結論から言うと、瀧くんは助からなかった。階段から落ちた際に頭を強く打ち、それが致命傷になってしまったそうだ。私や赤尾さんは素早く先生に転落事故のことを伝え、救急車を呼んで貰ったけども、それでも助からなかった。
だけど私がショックを受けたのは、蓬莱くんのことだった。彼は瀧くんと違って命に別状はなかったけれど、しばらく意識が戻らなかった。
当然のことながら、私は瀧くんと蓬莱くんのそれぞれの両親から徹底的に事情を聞かれたが、卑怯で臆病者の私は、知らぬ存ぜぬを突き通した。クラスメイトたちも、私が瀧くんに暴力を振るわれていたことを察してはいたが、萱愛先生や他の教師たちにもそれを隠し通した。そのことが知られれば、自分たちも追及を受けることは免れないと思ったからだろう。
一週間ほどは夏休みに入ったにも関わらず、私は毎日のように学校に呼ばれたが、私が何も知らないと判断された後は解放された。
しかし私の心には、消えない罪悪感が残り続けていた。
当然だ。どう考えても、私がいなければ瀧くんが命を落とすことも無く、蓬莱くんも入院することはなかっただろう。いや、そこまで言わなくても、私がもっと早く何か行動を起こしていれば、ここまでの事態にならなかった。私はいつもそうだ。取り返しのつかない事態になってから後悔する。
だけど、せめて私は蓬莱くんのお見舞いに行きたかった。彼の顔を見て、謝りたかった。もしかしたら彼の無事を確かめて、自分の罪悪感を少しでも和らげたいという卑怯な思いもあったかもしれないけど、それでも行きたかった。
そんな私の願いが通ったのか、私の元についに蓬莱くんが意識を取り戻したという知らせが届いた。当然、私はすぐに彼が入院している病院に足を運んだ。
しかし、事態は私の想像を上回っていた。
私が病院に着くと、蓬莱くんの病室の前で、クラスメイトと萱愛先生が看護師さんから説明を受けていた。遠くから様子を伺っていると、萱愛先生が動揺しているのが見えた。
「ほ、蓬莱くんが記憶喪失ってどういうことですか!」
……? 記憶喪失?
「すみません、患者のプライバシーもありますので、お静かに……」
「どういうことなんですか! 私たちのことを忘れてしまったということですか!?」
「お、お静かに! その、先程ご両親とも面会されていますが、どうやら意識を失う前の記憶はほぼ無くなっている状態のようです……」
「ああ、なんてこと……!」
萱愛先生は顔を覆って、悲痛な声を上げている。まさか、蓬莱くんが記憶喪失? ということは、終業式の日のことも全て憶えていないということ?
「あの、私たちも蓬莱くんと面会できませんか? クラスの皆と話せば、きっと記憶が戻ると思うんです! だって蓬莱くんは、私のクラスの一員なんですから! 皆との絆が、蓬莱くんの記憶を取り戻すはずです!」
萱愛先生は看護師さんに迫るが、看護師さんは困ったような顔で返答した。
「ええと……蓬莱さんはまだ精神が不安定な状態ですので、大勢のお見舞いはご遠慮して頂きたいのですが……」
「何を言っているのですか! 自分の患者が記憶を取り戻せなくていいって言うんですか!?」
「え、ええ……?」
看護師さんがどう対処していいかわからない様子だったので、助け船を出すことにした。
「あの、私がクラスを代表して、蓬莱くんと面会するというのは大丈夫ですか?」
私は萱愛先生と看護師さんの間に割って入り、さりげなく萱愛先生を看護師さんから離した。
「扇さん? あなたが?」
「はい、先ほどの話だと、大勢の面会はダメだという話だったので、私単独ならどうかと……」
「え、ええ。おひとりなら、大丈夫ですよ」
