古ぼけた時計の鐘の音が響く。
アースガルド家の屋敷に伝わる、由緒正しい古時計だ。
「あー、もうこんな時間!?」
朝一番の鐘を聞き、メイドの一人が慌てて屋敷の二階へと向かう。
領主を起こすのが、数年前から続く彼女の役割だからだ。
「お、マリーはまた遅刻か?」
「朝飯のつまみ食いばかりしてるからだよ」
周囲の使用人たちが、走り去る彼女の背中に軽口を放れば。
彼女は走りながら振り向き、抗議の声を上げていた。
「今日はしていませんー! ちょっと用事があったんですってば!」
ロングの茶髪を振り乱して階段を駆け上がった彼女は、一目散に、廊下の途中にある領主の部屋を目指した。
「ふぅ。さて、と」
軽く息を整えて、廊下の鏡で身だしなみを整えて。
服に乱れが無いことや、髪が跳ねていないことを確認し。
彼女は鏡に向かって笑顔を浮かべた。
「よし、バッチリ! クレイン様ー、おはようございまーす!」
彼女の目から見て、領主は寝坊助だ。
子どもの頃から朝に弱く、放っておけば起きてくるのは昼食前になるだろう。
だから、先代アースガルド子爵からの命令。
当時は、幼い彼女へのお願いという形で。
いつの頃からか、彼女がモーニングコールを担当することになった。
先代夫婦が亡くなってからもそれは変わらず。
彼女は今日も、領主である少年のお付きメイドとして目覚ましに来たのだが。
「……」
「ああ、クレイン様。もう起きてらしたんですか」
普段は寝息を立てている領主が、今日は起こしに来る前から起床していた。
珍しいこともあるものだ。
と、一瞬驚いたマリーではあるが。
「さ、今日もいい天気ですよ」
そう言いながら部屋のカーテンを半分だけ開ける。
もう半分を開けるためにクレインが起き上がり、二度寝を防ぐという作戦だ。
これをやる前は、意地でも二度寝や昼寝を続けようとする少年に困ったものだが。
今では自力で起きられるくらいにまでなったのか。
領主としての自覚が出てきたのか。
一瞬そう思ったものの。
「……いえ、たまたまですね」
いや、きっと気まぐれだ。
そう考えて、彼女は笑う。
領主には三日坊主なところがあるので、多分明日からはまた元の寝坊助に戻る。
そう考えつつ水差しを交換したマリーは。
「あれ? どうしたんですか、クレイン様」
「……」
既に目を覚ましている領主がベッドから起き上がらず、呆然とした表情で虚空を見つめていることに気が付いた。
目の前で手を振ってみても反応なし。
どうみてもぼうっとしている。
「クレイン様ー? わ、全然動かない」
何かショックな夢でも見たのだろうか。
そう思い顔を近づけてみたマリーは、彼の前に身を乗り出して言う。
「ほら、早く起きないとイタズラしちゃいますよー」
笑顔でそう言ってみるが、彼からの反応はなかった。
それが悔しかったのか。
数分の間、色々と気を引くような動きをしてみて。
しかし反応に乏しかったため、彼女は最終手段に打って出る。
「くくく、いいでしょう。こうなったらえっちなことをします。ウブなクレイン様が度肝を抜かれるようなやつです」
耳年魔なところがあるマリーは、領主の前でしなを作ってセクシーなポーズを取ってみたり。
腕を取って身体を押し付けてみたりしたものの。
それにすら無反応だった。
「えっと。あの、お身体の調子が悪いんですか?」
「ああ、いや……何でもない」
ここまでくれば本気で心配していたマリーは、不安気に領主の顔を覗き込み。
至近距離で見つめ合って、ようやく反応があった。
「今は、王国歴500年の、4月1日か?」
「え? ああ、はい」
「……やっぱり、そうか」
しかし顔色は悪く、心ここにあらずといった状態だ。
「なるほど。悪い夢でも見ましたか」
「悪い夢。……そうだな。あれは悪夢だったよ。もう二度と、経験したくないと思えるくらいに」
彼が抱いている感情は何だろうかと、マリーは考えた。
よくは分からないがマイナスの顔をしている。
恐れのような気もするし、怯えのような気もする。
寂しさのような気もするし、諦めのような気もする。
それはマリーに、過去の光景を思い出させた。
領主が両親と死別した頃。
夜に一人で空を見上げていた彼の姿だ。
「――大丈夫ですよ」
その時は、黙って抱きしめた。
だから今回も、そうする。
彼女は領主の頭を抱きかかえると。
子どもをあやすように、ゆっくりと掌で頭を叩く。
「大丈夫です。悪い夢なら、そのうち忘れてしまえますから」
「……マリー」
「子爵家の当主様が、こんな格好悪いところを見せられませんか?」
そう言うと、彼女は靴を放り捨てて。
行儀が悪いが、メイド服のままベッドの上に移動し、彼と共に寝転がった。
「大丈夫。私は朝からとても忙しくして、少し眠いので」
私は何も見ていません。
私はだらしがないメイドです。
主人の部屋で、サボって寝ようとしています。
そんなことを言いながら。
彼女は領主の頭や、背中をぽんぽんと、軽く叩き続ける。
「ええ。そうですね、こんな抱き枕があればちょうどいいなと思ってます」
そう言いながら。
マリーは領主を寝かしつけようとした。
「悪い夢なんて、もう一度寝れば忘れますよ。だから、今日はお休みしましょう」
「違うんだ。俺は、ただ……いや、どうして、4月に……?」
しかし状況を把握できていない彼の顔には、呆けた表情が浮かぶばかりだ。
年頃の男の子が。
年頃の女の子と間近で接していたとして。
そこに気が回らないくらいには、余裕が無いらしい。
「もう、仕方のないクレイン様ですね。こんな美人メイドが添い寝しているのに、上の空だなんて」
余程怖い光景でも見たのか、それとも領主の仕事でお疲れなのか。
そこはマリーにも分からないとして。
女子と触れているドキドキというよりは。
恐怖による緊張からくるような、浅い呼吸を繰り返す領主の手を握り。
「今日は特別大サービスです。二度寝も許してあげますし、お勉強もナシの方向でいきましょう」
「……マリー」
「当然私も寝ますが、これは業務上仕方の無いことなのです」
そんな軽口を叩きながら。
彼女は領主が再び眠りにつくまで、手を握り続けようと思い。
「ついでだから、これも。ほら、懐かしいでしょ? ……ね? クレイン様」
穏やかな夢が見られるようにと、領地に伝わる子守唄を口ずさんでいた。
外は春の陽気だ。
これなら昼まで寝ていられる。
今日も平和で何事も起きない日常が続いているのだから。
たまにはこうして、何も考えずにサボってもいいだろう。
そんなことを思いながら、メイドは歌い続けた。
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時は王国歴500年4月1日に巻き戻りました。
憎悪を叩きつけられて消耗した挙句。
積み上げてきたものが何故か全部リセットとなり、放心しています。
戻った原因はごく単純ですが、そこへ言及する前に一話挟みます。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!