うだつの上がらないエッセイ集(2)

思いつきで気楽に更新します。基本的に一話完結なので、お好きなページをご覧いただけると嬉しいです。
月澄狸
月澄狸

変わりたいのに変わらない

公開日時: 2022年8月24日(水) 21:47
文字数:3,772

 これは少し前に書いた文章です。今はちょっと気分が違います。





 相変わらずTwitterのリンククリックがありません。

 リンククリックしてくれた人だけが見られるスペシャルハッピーなページとかあれば、みんな喜んでクリックしてくれるでしょうが、むしろドヨーンとさせるばかりなので、しょうがないかもしれません。


 ニンゲンの心理が今ひとつ掴みきれない、そして自分の振る舞いが定まらない今日この頃です。陰口が嫌いと言いつつ、自分こそ陰口じゃないか、みたいな文句ばっかり。たくさんお世話になっているのに、感謝ってものがないよね。自己嫌悪します。


「見てくださっているんだかいないんだか分からないけど、いつもいいねしてくれる人」に気を取られがちで、どこか、「全員に同じように返さなければいけない」という意識が抜けていません(けど結局何も返せていない)。そうじゃなく、「あ、この人は本当に見てくださっているんだ!」って分かる機会があった人だけにお返しすればいいんじゃないでしょうか。反応する相手を絞るのです。


 かといって、「見てくれるから返す」のもやっぱり違う。そして、孤独だった私は、「仲間の輪」みたいなのがどうも排他的に感じてしまいます。

 ブログ時代、ほとんど話したことのないフォロワー様が、ずーっとリアルの仲間やブログ友達の話をしているのを毎日読んで「いいね」してたりしたのですが、そういうの、読んでてなんか寂しくなってきました。

 けど、「ちびまる子ちゃん」や「クレヨンしんちゃん」「アンパンマン」「ドラえもん」など、キャラクター同士が仲良くしているのを見るのは、「自分も入っている気持ちになれる」。楽しい。はずなんですが。

 コミックエッセイを買って読んでいるときに見る、登場人物もそうだし。テレビで芸能人の人とかの、トーク見ててもそうですよね。

 なのに、投稿者様とそのまわりの人間関係をキャラクターと捉えられず、疎外感を持ってしまうのは何故でしょう。私だけの問題かも……。クラスとか会社とかで、一人寂しく「友達の輪」を見つめていた記憶が蘇るんですかね。


 あー、「反応すれば反応が返ってくる」状態だと、純粋に「作品」として見られず、リアルと認識してしまっているのかもしれません、私が。いくらいいねしてもお金を払っても何も返ってこない人の投稿は「作品」として捉え、自由に読みますが、反応がある、コミュニケーションが成立する場合、「人」だと認識する。だから、こちらが構ってもらえないと寂しくなる、と。

 映画見ていて寂しくなったりはしないのに、文化祭とか、学校の打ち上げとか、賑やかなお店で一人ポツンといると、寂しくなってしまったように。自我(?)を意識してしまうか、しない場面か、ってとこか……。それは人にもよるのですかね。

「一人焼き肉できるか?」とか、「一人でお弁当食べるのが嫌」とか、そういう話は、「自分が一人だと意識してしまうかしないか」、人前で一人ぼっちが平気か、って話題だったのか。私もあれこれ書くなら、読者様を我に返らせない工夫が必要かも。


 入るのが苦手だった友達の輪。特定の人しか入れないものが形成されてしまうのはどうなのか。身内ネタとか。

 やはり私の理想は「読み合いっこ」ではなく、みんなが好きなページを見ること……だとは思っているのですが、難しいです。


 私のページに来てくださっている人は、本当に私の表現が好きなのか。お返しなのか。私の文章なんか見ている暇があるなら、もっと他のことできたんじゃないか。本当の本当に自由だったら、どうしたか。私が時間ドロボーじゃないか。じゃあ自分はどう行動したいのか……?


「リンクは押されないのが当たり前、押してくださったら奇跡」だと思えていたら、「リンククリックされない」などとぼやかないはずです。そして、リンククリックしてくださった方がかえって損をするような、ボヤキなど書かないはずです。私はまだ読者様のことを分かっていません。


 交流がメインで、創作は二の次、誰かが構ってくれたり、一緒にお話できたりすればそれでいいのか。

 そういう気もします、穏やかなときは。「なんか今自分も相手も生きてて、そこそこ平和で、誰か喋ってくれてる人がいる。嬉しいなぁ、幸せだなぁ」って。


 何が本当の気持ちでしょう。誰も読んでくれないとか言って、「あああ、ひどいこと書いてしまった……!」って思う日もあれば、「いーや読んでくれ!」と思う日もあれば、「そもそも人様に読んでいただけるようなやつ一つもないじゃん! 文章も言い分もメチャクチャだよ!?」と思う日もある。で、読んでいただけないというのも嘘で、けっこう見てくださっている方はいる気もする。自分の高望みと思い込みが甚だしいだけ。


