もうホント、「応援したい人の応援に徹する」ことで喜べる人間になる、その方が素敵かもしれません。人を振り向かせる実力もないくせに、自分の創作で誰かの気を引こうとばかりするのは、創作意欲ではなく、承認欲求の暴走かもしれません。
私は「人に見てもらいたい」から創作する人間です。「書くのが楽しいから」とは違うかもしれません。「見てくれる人」を思って書くのは楽しいけれど、見てくれる人がいないと空しいのです。
それも、相手が嫌がっているのに無理やり「読んでください!」と自分の作品を押し付け、読んでもらえさえすれば満足というわけでもないつもりです。「楽しんでほしい」と言うと、私の作風とはやや合わないかもしれませんが、私の作品が「好み」という人に眺めてもらいたいのです。共感が欲しいのですかね。
だから、「私の作品に興味もないのに、いいね集めのためだけにいいねされているのではないか?」と疑問が沸くと悲しくなるのです。実際、こちらからの「いいね」をやめれば人からの「いいね」も減るという事実があるので、私の作品を追ってでも読みたい人はあまりいません。
どうなれば満足なのか。私は何かに飢えています。
メールとかお知らせがくるとつい見てしまいますが、多くは自分に関係ない広告的な通知で、ガッカリします。テレビやネットは私に何かを「届けよう」「見せよう」と色々な情報を流してきますが、私のものをどこかに届けようとはしてくれません。自分のページは埋もれる一方。
このような状況で「それでも書きたい」と思える人、結果があまり気にならない人が、創作に向いているのでしょう。「有名になりたい」とか「人気が欲しい」とか思うなら、それは表現者として方向性が間違っている……のかもしれません。
いや、人気になりたいと思って頑張り、結果を出せる人も中にはいるかもしれないですが、それはよく言われる「一握りの人」ってことで。多分、欲望以前に才能があったのでしょう。最初から欲望しかなければ、中身空っぽかも。
「一握りの成功者」以外でも、表現者であり続けることは可能です。読んでもらうこと、アクセス数や評価にこだわらなければ、ネガティブな感情も沸いてきません。そうであれば人付き合いにも支障ないでしょう。「誰も興味持ってくれない」などと嘆いてフォロワー様に気を使わせ、気まずくなることもありません。
私は、誰かに見てもらう機会がなかったら、創作をしていなかったかもしれません。
人それぞれ、好きなキャラクターが違うように、「上手い」「すごい」と「好み」はやや別です。私の場合。で、人を応援するというのは、「すごい」作品を、それが「好み」の人に届けることだと思います。
どんなすごい作品でも、私にはスポーツものは分かりません。が、それが好きな人に届けるお手伝いくらいはできるかもしれません。
Twitterには「リツイート」という機能があるので、好きなものをリツイートしやすいです。ブログの「リブログ」や「シェア」、小説投稿サイトなどでの「レビューコメント」にはちょっと勇気がいりますが、Twitterでは無言でリツイートしても良さそうな雰囲気があるので、「いいな」と思ったら考え込むことなくリツイートします。他の媒体では「いい記事をシェアしたいな、でも作者様にどう声をおかけしよう、紹介文になんて書こう」と考えた結果、シェアせずに終わる場合がありますが、「リツイート」は無言で簡単にできます。
応援したい、すごい人はいっぱいいる。もっともっと応援できたらいいのかも。
でもまだ我が勝ちます。私は読者ではなく作者。時間もお金も幸福感も足りません。
真剣に誰かを追ったり読んだりするのには時間がかかってしまいます。追い続ける相手がただ一人だったとしても、本気であればあるほど時間がかかることでしょう。自分の創作を諦めねばならないくらいに。そして私は本気で追われていないと分かると、当然だとは知りつつ悲しくなります。誰もが本気で、自分に興味を持たれたいものです。
誰かを理解し、応援するために時間を捧げる。それをしてもいいと思えた頃には……。
いや……。一生無理かもしれませんね……。時間があったら書きたい、発信したい、何かをやって誰かに見てもらいたい。私はまだまだワガママです。
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