看護師さんの了承を得た私は、萱愛先生に向き直る。すると先生は、私の手を両手で掴んだ。
「えらいわ扇さん。蓬莱くんのことを心配しているのね。わかったわ、あなたにお任せする」
「……」
蓬莱くんが記憶を失った原因が私にあるとは、言えるわけがなかった。
「おじゃまします……」
私は小さく挨拶して、病室に入った。この病室は四人部屋ではあったが、蓬莱くん以外のベッドには誰も寝ていなかった。窓側の左奥のベッドを見ると、蓬莱くんが上半身を起こして窓の外を見ていた。
「蓬莱くん……?」
私の目に映っているのは、確かに見知った筈の蓬莱くんの後ろ姿だった。だけどその姿は、以前の彼より遥かに小さく見えた。元々彼は小柄ではあったけれども、おそらくそういう問題ではない。
私の声に反応して、蓬莱くんはこちらを向く。その顔は確かに蓬莱くんの顔だったけど、その自信なさげな表情は、まるで別人のようだった。
「……あの、僕の知り合いの方ですか?」
「……!」
違う。この人は私の知ってる蓬莱くんじゃない。少なくとも、瀧くんに少しも物怖じしなかった彼ではない。
だけど彼は、間違いなく蓬莱くんだ。今はそうなんだ。だって私は、彼が階段から落ちるところを見た。彼の全てが、失われる瞬間を見た。
だから今目の前にいるこの人は、蓬莱実嵯人で間違いないんだ。
「……私はあなたの……クラスメイトです」
「そうですか……すみません、憶えていなくて」
蓬莱くんは怯えたように頭を下げてくる。どうして謝る必要があるのか。本当なら私が謝らなければならないのに。そうだ、まずは私が彼に謝罪しないといけないんだ。
だけど私の口からその言葉が出る前に、蓬莱くんが言葉を続けた。
「本当にごめんなさい……僕は、何も憶えていないんです。もしかしたら僕にも、夢や目標があったり、将来を誓い合った相手がいたのかもしれません……だけど、今の僕には本当に何もないんです。何も知らないんです……」
そして彼は、両目から一筋の涙を流す。
「僕の思い出、全部なくなっちゃった……」
それを見た私は、全身の血が凍ったかのように震えた。そうだ、これが私の犯した罪なんだ。私が何もしなかったから、彼は全てを失ったんだ。そして全てを失った彼は、空っぽだ。空っぽで何もない。じゃあ何もない彼はどうなる? もし私が全てを無くしたら、何を考える?
もし私がそうなったら、この世に未練なんてない。
「あ、あああああっ!!」
この状況に耐えきれなかった私は、思わず病室を飛び出した。廊下にいた萱愛先生やクラスメイトが私を呼ぶ声が聞こえたが、そんなものは無視して逃げ出した。
病院近くの公園に辿りついた私は、ベンチに座って呼吸を整える。
「はあ、はあ……」
生きてさえいれば、蓬莱くんはまた元通りに学校生活を送れると思っていた。彼だけは、無事に過ごせると思っていた。だけどそんな都合のいいことにはならなかった。何もない彼は、もう元には戻れない。
だったらどうする? 彼の記憶を取り戻させるために何か出来るだろうか? いや、もし彼が記憶を取り戻したら、瀧くんの死の真相を知ることになる。自分ともみ合った結果、瀧くんが命を落としたことも知ることになる。
今の蓬莱くんがそれを知ったら、今度こそ彼は心が折れてしまうだろう。そうしたら本当に、自ら命を絶ってしまうかもしれない。それはダメだ。それだけはダメだ。
だけどこのまま、空っぽの蓬莱くんに何も知らせずにいると、彼は生きる目的を失う。ならどうすれば……
……生きる、目的?
私は考える。そもそもこうなったのは誰のせいだ? 誰が彼の過去を奪った? 誰が彼を空っぽにした?
