけてきた。なんというか、どこか間延びしたしゃべり方をする人だな。
「あの、すみません。どこかでお会いした方でしょうか?」
失礼であることはわかっていたが、そう質問するしかなかった。こういったことにも、もう慣れ始めている。
「ああ、やっぱり記憶を失ったというのは本当なんだねぇ」
女性は何かを確認するようなことを言うと、さらにこちらに近づいてくる。そして僕に顔を近づけて、こう言った。
「私は赤尾千景。君の彼女だよぉ」
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