この復讐は扇綾香の提供でお送りします

さらす
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第五話 豆乳

公開日時: 2021年4月27日(火) 19:10
文字数:3,973

 目が覚める。

 起き上がった僕を出迎えたのは、カーテンの隙間から差し込む、朝日の光だった。その光に照らされたことで、僕の頭が徐々に覚醒していく。

 その頭で、昨日のことを思い返す。僕の彼女であるという赤尾さんから聞かされた情報では、扇さんが僕の記憶を奪い、瀧くんの命を奪ったということだった。それを聞いた僕は、扇さんへの憎しみを自覚した。

 だけど一晩経って冷静に考えてみると、いくらなんでも早合点しているような気がする。赤尾さんの話が本当だという証拠なんて何もないし、僕が記憶を失っていた事件については、誰も目撃者がいないのだ。それで赤尾さんの話だけを信じるというのは無理がある。

 ただ、それだとなぜ赤尾さんが僕を騙すのかという疑問が出てくる。可能性として挙がるのは、僕が扇さんを憎むのが、赤尾さんにとって都合のいい展開だというものだ。それならば、彼女が僕を騙すのは自然になる。

 じゃあ僕が扇さんを憎むのが、なぜ赤尾さんにとって都合がいいのか? 理由として考えられるのは二つ。一つ目は単純に赤尾さんも扇さんに何か恨みを抱いていて、僕を協力者にしようとしているという理由。そして二つ目は……


 僕の記憶を奪ったのは、本当は赤尾さんだという理由だ。


 しかしどちらも確証がない。ないのだが、このまま赤尾さんの思惑通りに動くのは疑問が残るのも事実だ。しばらくは様子を見るべきかもしれない。

 一通り考えた後で、適当に朝食を取り、身支度を済ませる。まだ時間はあるけど、今日は早めに学校に行きたかった。


 そして僕が家を出ると……


「やあやあおはよう、いい朝だねぇ」


 その手に豆乳飲料のパックを持った赤尾さんが、家の門の前で僕を待ち構えていた。


「……えーっと、何してるんですか?」

「うん? 君と一緒に登校したかったから、迎えに来たんだよぉ」

「え、ええ?」


 動揺する僕に対して、豆乳飲料を飲みながらこちらに来るように手招きする。ううん……正直この人のことがまだ全くわからない……


「ほら、早くしないと遅刻してしまうよぉ。私はいいけど、君は困るんじゃないかなぁ?」

「は、はい。今行きます」


 とりあえずは門から出て、赤尾さんと横並びになって学校へと歩き始める。彼女はまるで何事もないように鼻歌を歌いながら豆乳を飲んでいるが、僕としては女子と一緒に登校しているという事実に、少し照れくさくなってしまう。

 改めて隣にいる赤尾さんを見る。女子でありながら僕よりも少し背が高く、それでいてスラリとした体型をしている。茶色く癖のない髪はヘアゴムで纏められて、首の後ろから肩の前に流れている。そしてその瑞々しい唇がストローを咥えている姿が、僕にはすごく愛くるしく見えた。そう、赤尾さんはとても綺麗な人だと僕の中で印象づけられている。

 しかしこんな綺麗な人が、本当に僕の彼女なのだろうか? どう考えても疑問が残る。やはりこの人には何か企みがあって、僕に近づいているのではないか? その考えが僕の心から離れない。


「んー、どうしたのかなぁ、蓬莱くん。私の顔に何かついているかなぁ?」


 そんなことを考えていると、赤尾さんが僕の方をジロリと見てくる。しまった、ジロジロ見ていたのがバレたようだ。


「す、すみません」

「どうして謝るのかなぁ。ああ、もしかして君はあれかなぁ? 私のことを、心の中で裸にして、スケベな妄想をしていたとか、そういうことかなぁ?」

「そ、そんなことありません!」


 慌てて否定する僕に対して、赤尾さんはにんまりと笑う。ああ、この人、悪い笑顔が似合うなあ……


「あはは、いいんだよぉ。私と君は付き合っているのだから、いずれそういうこともなるかもしれないからねぇ。まあ、記憶を失う前の君とも、まだセックスしたわけではないけどねぇ」

「は、はあ……」


 ……記憶を失う前の僕、本当にどういう人間だったんだ? 今の僕じゃ赤尾さんと上手く会話すらできないぞ……?


 その後、僕は赤尾さんのトークにろくな返答もできないまま、学校に着いてしまった。


「それじゃ、私は別のクラスだからねぇ。また昼休みにお会いしようかぁ」

「は、はい、よろしくお願いします……」


 昇降口で赤尾さんと別れ、自分の教室に向かおうとして、少し立ち止まった。

 さて、このまま教室に行っていいものか。教室に行けばまた、扇さんから暴力を受けるだろう。そうなれば、彼女への憎しみがまた復活する可能性は高い。

 だけどこのまま赤尾さんの言うことを鵜呑みにして、扇さんを恨むのもおかしな話だ。まだ僕には知らないことが多すぎる。記憶を失う前の僕を知っている人に、何かを相談したい。

