今思い返してみても、高校に入学した時点では、私は……扇綾香はどこにでもいる平凡な少女だった。
将来のことなんて特に考えてはいない。高校を選ぶときも、単に家から近くて自分の学力でも入れそうだった公立高校を志望して、今の高校に入った。好きなことと言えば小説を読んだり、流行りの男性アイドルグループの曲を聞くことだった。
しかしその時の私には、悩み事がひとつあった。同じ中学の友達が、みんなこことは違う高校を選んでいて、高校ではまた一から友達を作らなければいけなくなったということだ。
だけど別にそれが大した問題とは思っていなかった。みんなだって高校という新しい環境に入るんだ。友達なんてすぐにできる。そう思っていた。
大抵の人間は、自分たちの仲間ではないと判断した相手に、とことん冷たいという事実を、この時の私はまだわかっていなかったのだ。
高校の入学式が終わり、私たちはそれぞれ自分のクラスに向かった。まだ新しい制服にも慣れない中、私は教室内を見回してみるけど、やっぱり同じ中学の人はいないようだ。
当然のことながら、男子は男子で、女子は女子でグループを作りつつあった。私も気の合いそうな女子と少し話してみようかと席を立とうとした。
「あ、ちょっと君。少しいいかな?」
だけどそんな私に声をかけてきたのは、意外にも男子だった。私より二十センチくらい背が高く、短髪で爽やかな印象のその男子は、にこやかに笑ってきた。
「な、なんですか……?」
一方の私は、これまで男子に話しかけられた経験が少なかったので、見事なまでに戸惑ってしまった。
「ああ、ごめんごめん。脅かすつもりはなかったんだ。僕は瀧秀輝。よろしくね」
「は、はい……私は扇綾香です……」
瀧秀輝と名乗った男子は、笑顔を崩さずに話を続ける。
「それでさ、僕はサッカー部に入ろうと思ってて、入学前に挨拶にも行ったんだけどさ、どうやらそのサッカー部がマネージャーを探してるらしいんだよね」
「はあ……」
「でね、もし良かったらなんだけど、扇さんにそのマネージャーをやってもらえないかと思ってるんだよ」
「え……?」
私が、サッカー部のマネージャー?
私は中学では文芸部に入っていたけれど、高校で何か部活に入ろうとは思っていなかった。もし入るとしても、文化系の部活にしようと考えていたし、ましてやサッカー部のマネージャーになろうとなんて考えはなかった。
「で、どうかな? やってみる気ある?」
「いやその……なんで私が……?」
そう、瀧くんはなんで私に声をかけたんだろう。それが最大の疑問だった。
自分で言うのもおかしいかもしれないけど、私は所謂「明るい女の子」とは程遠い存在だ。やたら重たい黒髪を顔を隠すように伸ばし、教室の隅っこで本ばかり読んでいる。なぜなら私は、自分に自信がないからだ。自分のことをあまり好きではないからだ。だから髪を伸ばしている。
そしてサッカー部のマネージャーは、どちらかというと「明るい女の子」向きのポジションだ。私がその役を担っても、サッカー部の男子たちが不満を抱くのは間違いない。なのにどうして……?
「……あのさあ、扇さん。そんなこと聞く必要ある?」
だけどそんな私に対して、瀧くんは突然不機嫌な表情になった。
「僕がせっかく、扇さんを誘っているんだからさ。ここは素直に引き受けるべきなんじゃないかなあ?」
「え、いや、その、私……」
「それともなに? 『マネージャーなんて雑用、私にはふさわしくない』とでも言いたいの? それはいくらなんでも失礼じゃないの?」
「わ、私は、そんなこと……」
瀧くんが次々と話を進めていき、私ははっきりと断ることができないでいた。
どうしよう、このままだと本当にマネージャーにされてしまうかもしれない。そう思っていると……
「おい、ちょっと待てよ」
私たちに、別の男子が声をかけてきた。瀧くんよりも背は低く、細身で小柄ではあるけれども、気の強そうな男子だった。
「なんだい。今は僕が扇さんと話してるんだけど」
「話してる? 俺にはアンタが一方的に喋っているように見えたけどな」
「失礼なことを言うね、君。えーと、君の名前は……」
「蓬莱だよ。蓬莱実嵯人。アンタにゃ、俺のことなんて見えてないかもしれないが、一応同じクラスだぜ」
蓬莱くんは私をかばうように瀧くんの前に立ち、彼と対峙する。
「それで? 蓬莱くんは僕に何か文句あるの?」
「ああ、あるぜ。さっきから話は聞いてけどよ、アンタ、そこの扇さんを強制的にマネージャーにしようとしてたな」
「人聞きの悪いこと言わないでくれよ。僕はただ勧誘をしていただけさ」
「そうは見えなかったな。それにだ、扇さんは『なんで自分をマネージャーに勧誘したのか』を聞いてたんだぞ。それにちゃんと答えてあげるべきじゃねえのか?」
「それならさっきも言ったろ。そんなことを聞く必要はないさ」
「ふざけんなよ。自分が勧誘された理由もわからずに、誰がマネージャーをやりたがるんだよ。アンタ、自分がすげえ失礼なことしてるってわかってねえのか?」
