赤尾さんには先に帰っていろと言われたけれど、せっかく僕を待ってくれていた赤尾さんを置いていくのも申し訳なかったので、僕は校門で彼女を待っていた。
その間、赤尾さんと扇さんの関係について考える。赤尾さんは僕と付き合っていて、扇さんは僕を下僕扱いして暴力を振るっていた。当然のことながら、赤尾さんとしては面白くないだろう。扇さんを敵視するのは当然のことだ。しかも扇さんの手によって、僕が記憶を失ったとしたら尚更。
そうなると、赤尾さんが告げた真実がかなり真実味を帯びてきた。赤尾さんが扇さんと敵対しているのであれば、扇さんが僕の記憶を奪ったことを僕自身に伝えるのは当然のことだ。いや待て、仮にあの二人が以前から敵対していたのなら、僕が別の理由で記憶を失って、その原因を扇さんに擦り付けたという可能性もある。どちらにしろ、まだわからないか。
だけど今、僕が記憶を失った理由として一番考えられるのは、やはり扇さんにあると思う。彼女の暴力で僕は記憶を失った。そんな気がする。
だって、その方が……
「おや、待ってくれていたのかぁ。嬉しいねぇ」
その先の考えが浮かぶ前に、声をかけられる。顔を上げると、そこには赤尾さんが笑顔を浮かべていた。どうやら扇さんとの話し合いは終わったようだ。
「あの、赤尾さん。大丈夫でしたか?」
「ん、何がかなぁ?」
「いや……扇さんとその、あまり仲が良くなさそうだったので……」
「ああ……それについては、歩きながら話そうかぁ」
少し顔をしかめていたが、赤尾さんは扇さんとの関係について話してくれるようだ。帰り道を歩きながら、静かに話し始めた。
「私は彼女が苦手でねぇ」
「それは……見ててなんとなくわかります」
「なんでかって言うとねぇ、あの扇綾香は前から私に突っかかってくるんだよねぇ。何が気に入らないのかはわからないけども、たぶん君と付き合っているのが気に入らないんじゃないかなぁ」
「僕と付き合ってるのが?」
僕が質問すると、赤尾さんは自分の髪の先を指で摘まむ。
「前に言っていたんだけどねぇ。『蓬莱に彼女なんて必要ない。こんなヤツを大切に思う人間がいることそのものが間違い』みたいなことを言われたんだよねぇ。私としても腹が立ったからねぇ。それ以来扇綾香は苦手なのさぁ」
「そうだったんですか……」
どうやら僕は、扇さんに相当嫌われているらしい。その理由はわからないけど。
いや待て、そもそも扇さんがどうして僕を嫌っているのか。その理由こそが、以前の僕を知る手がかりになるんじゃないのか? そしてその理由を僕が直せば、扇さんの暴力もなくなるかも……
「赤尾さん」
「うん、なんだい?」
「扇さんがどうして僕をいじめているのか……心当たりあります?」
「うーん……それは、わからないねぇ。というよりねぇ」
「は、はい?」
赤尾さんは鞄から豆乳飲料を取り出し、不機嫌そうにストローを突き刺す。
「いじめっていうのにねぇ、大した理由なんてないんだよねぇ。『あいつがなんとなく気に入らない』とか、いじめる側からすれば、そういうのでいいのさぁ。だからおそらく、扇綾香もそんな感じなんじゃないかなぁ?」
「そうですか……」
確かに言われてみれば、扇さんから僕の何が気に入らないとか聞いたことがない。僕が何となく気に入らないというだけで、僕への暴力を振るう理由になってしまうのかもしれない。
「ところでねぇ、話が変わるんだけどねぇ」
「は、はい?」
「今日一日、君と話してみてわかったんだけどねぇ。やっぱり君は、以前の君と違うみたいだねぇ」
「……それは、そうでしょうね」
「そうなんだよぉ。だからねぇ……」
そして赤尾さんは、また髪の毛先を摘まみながら、気まずそうに顔を背ける。
「今の君と付き合い続けるのは、ちょっと難しそうだねぇ」
「え……?」
一瞬、赤尾さんの言葉の意味がわからなかったが、これはつまり、別れようということじゃないだろうか。
考えてみれば当然のことだ。赤尾さんからしてみれば、付き合っていた彼氏が、突然別人のように変わってしまったのだ。彼女が好きなのは記憶を失う前の僕であり、今の僕じゃない。向こうからしてみれば、当然のことだ。
