「……わかったわ。扇さんがそこまで言うなら、蓬莱くんのことは扇さんに任せましょう」
扇綾香のあまりの迫力に押されたのか、萱愛先生は珍しく相手の意見を聞き入れた。
「でもね、もし扇さんが疲れちゃうようなことがあれば、遠慮なく先生に相談してちょうだい。きっと助けになれると思うから」
「……はい」
助けになる、か。記憶を失う前の僕が萱愛先生についてどう考えていたのかは覚えていない。だけど少なくとも今の僕は、萱愛先生が僕らの助けになれるとは到底思えなかった。なぜならあの人は、人の話をまるで聞かず、自分の理想を押しつけてばかりだからだ。
でもそんなことはどうでもいい。重要なのは、扇綾香が僕の記憶を取り戻させないように動いたことだ。やはり僕の記憶が戻ったら都合が悪いのだろう。その事実は、扇綾香こそが僕を階段から突き落とし、僕の記憶を奪ったことを示している。
そう、僕は扇綾香に復讐する権利がある。それは間違っていないのだ。
「それじゃ、時間が来たからこれでホームルームは終わります。皆さん、今日も一日頑張ってね」
そして萱愛先生は教室を出て行った。
……さて、これから授業が始まるし、扇綾香にどう復讐をするか考えるか。
昼休み。
いつもなら僕は弁当を広げて昼食を食べるところだが、今日はやることがある。僕は顔を緩ませながら、自分の弁当を広げている扇綾香に近づく。
「扇綾香、そういえば僕、思い出したことがあるんだけど」
名前を呼ばれた扇綾香はビクリと身体を反応させて、気まずそうに僕を見上げる。これから何をされるのか、なんとなく察しがついたのだろう。だったら、その通りにしてあげよう。
「たしかさあ、君にせっかくのお昼ご飯を台無しにされたことあったよねえ? えーと、どんな感じだったかなあ?」
僕はわざとらしく頭に手を当てて、記憶を探るフリをする。実際はあの時のことを忘れてはいない。だから僕は過去の扇綾香がやったように、声をあげる。
「ああっと、手が滑ったなあ!」
そして扇綾香の弁当を、思い切り床にぶちまけてやった。
「……っ!」
自分の昼ご飯が無残にも床にぶちまけられたことで、顔をこわばらせる扇綾香だったが、僕に文句を言うことはなかった。
「ああ、ごめんね。手が滑っちゃった。でもさ、食べ物を粗末にするのはよくないよね? 君もそう言ってたよね?」
「は、はい……」
僕の言葉を受けて、扇綾香は自分から床に散乱したご飯に顔を近づけた。それを見た僕は、まるで僕のやりたいことを読まれたかのような気分になったので腹が立ち、扇綾香の頭を思い切り踏みつけてやった。
「あぐっ!」
「なにやってんの? そんなに床に散乱したご飯食べたいの? それだったらさあ、これから毎日君の弁当を床にぶちまけてやるよ。それでいいよね? だって床に散乱したやつ食べたいんだからねえ」
ここまでやれば、扇綾香も泣き言を言うかと思い、僕はそれを楽しみに待っていたが、飛び出したのは予想外の言葉だった。
「……わかりました」
「は?」
「私が蓬莱くんにしたことを考えれば、それくらい当然です……本当にごめんなさい……」
扇綾香は両目から涙を流しながらも、尚も床に散乱したご飯を口に含む。違うよ、僕が聞きたいのはそんな言葉じゃない。僕が聞きたいのは……!