そんなの一人しかいない、この私、扇綾香だ。
それを知った蓬莱くんはどう思うだろうか。決まっている、この私を殺したいほどに恨むだろう。この私への復讐を考えるだろう。そして復讐というものは、生きていないと達成できない。彼が復讐をするためには、生きること選択するしかない。
そうだ。空っぽなら、別の物で満たせばいい……
その日から二週間後。私は学校近くの喫茶店に、ある人物を呼び出した。
「……久しぶりだねぇ、扇綾香さん……で、いいのかなぁ?」
「はい、そうですよ」
その人物、赤尾千景は、私を見て目を丸くしている。まあ、無理もないだろう。
「んーと、一応聞くけどねぇ、その髪はどうしたのかなぁ?」
豆乳ラテを啜りながら、赤尾さんは気になって仕方がない様子で私の髪を見る。周りを見ると、他のお客さんも私をチラチラと見ている。
そりゃそうだろう。髪を銀色に染める高校生なんて、この国に何人もいないだろう。
「……この髪は、私が今までの自分を捨てた証です。私は目的のために、自分を殺す必要がありますから」
「目的? それが今日、私を呼び出したことに関係があるのかなぁ?」
「察しがいいですね。その通りです」
顔をしかめながら、赤尾さんはマグカップを置く。
「つまりあれかなぁ? その目的を達成するために、私に協力しろってことかなぁ?」
「そうですよ」
「……私が君に協力する義理があると思うのかなぁ」
「思いますよ。だって……」
私は左手で、銀色に染まった横髪をつまむ。
「瀧秀樹を放っておいたのは、私だけではなく、元恋人であるあなたもそうですから」
その指摘に、赤尾さんは気まずそうに顔を逸らす。
「……あの終業式の日。何があったのかは察しがついていたよぉ。蓬莱という男子が、瀧くんを止めようとしたんだねぇ」
「その通りです」
「しかし、それは私のせいじゃ……」
「あなたのせいでもありますよ。蓬莱くんの記憶を奪ったのは、私と、あなたと、瀧秀樹です」
はっきりと言ったからか、赤尾さんは言葉を飲み込む。
「話を戻しましょう。私はある目的のために、赤尾さん、あなたに協力を要請します」
「要請ねぇ……それで、その目的というのはなんなのかなぁ?」
「蓬莱くんの復讐を達成させることです。彼の記憶を奪ったこの私……扇綾香への復讐をね」
「……!!」
赤尾さんは目を丸くしている。
「彼は今、生きる目的を失っています。ですが私への復讐心が、彼の心を再び満たしてくれるでしょう。私は彼に、『復讐』という形の生きる目的を提供しようと思うのです」
「……随分とバカなことを考えたねぇ。そんなことをしたら、君がどんな目に遭うかわからないよ?」
「わからないも何も、本来は彼は私に復讐するべきなのです。私に拒否権なんてありませんよ。それに……」
私はこの二週間、考え続けていたことを言う。
「これは私自身の復讐でもあります。何もせずに、ただ暴力を受けていた、弱い私への復讐。彼と私で、扇綾香への復讐を果たすのです」
「……どうやら君には共感できそうにないねぇ」
「それでいいですよ。私があなたに求めているのは、共感ではなく、協力ですから」
「……まあいいさ。確かにあんなことになった原因は私にもあるみたいだからねぇ、協力はするよぉ。だけどねぇ……」
赤尾さんは空のマグカップをテーブルに叩きつける。
「君のそういう後ろ向きなところ、好きになれそうにないねぇ」
こうして、私たちは蓬莱くんに『扇綾香への復讐心』を満たす計画を立て始めた。私が蓬莱くんを下僕扱いし、階段から突き落としたという『真実』を、『彼女』である赤尾さんから伝え、その『真実』に信憑性を持たせるため、私が彼に暴力を振るうという計画だ。
私が間違っていることなんて、百も承知だ。だけど今までの私が既に間違っているのだから、今更間違いを気にしていられない。
今の私は、蓬莱実嵯人の理想的な復讐相手なのだから。
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