蓬莱くんと瀧くんが険悪な雰囲気になり、私を含めたクラスメイトたちが様子を見守っている中、教室の扉が開かれた。
「はいはい、みなさん! ご入学おめでとうございます!」
入ってきたのは、やたら声が大きく、ふくよかな体型をした中年の女の先生だった。優しそうな印象を受けるけど、どこか騒々しい。
「さてと、じゃあみなさん席について頂戴。ホームルームを始めますよー」
先生の言葉を受けて、瀧くんや蓬莱くんも席に戻る。しかしその時、先生が私に声をかけてきた。
「あらあら、そこの……扇さん? 瀧くんから話は聞いた?」
「え?」
何のことかわからず、私はオドオドと言葉に詰まってしまう。
「あれ、瀧くん。扇さんにまだ、マネージャーにならないかって話はしていないの?」
「いや、さっきしましたよ」
「あら、それなら話は早いわ。扇さん、瀧くんからも聞いたと思うんだけど、サッカー部のマネージャーになってくれない?」
「え、ええ? なんで、ですか?」
まさか先生からもその話が出てくるとは思わなかったので、かなり驚いてしまった。一方の先生は、身体の前で手を合わせてゆっくりと話し出す。
「先生ね、入学前のオリエンテーションでもあなたのことを見てたんだけどね、ちょっと学校になじめるか心配だったのよ。それでね、サッカー部がマネージャーを探しているっていうから、扇さんがそこに入れば、お友達がたくさんできると思うのよ。だから瀧くんに扇さんを勧誘してみたらどうかって提案したの」
「は、はあ……?」
つまり瀧くんは、この先生に言われたから私をマネージャーに勧誘したということだろうか。というかなんで私がそんな心配をされないとならないんだろう。余計なお世話もいいところだ。
「あの、せん……」
「大丈夫よ扇さん! あなただって今はちょっとみんなと馴染むのが難しいかもしれないけれど、きっと卒業する頃にはたくさんの友達との思い出ができてるわ! 一緒に高校生活をよりよいものにしていきましょう? ね?」
「……」
なんだろうこの先生。なんというか、こっちの話を全く聞いてくれないような……そんな気がする。
「先生、とりあえずホームルーム始めませんか?」
戸惑っている私を見て、蓬莱くんが先生に声をかけて、話題を逸らしてくれた。
「ああ、それもそうね。じゃあまず、自己紹介しましょうか」
そう言うと、先生は黒板に大きく「萱愛」という文字を書いた。これはなんと読むのだろう。読めない。
「はい、先生の名前は『萱愛(かやまな)』といいます。ちょっと呼びづらいかもしれないけど、気軽に『萱愛先生』と呼んで頂戴ね」
萱愛先生……随分変わった名字だな。というか下の名前はなんだろう。
なんとなく気になった私は、入学式前に渡されたクラス名簿を見る。そこには担任教師の欄に、『萱愛キリカ』と書かれていた。
「えーと、萱愛……キリカ先生?」
私としては、なんとなくフルネームを呟いただけ。そう、本当にそれだけのことだったのだ。
しかしその直後、まるで雷のように強く大きな音が、教室中に響いた。
何が起こったのかと、私も、クラスメイトたちも一斉に前を向いた。するとそこには、顔を伏せて握りしめた右手を机に叩きつけた萱愛先生がいた。あまりに強く叩きつけたせいなのか、右手から少し血が出てきている。
「扇綾香……今、なんて言った?」
「え、あの、あの……」
なぜか知らないが、萱愛先生は私に怒っているらしい。だけど本当に、私の何が先生を怒らせたのか、全くわからない。
直前の自分の言動を思い出してみると、確か先生のフルネームを呟いた気がするので、とりあえずそれを伝えてみた。
「あの、萱愛キリカ先生って……」
「私をその名前で呼ぶなあ!!!」
私が返事をし終える前に、萱愛先生は怒鳴りながらこちらに詰め寄ってきた。
「あなたどういうつもりなの!! 先生を下の名前で呼ぶなんて、失礼だと思わないの!?」
「え、あの、私、そんなつもりじゃ……」
「言い訳するんじゃない! あなたのしたことは、教室の風紀を乱す、間違った行為です! 先生に謝りなさい!」
「え、ええ……?」
あまりの事態に、私も、蓬莱くんも、瀧くんや他のクラスメイトたちも戸惑っている。どうして名前を言っただけで、こんなに怒られるのか理解できなかった。
「ご、ごめんなさい……」
だけど萱愛先生への恐怖に屈してしまった私は、わけのわからないまま、謝罪するしかなかった。すると私の言葉を聞いた先生は怒りの
表情を消し、深呼吸をしてゆっくりと顔を上げた。
「……わかればいいのよ。でもね扇さん、あなたはちょっと問題のある子みたいね。でも大丈夫。先生がきっとあなたを正しい道に戻してあげるからね」
「……」
思えばこの時だったのかもしれない。このクラスが萱愛キリカという異常な教師に抑圧され、私の、そして蓬莱くんの悲劇が起こるきっかけとなったのは。
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