「いや、別れようとかそういうことじゃないんだよぉ。しばらく距離を置きたいということさぁ。今のままじゃ、お互いに辛いと思ったからねぇ」
「そう……ですよね」
お互いに辛い。確かにその通りだ。赤尾さんは記憶のない僕と付き合うのは辛いだろうし、僕も記憶のないまま赤尾さんと付き合うのは辛い。そう、これはお互いのためなんだ。
「……こんなことを言ったけれども、私は君の記憶が戻ることを祈っているよぉ。だけど記憶が戻っても、無理に私と付き合わなくていいよぉ。だって私は、ひどい女だからねぇ」
「そんなこと……! いや、わかりました……」
「それじゃあねぇ、私はここで別れるよ」
「はい……」
赤尾さんは手を振った後、僕に背を向けて帰って行った。
……なんだろう、僕はまだ、彼女と一日しか過ごしていない。今の僕にとって、それだけの人だ。なのになんでだろう、どうしてこんなに寂しいのだろう。
いや、本当はわかっていた。僕はつながりが欲しかったんだ。記憶を失って、何もなくなった僕にはつながりがない。だから例え実感がなくても、彼女が僕の前に来てくれたのが嬉しかったんだ。今頃になって、僕はそれを自覚した。
なのにその彼女も、僕の前から消えてしまった。どうしてだ、どうしてこんなことになってしまったんだ。原因は僕にあるのだろうか。僕が記憶を失ったからこうなったのだろうか。
でも、僕が記憶を失った原因は……
……
翌朝。
「蓬莱! 遅いじゃない、私を待たせるなんて、良い度胸ね」
僕はいつもより遅く登校すると、扇さんにいつも通り突っかかられた。
「……」
だけど僕はそれに返事はしない。当然のことだと思う。
「なんとか言いなさいよ。それともアンタ、私のことを無視できるほど偉くなったわけ?」
扇さんは僕を罵倒するが、僕はそれでも返事をしない。周りのクラスメイトも、今の僕たちに対しては無視を決め込んでいる。
考えてみれば、記憶を失った僕に対して、周りは誰も助けてはくれなかった。まあ今となってはそれはいい。だけど……
「蓬莱、何とか言いなさいよ!」
目の前にいるこの女は、尚も僕を罵倒する。そう、僕はこの女のせいで全てを失ったのだ。自分の記憶も、人とのつながりも、そして……
唯一、僕に手を差し伸べてくれた恋人さえも。
目の前の女が僕に手を上げようとする。だけど僕は昨日と同じように、その腕を左手で素早く掴んだ。
「あっ!?」
僕は昨日、この腕を掴んだまま固まってしまった。だけどよく考えてみれば、あの時自覚したじゃないか、自分の生きる目的が何か。あの時僕の身体に満ちたものが何かを、僕はとっくに知っていたじゃないか。
そう、初めから僕のやることは決まっていたんだ。今の僕には何もないと思っていた。だけどひとつだけ、僕の中に残っていたものがあった。そしてそれは、僕の身体の中を駆け巡り、僕の身体を闇で覆っていく。
だから僕は、身体の中を駆け巡る、『扇綾香への復讐心』の思うままに生きよう。
「ごぶぁっ!?」
扇綾香の口から、唾液と共にうめき声がはき出される。どうしたんだろうと思ったけど、ああそうか、僕が扇綾香の腹を殴ったんだ。
考えてみれば、なんで今までこうしなかったんだろう。このクソ女が、僕の全てを奪い、その上僕に暴力を振るっているんだ。僕が怒らないわけがないじゃないか。
でも今は違う。僕はやっと、生きる目的を見つけて、その通りに動くことを決めたんだ。ああ、なんだかすごく気持ちいい。欲望の赴くままに生きるのって、こんなに気持ちいいものなんだなあ。知らなかった。
「ぐ、ええええ……」
扇綾香は腹を押さえて踞っている。だけど僕はそれを許さない。だからこいつの銀髪を引っ張り、強引に立たせた。
「ほ、蓬莱……アンタ……」
「黙れよ」
僕は扇綾香の頬を平手で叩き、その口を黙らせる。頬が赤く染まり、その両目から涙が溢れ始めるが、そんなことは気にしない。
ああ、これから僕はこいつを叩きつぶすために生きるんだ。この女はどんな声で僕に許しを乞い、どんな声で泣くんだろう。だけど……
どんなに謝ったところで、許すつもりはないけどね。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!