 クラスメイトはダメだ。扇さんの暴力を黙認しているようだったし、そもそも記憶を失う前から、僕の評判はクラスの中では良くなかったようだし。そうなると……


 意を決して、僕はある場所へ向かった。



「え? 記憶を失う前の蓬莱くんについてですか?」


 僕に質問された萱愛先生は、一瞬だけ驚いたように目を丸くした後、少し考え込むよう首を傾げた。

 そう、僕はクラスメイトではなく、担任の先生である、萱愛先生に以前の自分について聞き出すことにしたのだ。職員室の前で萱愛先生を呼んで貰うように頼み、わざわざ廊下に来て貰って質問をぶつけてみたというわけだ。

 だが考え込むようにしていた萱愛先生は、突如として目に涙を浮かべて、僕に微笑み……


「え?」


 なぜか僕の両手を、自分の両手で包み込むように握ってきた。


「あ、あの? どうしました?」

「えらいわ蓬莱くん。自分の境遇を悲観せずに、ちゃんと前に進もうとしているのね」

「え、ええ?」


 萱愛先生の言っていることが、いまいちわからない。


「ああ、ごめんなさい。先生つい感極まっちゃったの。だってそうでしょう? 記憶喪失なんてとてもつらいことのはずだし、もしかしたら自殺さえ考えてしまうかもしれない。でも君はそうはならずに、ちゃんと自分の記憶を取り戻して、今まで通りみんなと仲良くなろうとしているんでしょう? 立派だと思うわ」

「は、はあ……」


 そういうつもりで質問したわけじゃないんだけど、話が進まなそうだから黙っておく。


「それで、記憶を失う前の蓬莱くんだったよね? そうねえ、先生から見たら、とても真面目な生徒だったわ」

「真面目……ですか」


 うーん……それだけだとあまりどういう人間かわからない。というか、真面目な生徒って言われても、何か問題を起こさない限り、大抵の生徒が当てはまりそうだけども……


「ただね、亡くなった瀧くんがね、蓬莱くんについて前にちょっと気になることを言っていたのよ」

「瀧くんが?」

「そうなの。確か彼は、『蓬莱くんは扇さんと僕が仲良くなるのを妨害しようとしている』って言ってたわね。でもそんなことないと思うのよ。だって先生のクラスの生徒は、みんな良い子なんだから」

「……」


 ……正直、これはかなり気になる情報な気がする。瀧くんがどういうつもりでそんなことを萱愛先生に言ったのかはわからないけど、彼も扇さんに関わっていたことは間違いなさそうだし、彼は僕の記憶に関わる重要な人物なのかもしれない。

 ん? だけどちょっと待て。扇さんの話によると、僕は記憶を失う前から彼女に暴力を受けていたはずだ。そのことについて、萱愛先生は知っているのだろうか。


「あの、萱愛先生」

「なに?」

「ちょっと話は変わるんですが、実は僕……相談したいことがありまして」

「あら、生徒の悩み事を聞くのも先生の仕事よ。なんでも言ってちょうだい」


 ニコニコと微笑む萱愛先生に少し安心感を覚え、僕は言ってしまう。


「あの、僕って記憶を失う前から今に至るまで、扇さんにその……色々暴力を受けているみたいなんですけど、そのことについて何か知って……」


 しかし僕はこの件を彼女に話したことを、即座に後悔した。なぜなら……


「何を言ってるのあなたは!!」


 先ほどまで微笑んでいた萱愛先生が、急に怒りの形相で怒鳴りつけてきたからだ。


「いいですか蓬莱くん! あなたは今とんでもないことを口にしているのよ! 扇さんがあなたに暴力を振るうだなんて、そんなことあり得ないじゃないの! どうしてそんなデマカセを広めようとしてるの!?」

「デ、デマカセ? いや、その、僕は実際に……」

「言い訳しないの! 先生のクラスの子たちは、皆いい子たちばかりなの! そんな子が他人に暴力を振るうわけないでしょ! どうしてあなたはそんなひどいことを先生に言うの!?」

「……」


 あまりの言葉に、僕はあっけにとられている。もしかして萱愛先生は、この世にいじめなんてないとか、そういう考えを持っている人なのだろうか。この世にいる人間が、みんな根は善良で平和を望んでいると信じて疑わない人なのだろうか。

 だけどここまで僕の言葉を頭から否定されるとなると、おそらく彼女は本当に、クラス内で暴力があるとは全く信じていないのだろう。全てが僕の作り話だと思っているのだろう。

 そうなると、萱愛先生が扇さんの僕への暴力を知っていたとは思えない。萱愛先生は扇さんのことを、『心から信じている』。何を言っても無駄な気がする。


「……萱愛先生、僕は」

「蓬莱くん、君はとんでもないことをしようとしているのよ。でも大丈夫、先生は君のこともちゃんと信じているから。きっと蓬莱くんは、扇さんとケンカしちゃったのよね。それでちょっとムキになってそんなことを言っちゃったのね。心配いらないわ、先生がきっと、君のことを正しい道に戻してあげるから」

「……あの、先生」


 口を挟むこともできないまま、始業時間の一つ前のチャイムが鳴り始めた。


「ほら、そろそろホームルームが始まる時間だよ。教室に行きなさい」

「……はい」


 だめだ、どうやら萱愛先生は何も知らないようだ。これでまた振り出しに戻ってしまった。


 だけど僕はこの後、状況は振り出しに戻るどころか、更に悪化したことを思い知ることになる。

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