カラオケバトルのテレビ番組とか見ていると、「絶対に負けません!」とおっしゃっていたりしますね。
それはそういうものだし、「勝つぞー」ってのも当然なのですが……私もそういうバトルモードに入っていたかもしれません。
「負けるか」とばかり思っていると、ギスギス、ピリピリ。繊細なもの、柔らかさ、人生の機微などを見落としますね。
……いや、カラオケバトルの人のことを言ってるんじゃなく、「私の場合」です。
勝負でものを見ると、私の場合、すべてのものを、私(の作品)より上か? 下か? と睨むような視点になってしまうのです。そして「私だって頑張ってるのになんで」と、異常に妬み深くなる。己の才能のなさを恨み、他の人に嫉妬し始める。
こないだ何気なく、自分の興味分野とは違うものに心打たれました。
別に何かの詳しい情報でもない、深いことを言おうとしているわけでもない、ただみんながナチュラルに生きている「素」……
それは、ゆったりと過ごす虫たちや、公園で遊ぶ子どもたち、眠そうに目を細める動物たちのように。小難しいしがらみや、命の定めから解放されたような、優しい世界。
私は、何もしていないように見える、生き物たちの時間が好きです。
生き物たちが楽しそうに歩いている姿。朝日や夕日を眺める鳥たち。虫たちが丁寧に毛づくろいしていたり、じっと身を休めていたり。
狩りをしたり、必死に逃げているわけではない、行動に名前の付かない、名もなきひととき。争いのない時間。
狩りの躍動こそが命の真骨頂とは、私は思わないのです。生き物たちの、何を考えているか分からない、静かな時間に夢を馳せます。そこにきっと魂の故郷がある、と。
そういうふとした開放感を、闘争心で失ってしまい、何かを得ようと必死になり、時間に追われ、挙げ句の果てには誰かを疑い、自ら敵に回そうとしてしまうならば。私はそろそろ夢破れてもいいのかもしれません。
競争は争いの一種です、私の場合。
たしか「水は答えを知っている」の本で、「競争」はそんなに悪いものではなかったけれど、競争にのめり込んで、依存症になってしまって、楽しめないようなら、一旦降りても良いのかもしれませんね。
けど夢破れても人生は続く。
そこそこ幸せに生きるにはどうしたら良いんだろう……と模索すると、やっぱり私はできれば好きなことで生きたいので、なんだかんだ迷走しても結局、創作するスタイルはあまり変わらないかも。
ただできればちょっと、気の持ちようを変えた方が良いかも。「絶対私のやり方で食っていく!」と必死にならず、「んー、まぁ、創作はちょっとした趣味かなー……全然書けていないし、人気もないけどー」くらいのゆるい感じでいこうかな。思いを賭けすぎると逆効果かも。
足を知り、求めすぎず、現状がどうであれ、また他の人の真意がどうであれ、「みんな今という時代と空間で偶然一緒に生き、偶然いつも会うことができる仲間だなぁ~」って思えていた方が幸せそうですね。
で、まず、自分が裏切りのような無礼なこと言っちゃダメですね。全部壊してしまうから。
「壊してしまうのは一瞬でできるから 大切に生きてと彼女は泣いた」
……ですよね~。
構築、そして自分を保つこと、私には難しいです。
壊すのは簡単だけど、「壊さずに済んだ日」はなかなか積み重ならない。すぐカウント0に戻ります。
私たちは自由なんだってことを忘れずにいたいです。継続も執念も離脱も自由。
自由に。焦らず。思い込みすぎず。時間いっぱい、今見られる世界、今話せる関係を楽しむ。みんないつかは死ぬ中、心を向けてくれているのだから。
もし合わなくてしんどい思いをさせて、お別れになったなら。そこはごめんなさい。来る者拒まず去る者追わず、気が向いたときに向いたように、偶然お会いできる間はよろしくねー、と。で、いなくなるまでは、「好きで一緒にいてくれるんだね」と。
生き物たちとも、しばらく一緒にいたりします。数日間庭に泊まっていく子、いつもの場所にいる子。
ある日フラッと去ってゆく、あるいは命を終えている。
人にも、「こうしてほしい」だの、「いつまでも一緒にいたい」だの、それは私の求めるスタイルではないのかもしれません。「あ、今日も一緒に遊んでくれるんですね、嬉しいなぁ。ありがとう」と。
偶然、魂の奥深さを垣間見られた日は感謝です。
「こうなりたい」なんて決めたプランはつまらない。本当はもっともっと予測不能に、自由なはず。
偶然一緒にいれる今日を最大限楽しみ分かち合う、そこが理想……なのかも?
これも今日の気まぐれ。多分、矛盾いっぱい。
しばらくすればまた、承認欲求の海に溺れるのでしょう。どうもなんだか、思考回路がループしているらしいことだけは、薄々自覚し始めました。
それでいいや。いつか眠りから覚めるまで。
今日は今日の夢を見ます。
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