苛立ちのあまり、僕は銀色の髪に覆われた頭を更に踏みつける。
「あぐっ!」
「お前が! 僕のやることを当然だとか言うなよ! 僕は僕の意志で復讐しているんだ! お前に言われて復讐しているんじゃないんだ! 僕の気持ちを決めつけるな!」
「は、はいぃぃぃぃ……」
涙声で僕に返事をしてくるが、それが余計に腹立つ。なんだろうこの敗北感は。
もう一度思い返せ、僕が扇綾香に何をされた? そう、僕はコイツに過去を奪われ、現在を奪われ、危うく未来も奪われるところだった。僕はそれほどまでのことをされたんだ。コイツへの怒りは僕のものだ。誰にも渡さない。
この身体をもう一度憎悪で満たせ。誰にも邪魔されないくらいに、まっすぐに進め。僕の生きる目的はそこにしかないんだ。
「……なにをやっているのかなぁ?」
その時、僕の後ろから声をかける人物がいた。この口調、聞き慣れた口調、そこにはやはり僕の元恋人、赤尾千景がいた。
「なにって、扇綾香を蹂躙しているんですよ、赤尾さん。見てわかりませんか?」
「見たらわかるよぉ。私はどうして君がそんなことをしているのかを聞いているんだけどなぁ」
赤尾さんは手にした豆乳飲料を近くの机に置き、再度問いかけてくる。
「どうして? むしろ僕はどうして今までこうしなかったのかを、自分に聞きたいですよ。だってそうでしょう? 僕はこれ以上の仕打ちを、扇綾香から受けたんですから」
「……そうかい、君は結局、そっちの道を選ぶのかぁ」
ため息を吐いて、僕に冷めた目を向けてくる。結局ってなんだよ? まるでこうなることがわかっていたみたいじゃないか。
「僕のやることに口を出すつもりなんですか? そもそも赤尾さんは昨日、僕と付き合うのは難しいって言ってましたよね?」
「確かにそう言ったよぉ。だけどねぇ、今の君は見ていられないんだよねぇ。君がこうなったのは、私の責任かもしれないからねぇ」
「……」
なんなんだ。どいつもこいつも、今の僕は本来の僕ではないかのように振る舞っている。気に入らない。
「赤尾さん、僕は……」
「みなさぁん! 昼休みだけど、ちょっと失礼しますよー!」
僕が赤尾さんに反論しようとした瞬間、突如として萱愛先生が教室に入ってきた。それを見て、急いで扇綾香から足を離す。どうやら現場は見られていないようで、萱愛先生も僕の行動には気づかなかったようだ。
一方でクラスメイトたちは、大声を出す萱愛先生に注目している。その隙に僕は扇綾香に自分の席に戻るように促した。当の萱愛先生は、なぜか興奮した様子で息を荒げていた。
「あら、赤尾さん。うちのクラスに来てたの?」
「そうですよぉ。ところで萱愛先生、どうされましたかぁ?」
「実はね、先生の元にあるものが届けられてね、みんなにも発表する必要があると思って、急いで来たのよ」
すごいもの? 先生は何を言ってるんだ?
「じゃあ皆さん、ちょっと席についてください。実はですね、先ほど瀧くんのお母様が学校にいらっしゃいまして、あるものを渡してくれました」
……瀧くんのお母さんが萱愛先生に何かを渡した?
「瀧くんは一学期の終業式の日に、不幸にも命を落としていまいました。先生も警察の皆さんも、彼が階段から転落したのは事故だと判断していました」
萱愛先生の言葉を受けて、なぜか扇綾香が顔をしかめる。
そうだ、瀧くんの死は僕の記憶が失われたことにも関係するはずだ。もし彼の死で何か新事実が判明すれば、僕の身に何があったのかもわかるかもしれない。
「ですがここに……瀧くんのお母様が見つけた、彼の遺書があります」
「……!?」
クラスメイトたちがざわめく。それはそうだろう、まさかここにきて、瀧くんの遺書なんてものが出てくるとは思わなかった。しかしそうなると、話はまるで違ってくる。
そう、瀧秀輝は事故で死んだのではなく、自ら命を絶ったということになるのだ。
「それではこれから、その遺書を読み上げます。みんな、瀧くんの最期の言葉をよく聞いてちょうだいね」
言われるまでもなく、僕は萱愛先生が読み上げる遺書の内容を、一文字も聞き漏らすまいと、耳を傾けた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!