 私に必要なのは、「足を知る」ことかもしれません。

 なんだか……変わりたい。けど変わらない。そして、最近耳にした言葉の寄せ集めみたいなことばかり書いていて、デジャヴみがひどい。

 だから図書館にでも行きたいです。図書館の本って古そうなので、どうせ自分は寄せ集めみたいな創作しかできないならば、古いものから着想を得たいです。古いものは、現在見られない概念があったりして、逆に新鮮そう。現代の感性で固まるのを防ぐのです。


 あと、自分の古い投稿を読み返して、セルフ感想文とか良いかも。自分×自分で、自分が色濃くなっていく、インスピレーションのリサイクルみたいな。そうすると、他の人の作品を読んで影響されまくって、パクりみたいになるよりはマシ。かな……。





 今の気分は、「Twitterといえば炎上のイメージで、どんな恐ろしいところかと思っていたのに、出会う人出会う人、良い人ばっかりじゃないか!」という感じです。noteやカクヨムの延長線上。っていうかどこ行っても良い人だらけですね。アメブロのフォロワー様も良い人だらけだった。

 となると、「読まれない」とピリピリ(?)しているのは完全に自分の問題なのです。自分で勝手に目標を作って、それが叶えられないと苛ついているのです。ただ私に才能がなかっただけなのに責任転嫁してる。じゃあ目標を捨てればいいのではないか。


 もっと縁を信頼して、流れに身を任せて、遊んでみても良いかもしれません。一旦自分のやりたいことを後回しに、っていうか「書いても書けなくてもいっか」という感じで行けばいいかも。「月澄狸さんの作品が見たいんだから、サボってないで書いてください!」と言われる状況ではないのだから。

 喋って遊ぶ、それで良いかも。コメントだって作品とも言える。ある意味そっちが求められている(求められているんじゃなく、自分からあちこち話しかけたりアクションしたりするから、繋がりができたのでは)、それが私の才能だと仮定して。

 なんやかんやでまた一人になったら、今度は寂しがらずに創作に没頭したいかも。一人のときに一人に集中できない、自分の寂しがりが問題の元凶。


 で、今はTwitter宣伝は失敗というかまだ影響力も足りないし、生き物ツイートアカウントみたいにしてしまってもいいかも。思いつきで投稿しやすいし、noteにも貼れるし(noteに貼ったら読み込み重い気がするけど……)。私の作品は「人外萌え」路線だし(自分の中で)、趣味と創作がそう遠くはないので、私の趣味の閲覧者様が増えれば、結果的に読者様も現れるかもしれない。急に「作品読んで」って言われると、どういう感じか分からないからスルーでも、自分と似た趣味の人の作品だったら、気になるかも。と、うまくはいかないかもしれないけど、まだ人を操る作戦を立ててみる。


 あと、「人と人が話してるの見てるだけのとき寂しい」みたいなこと書きましたが、それもあるけど、それだけじゃないような。そもそもコメント欄覗くのが好きで覗いていて、寂しさが強いときもあるけど、それより「ほほー」とか、笑いながら読んでいることも多いです。「この人めっちゃコメントおもろい」とか、コメントで「おっ」と気になる方がいれば覚えます。フォロワー様のフォロワー様とか。記事を読んだことはなくても、コメント欄で覚えている人がいたり、フォロワー様とフォロワー様のやり取りを楽しんでいたり。

 なぜコメント欄で気になった人の記事を見に行かないのか? 時間がないのです、単純に。


 そうです。人のせいじゃありません。私のせいでもありません。誰のせいでもありません。夢を叶えて好きなことも全部やる、遊びまくるお金と時間が足りないのです。



 これは今の気分であって、私は忘れっぽく気まぐれです。書きたいものややりたいことは色々あるので、最終的にどの欲求が勝ち、どういうスタイルにたどり着くかは不明。

 自分にとって一番幸せなスタイル見つけたいなぁ。理想は、作品も読まれて、雑談もできて、無駄な時間(楽しくもなければメリットもない)を全部捨てることかな。で、バランスが取れて欲求が満たされて、常に穏やかな気持ち……みたいな? やっぱり「アレかコレか」とかでなくバランスなのかなぁ。


 ちなみに、ボーッとする時間と、フラフラする時間と、寝る時間と、生き物を眺める時間は、今のところ必要不可欠で外せません。


 何か削ろうと疑心暗鬼になって考えてみたけど、削れるとこなかった、私が悪かったわ、みたいな話でした。




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