高校に入ったところで、私を取り巻く環境が激変するなんてことはないと信じ切っていた。少なくとも、入学式の時点まではそう思っていたのだ。
だけど違った。人生で何か起こるかなんてわからないし、ほんの少しのミスで、他人を簡単に怒らせることもある。そしてその怒りが原因で、私を取り巻く環境も簡単に変わってしまった。
あの入学式の日から、私は萱愛先生を怒らせないように、常に震えていた。そしてそれは私以外のクラスメイトたちも同じだったようで、萱愛先生に話しかける時には、細心の注意をはらっているように見えた。
だけど萱愛先生の問題は、そこだけではなかった。
高校に入学して一週間ほどが経ったある日。萱愛先生は帰りのホームルームを始めるなり、なぜか悲しそうな表情になった。
「……帰りのホームルームを始める前に言いたいことがあります。先生は今、とても悲しんでいます」
言葉の通り、萱愛先生はその目から涙を流し始めていた。だけど先生が悲しむ理由に全く心当たりがなかったので、私も、クラスメイトたちも頭を傾げていた。
「今日の昼休み、先生は見てしまいました。このクラスのある人物が、ひとりで寂しそうにご飯を食べているのを」
先生の言葉を受けて、クラスメイトたちはどこかあっけに取られた顔になった。もちろん私もそうだ。別にお昼ご飯を一人で食べてようが、友達と食べてようが、その人の勝手ではないだろうか。そもそも私たちは入学したばかりなんだから、まだ馴染めてないこともあるだろう。
だけど萱愛先生にとっては、そうではなかった。
「皆さん! 先生がこのクラスを受け持った以上、皆さんに仲良く平和な学校生活を送らせると約束します! そう、このクラスの一人でも、寂しい思いをしてはならないのです!」
「……」
私は斜め前に座っている蓬莱くんを見ると、どこか気に入らなさそうな顔をしているように見えた。
「今こそ打ち明けましょう。先生が昼休みに見た、可哀想な生徒……それは、扇さんです」
「え……!?」
私が、可哀想な生徒? そういえば、私も今日は一人でご飯を食べていたような……
「扇さん、前に出て頂戴」
「は、はい」
言われるがままに、萱愛先生が立つ教壇に上がる。先生は尚も涙を流していた。
「扇さん、先生がついていながら、寂しい思いをさせてごめんなさい。だけど大丈夫。先生がきっと、あなたをこのクラスに溶け込ませてあげるわ」
「あの、先生……」
私は萱愛先生に反論しようとしたが、下手に何かを言うと、入学式の日のような事態を招きそうで、怖くて言えなかった。
「さあ、今こそ皆さんに聞きます! なぜ扇さんを仲間はずれにしたのですか!? 先生に納得のいく説明をしてみなさい!」
「……」
納得のいく説明をしてみろと言われても、そもそも仲間はずれにしているという意識はみんなには無いはずだ。だけどみんなも、萱愛先生を恐れて何も言えずにいる。
「答えられないということは、やはり皆さんも自分の行為が後ろめたいものだと思っているのですね?」
「……」
「扇さん、大丈夫よ。あなたは今、皆さんに仲間はずれにされているかもしれないけど、皆さんと本音で話し合えば、きっと仲間に入れてもらえるわ。大丈夫、先生を信じて」
萱愛先生は優しく私に話しかけてくる。だけど私は、萱愛先生の言葉がひどく気持ち悪いものに思えた。なぜなら先生は、まるで私のことを見ていないし、私の意見なんてまるで聞いてくれないからだ。
「そうだ、瀧くん。あなたが扇さんと一緒にお昼ご飯を食べてあげなさい」
「え?」
突然指名された瀧くんは、間の抜けた声を上げていた。
「扇さん、瀧くんは見ての通り明るい子だし、友達も多いから、きっとあなたとみんなの仲をとりもってくれるわ。先生はそう信じてる。そうよね、瀧くん?」
「……はい」
瀧くんはしぶしぶと言った表情で返事をするが、萱愛先生はそれに気づかない。
「さあみなさん! 扇さんはみんなの仲間なんです! このクラスを笑顔でいっぱいのクラスにしましょう! そのためにはみなさんの協力が必要なんです! わかってくれますよね?」
クラスメイトたちは力のない声で、萱愛先生に小さく返事をした。それを見ながら、一体これからどうなってしまうのかと、私の心に強い不安が広がっていった。
