「いやぁ参った。もう免許皆伝でいいんじゃないかな」
「まだ三ヵ月ですよ……」
クレインがビクトールの私塾に入ってからいくらかが経ち。
授業の終わりに、クレインはめでたく免許皆伝でいいと伝えられた。
もちろん剣の話ではなく、私塾の卒業という意味でだ。
早過ぎる。
卒業を言い渡されたときの、クレインの感想はそれ一つだった。
「そうは言っても、教えられそうなことは教えたし。そもそもその年でそれだけ知っていれば、あとは自習で不自由しないと思うけどね」
ビクトールはそう言って苦笑するが、クレインは元々子爵家の御曹司として、そこそこいい教育を受けていた。
そして何度も繰り返す人生の中で、余暇があれば違うことを学んできている。
トレックには胃薬以外にも定期的に仕入れを頼んであり、読んだことがある本を除いて、毎回違う本を購入していたりもした。
本屋どころか小さな図書館の本を、読み尽くす勢いで学んできたのだ。
だから主要な学問は、既に履修済みだった。
「学力はまるで問題なし。軍略から農耕政策までよくもまあ、その年でそこまで修めたものだよ」
「はは……」
実際に試したことがある政策も、細かいところで多々ある。
だから授業中に問題点を聞かれれば、即座に出てくるようなことが多い。
多少穴がある政策案を例題として出されても、引っ掛け問題に引っかかることすらほとんど無かったのだ。
間違い無く、ビクトールの私塾が始まって以来の秀才扱いだった。
「机の上だけでは分からない実学まで、きちんと理解しているのだからね。これ以上のことを学んでどうする……と、聞きたい気持ちもあるかな」
本は十分に読んできたし、礼儀作法の問題や教養、文化方面でもそれなりに洗練されている。
それはブリュンヒルデだったり、国王の命令でやって来た文官だったり。
要は王宮で働いていた出向組。
無礼を働けば物理的に首が飛ぶ空間を生き残ってきた、プロフェッショナルの指導も代わる代わる受けてきたのだ。
しかも献策大会の時に優秀な政策を示した者は、何名か部下として雇えていた。
特筆することもない日々の空いた時間に、各方面の先生から、雑学がてらに話を聞いてきている。
何かに特化した深い知識は無いものの、知識の総量で言えば既に一人前だ。
平均値なら既に、国内でもトップクラスになっていた。
「それはそうですが。いくら学んでも、損にはならないでしょうに」
「本来だったら僕がそう言うべきなんだろうけど、ね」
だとしても、色々と改善の余地はあるはずだ。
そう思ったクレインは日ごろからビクトールを質問攻めにして、細かい粗を削っていたのだ。
しかし全く知らない分野というものがほとんど無いので、知識量の上昇は緩やかだった。
これ以上は知識の分野ではなく、実際に働く職人の世界に入ってくる。
だからビクトールが苦笑いなのも理解はしたクレインだが、退き下れない事情もある。
と言うのもアイテール男爵が自信を持って勧めるだけあり、ここはかなり高名な塾だ。
これ以上のところが見つかりそうもないので、彼は食い下がる。
「いえ、しかし……こんな短期間で私塾を卒業したなどと。男爵や故郷の家族が信じてくれるとは思えませんよ」
「それはそうかもしれないが、一筆書くよ?」
微量でも学べることはある。
特に軍略は武官がよく使う戦術論よりも大きな立場に立った、大局観のこと。歴史を引き合いに出した国家戦略論から解説が入るのだ。
領地経営には確実に要らない部分なので、そこを教えるような師と会ったのは人生で初めてだった。
そして意外と身になることが多く、クレインの立場からすれば有難い知識でもある。
だから勝手に卒業させようとしているビクトールを、何とか止めようと思い。
まあ、クレインも抵抗する。
「いえ。お上品な言葉をした、クビの手紙と受け取られる可能性があります」
「君の能力を知っていれば、そんな疑念は湧かないと思うけど、ね。……うーん」
地方領主どころか、国王の側近として必要なレベルすらもクリアしている。
これ以上何を教えればいい。というか、この少年はどこを目指しているのか。
「いや。……だったら逆に、教えてもらおうかな」
そう悩んだビクトールは、ここで発想を逆転させてみた。
「教える、とは?」
「君が先生をしてみるのさ。教育論の学びとでも言おうか? その歳だと、あまり人に指導をした経験は無さそうだし」
実のところ、それは正しい意見だ。
クレインは人を使う立場であり、まとめ役であるハンスやランドルフに指示を出せば勝手に部下への教育が行われていた。
ランドルフの成長を願い、本を渡したこともあったが。
しかし、直接指導をした経験には乏しい。
それは事実かと思い納得するクレインを見て、ビクトールは更に言う。
「本当だったら塾をリドル君にでも任せて、早々に引退したいところだけど。彼を説得するのは……色々と面倒だからねぇ」
どこかに仕えるよりも、一生勉強を続けたいという変わり者もいる。
例えばリドルという門弟はクレインよりも五つ年上で、実力だけを見れば指導者として問題ない知識量だ。
「リドル先輩は、哲学者になりたいのでしたか」
「そうそう。自分の勉強だけしていたいタイプだから、先生役を押しつ……。頼むには、それなりの見返りを渡さないといけないんだ」
自分の研究だけやっていれば満足な人間。しかも高名な私塾に通える時点で名家の出だ。
食うに困っていないなら、望みに反することはすぐに断るに決まっている。
門下生の中から自分の仕事を手伝う人間を探すのは意外に骨だと語りつつ、ビクトールは続ける。
「その点クレイン君は、特に専門科目の無い雑食だ。実家のしがらみがあるわけでもないだろうし……先生役、どうだろう?」
領地を売り込むとすれば、西候との戦いが激化する王国歴502年の秋だ。
今のクレインに、急務は無い。
ただ二年後を待っている状態なので、別に引き受けたとして問題は無いとして。
ビクトールが「押し付ける」と言いかけたところに一抹の不安を覚えたクレインは、少し疑わしそうな表情のまま聞く。
「ビクトール先生が楽をしたいだけに思えるのは、気のせいでしょうか」
「ああ、うん。楽をしたくて提案しているのはもちろんさ」
クレインに指導技術を教える。
という名目で受け持つ生徒を減らし、自分が楽をしたい。
その目的もあっさりと認めつつ、彼は続ける。
「特待生だから月謝は少額にしていたけど。生徒を受け持ってくれるなら、むしろ給金を支払おう」
「給金……ですか」
「働いてお金を稼いだことも無いよね?」
地方領主の傍で仕える、名家のボンボン。
それがクレインの設定だ。
それに基づけば、額に汗して働いたことがないだろうという意見は合っているし。
実際にクレインは、労働をしたことがない。
文官や商人に指示を出すことがあっても、労働と言われればそれは違う。
「だからさ、これも経験だと思って、先生を引き受けてくれると嬉しいな」
得難い経験であることは間違いない。
領地に戻ろうが前回のような人生に戻そうが、指導の機会はそれほどないからだ。
真面目に教育論を学べば、今後は配下の育成に悩む管理職へのアドバイスができるかもしれない。
その経験が何かに役立つこともあるだろうかと、クレインは悩む。
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