うだつの上がらないエッセイ集(2)

思いつきで気楽に更新します。基本的に一話完結なので、お好きなページをご覧いただけると嬉しいです。
月澄狸
月澄狸

思いのタイムカプセル

公開日時: 2021年3月7日(日) 06:56
文字数:1,206

「なろう」のアカウントを放置してから既に3年が経っていたようです。

 開いてみると、まるで明日も明後日も投稿しようと思っていたかのように、完成した下書きの文章がいくつか並んでいました。


 それを見るとはなしに眺めながら、私は最初、3年前の自分を見下してしまいました。何を言っているのか分からないし、随分偉そうだと。

 しかしその後、投稿した文章に温かいコメントをいただき、何かを疑問に思ったのです。何に対してかよく分からない疑問。


 ……私はなぜアカウントを放置したんでしたっけ。

 伝わらなかったから? 空しくなったから? なろうの空気に馴染めなかったから?


 私は何を思ってあの文章を書いたのでしょう。

 誰かに読んでもらいたくて? 心から何かを感じて?



 3年経って私は文章が上手くなったんでしたっけ……。



 小中学生の頃は作文だけが自分を伝えられるツールで、本を読んでワクワクし、言い回しや言葉を蓄積しながら、自分でも文章表現をしたものでした。図書室で「ことわざ」の本を見つけて「ことわざ!? なにそれカッコいい!」と目を輝かせたのも表現のためだったかもしれません。


 中学生の頃は作文コンクールに応募することにハマりました。

 その頃私には下書きという概念はなく、原稿用紙にそのままバーッと書いたものです。



 今は何が正しいやり方だとか、絵でも文章でもたくさんの情報が入ってきます。


 構図はこう、空間の使い方はこう。

 空は青いもの。雲は白いもの、といった風に。



 もし私が天才なら迫り来る概念の渦から逃げ切れたでしょう。

 私は私のやり方で十分上手くいっているから何も問題ない、と。


 あの頃はモードに入ればすんなりと文章が「降りて」きました。最初の何行かは「私」が考えながらゆっくり書くものの、いつしか誰かと入れ代わり、私は何も考えずに筆を走らせる……。無心で書く……。そんな感覚がありました。


 でもいつしか疑い始め、なかったことにしたのでした。私は天才じゃない、何にもなれなかった、才能はないと。



 今の私は「モード」に入っているのでしょうか。


 入っていない気がします。年々ネガティブまっしぐらです。



 3年前の下書きにはまだ子どもの頃の「何か」が残っている気がして……

 私は無修正で投稿しました。


 そして、私にはもう3年前の私の気持ちが分かりませんが、いただいた温かいコメントが、3年前の私の代弁者となってくださったように感じたのでした。



 3年前の自分に伝えたいものです。心を込めた文章に触れてくださる方はいるのだ、と。もうそれを外に出しても良いのかもしれない、と。


 しかし何かを置き去りにした「私」にはもう分からないのです。


 それでも、過去の自分を理解せず蔑んだことを反省し、手を伸ばし、あの頃の片鱗に少し触れられた気がします。



 自分だからといってバカにしてはいけないのかもしれません。残像のように残る自分……それは「私」とは別の思いを持った生き物で、もっと大事にすべきなのかもしれません。



読み終わったら、ポイントを付けましょう!

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