その翌日。教室に入った私を待ち受けていたのは、不機嫌そうな顔の瀧くんだった。
「ほら、扇さん。とりあえずこっち来なよ」
自分の席に座っている瀧くんは、手招きして自分の隣の席に座るように促す。彼の周りには数人の男子と女子もいたが、彼らも少し不機嫌そうな顔だった。
私はあまりいい気分はしなかったけど、ここで一人でいるとまた萱愛先生に何か言われそうなので、大人しく瀧くんの隣に座る。
「あの萱愛って先生がうるさいから、君を僕たちのグループに入れるけどさ。別に君と仲良くしたいとは思ってないんだよね。だって君、暗いし」
瀧くんは私を見下すように言う。ここまではっきり言われると、私もショックだ。だけど私としても、瀧くんのグループに馴染めるとは到底思えなかった。
「んでさ、扇さん。君は僕たちに何をしてくれるの?」
「え?」
「『え?』じゃないよ。君をわざわざ僕たちのグループに入れてあげるんだからさ、僕たちに何か見返りがあってしかるべきだよね?」
「そ、そう、ですか……?」
瀧くんの言ってることがわからないけど、私にその言葉が間違っていると断定することはできなかった。しかし私が何をするべきなのかわからない。
何もわからず動けずにいる私に、瀧くんは苛立ったように席を立った。
「ちょっと来いよ」
「あっ……!」
私は瀧くんに手を引っ張られ、強引に教室を連れ出された。
「い、一体何をするんですか!?」
瀧くんが私を連れて入ったのは、教室のすぐ近くにある男子トイレだった。誰か入ってきたら恥ずかしいので、早く出て行きたい。
「うるせえよ、根暗女」
だけど瀧くんはさっきまでとはまるで違う乱暴な口調で、私を罵倒し、平手で頬を叩いた。
「あぐっ!」
「ブスの分際で、僕に意見するなよ。大体さ、君が素直に僕に従わないから、僕が萱愛に目を付けられたの自覚してるの?」
「そ、それは……」
確かに私は瀧くんの勧誘を断ったし、不用意なことを言って萱愛先生を怒らせてしまったし、瀧くんが私の面倒を見る羽目になったのも私のせいかのかもしれない。
だけどそうだとしても……
「そうだとしても、私が瀧くんに叩かれる道理なんてないはずです……」
後半は少し小さな声になってしまったが、私は自分の意見を珍しくはっきり言った。だけどその行動が、瀧くんを余計怒らすことになってしまう。
「ああ!? 僕の機嫌を損ねたって時点で、お前は殴られて当然の存在なんだよ! 僕はこの高校で教師の機嫌を取らないと、大学の推薦枠を取れないんだよねぇ! それなのに序盤からワケのわからない教師に当たってさぁ! このイライラを鎮めるためには、サンドバッグがいるよねぇ!」
「い、痛いっ!!」
瀧くんは私の髪を引っ張り、その痛みで私は涙を流してしまう。どうして、どうしてこんなことになってしまったのだろう。私が何をしたのだろう。
だけどその時、男子トイレの扉が開かれ、誰かが入ってきた。
「……何をしているのかなぁ?」
そこに入ってきたのは、意外にも女子だった。長い茶髪をポニーテールにして、右手に豆乳のパックを持っている。
「ち、千景ちゃん!?」
「瀧くん……これはどういうことかなぁ?」
瀧くんはその女子を見て、目を丸くしている。どうやら知り合いのようだ。慌てて私の髪から手を放すが、千景ちゃんと呼ばれた女子の顔は険しいままだ。
「ち、違うんだよ。この扇さんがさ、間違えて男子トイレに入ってきたから、驚いちゃって……」
「私には、そうは見えないけれどねぇ」
「そ、その……」
「瀧くん……残念だけれど、私たちは少し距離を置くべきかもしれないねぇ……」
「え、ええ!?」
「心配しなくても、先生には言わないよぉ。ただ、私は君と付き合い続けるのはちょっと難しいと思っただけだよぉ。それじゃ……」
そう言って、茶髪の女子は男子トイレから出て行った。それを受けて、瀧くんは膝から崩れ落ちる。
「……クソがっ!」
壁を叩いて怒り狂う彼を見て、恐ろしいものを感じた私は、急いで男子トイレを出て、教室に戻った。
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