「ゆるさ、ない」
「貴様だけは」
「あの世へ……道連れに!」
怨嗟の声を上げながら。
自分が死ぬとしても、クレインだけは殺す。
そう決意した者たちが、憎悪の瞳で彼を見ていた。
「……俺は」
クレインには、彼らの怒りや憎しみも理解できる。
心情が分かるが故に、彼は恨みを受け入れるしかなかった。
目を固く閉じて。
唇を嚙みしめることしかできない。
裏切った。それは事実だ。
「だけど、仕方の無いことだ。これ以外に、道は無かった」
王子に義理立てしようとする者たちを捨て、敵対陣営に鞍替えした。
忠義を捨てて、一人だけ栄華と栄耀を享受している。
そう見られても当然の状況ではある。
しかし最善の道を選んだ結果であり、彼らの要求はどう考えても無茶だ。
死んだあとに離脱しているのだから、責められる言われもない。
自分は正しいことをしている。その自信は持っているとしても。
「貴様だけは、貴様だけはッ!」
「アースガルドォォオオオ!!」
「絶対に、許さない……!」
恨まれている。
クレインにも、それは痛いほどに分かった。
腹から内臓がこぼれ、腕を失い。
首が半ばまで千切れた者。
ピーターからすれば、もう放っておいても死ぬ存在。
捨て置いてもまるで問題が無いと判断された者まで、死にながら這いずる。
この地獄の中で。
クレインはただひたすらに、やむを得ないことだったと念じるしかできない。
「閣下」
そして、それは彼女も同じだった。
「……私は、殿下を介錯しました。私が。殺し、ました」
ブリュンヒルデも致命傷を負った。
左の脇腹から腕までを両断され、死んでいないのが不思議なくらいの傷だ。
「生きることは、苦しみ続けることです。過酷に生きる、くらいなら。殺すのが慈悲、と、あの人も、よく言って……いました」
意識は途切れかけているようだが。
周囲の者が絶命していく中で、彼女だけはクレインの元まで辿り着いた。
しかし、ただ死んでいないだけだ。
剣を振る力など、もう彼女には残されていない。
「殿下を、殺めて。クレイン様を、頼るしかなくて。頼りたくて、でも、」
「もういい。ブリュンヒルデ」
「殿下は、もう、いない。貴方だけが、私の……」
そう言って、ロクに力の入らない右手を持ち上げた。
至極、遅い。
そのまま振り下ろしたとして、刺さるかどうかすら怪しい動きだ。
「殿下へ、忠を尽くすなら。クレイン様を、殺し……殺さなければ、嫌、」
「ブリュンヒルデ」
彼女には、もう声が届いていないのだろう。
これは独白に近いものだったのかもしれない。
「……嫌です。殺したく、ない、です」
「止めろ」
「貴方まで失えば、私の、全てを」
うわ言を繰り返しながら、彼女はクレインの首筋に剣を添えた。
避けようと思えば間に合う。
斬られる義理は無い。
「殿下と、貴方が、私の……全てでした。居場所、を……」
ブリュンヒルデが王子への義理を果たすなら、クレインを殺さなくてはならない。
しかし王子亡き今。
クレインを殺せば。彼女が帰る場所はどこにもない。
彼女はそう思い、クレインもそれを察した。
しかし、彼には彼女が何を思い生きていたのか。
それが分からない。
生に執着しないどころか、死は「安息と救い」だと捉えている節がある。
それは何故だろう。
ピーターは、ブリュンヒルデが洗脳されていたと言っていた。
そんな話は、聞いたこともない。
王子と彼女の関係も、ただ王族と近衛騎士の関係だと思っていた。
「……冷静に考えたら、そうだよな。近衛騎士に、暗殺なんてやらせないか」
近衛騎士は、国で最も名誉ある仕事の一つだ。
王族の身辺警護を任されるのだから、普通の騎士がやる雑務ですらやらない。
書類仕事に手慣れていたところからして、おかしかったのだ。
ましてや暗殺のために地方の領地へ送られるなど、普通の近衛ならあり得ない。
何かが違っていたのだろう。
クレインはそんなことを。今まで共に過ごす間にも、想像だにしていなかった。
気に留めたことすら、ほとんどない。
「君の生い立ちを、聞いたことが無かったな」
ブリュンヒルデがどんな人物なのか。
実のところ、クレインはそれを知らない。
彼女に対しては、何をすれば殺されるのかの判断材料を求めて。
ただ、死を回避するための情報を集めていたに過ぎない。
「クレイン、様」
「いや、もう……いいんだ」
クレインはこれまでに、気が遠くなるほど。
何度も、何度も。
幾度となく殺されてきた。
しかしそれは、周囲の誰かがクレインを殺した方が得な場合だったり。
或いは、立場上殺す必要があったから殺されてきたのだ。
「裏切者に、死を!」
「殺せ! シグルーン卿!」
「それも殿下の、悲願ぞ」
だが、彼らはクレインに恨みを持って殺しにきた。
クレインを殺したくて、殺しにきたのだ。
嘆き、憎悪、苦しみ、怨嗟。
彼らから発される感情は、クレインへの恨みで満ちている。
「ころ、せ!」
「そいつを、殺せ!」
しかしクレインは、元は田舎貴族のご令息だ。
――殺したいほど憎まれること。それは数十回に及ぶ人生で初めての経験であり。
生まれてから初めて向けられる、純粋な悪意。
それは理不尽に殺されるよりも、不条理に殺されるよりも。
遥かに深く、彼の心を抉る。
「君も、疲れただろう」
「クレイン、様。私は……」
クレインは穏やかな領地で、何不自由なく育ってきた。
誰かと殺し合うことはもとより。
争いなど、彼は求めていない。
だが、どこの誰と手を組んでも。
敵は必ず現れる。
味方ですら、利益が無いなら己を害して、全てを奪おうとする。
ゴールはどこだ?
そんなものは分からない。
終わらない。
いつまでも敵を倒し続け、殺し続けなければいけない。
死んだとしても終わらない。
また生き返り、次の人生を歩むことになる。
まるで無間地獄だ。
悲しみも苦しみも終わらない、輪廻に囚われている。
そう考えれば、クレインの気力も失せてきた。
「……俺もだ。何だか、酷く疲れた」
ブリュンヒルデの手を止めるでもなく、避けるでもなく。
彼はただ、黙って刃を受け入れた。
これで、彼女に殺されるのは何度目だろうか。
頭の片隅でそんなことを思いながら、彼はゆっくりと崩れ落ちる。
「クレイン様!? 何を――!」
クレインの耳に、遠くからピーターの声が届く。
彼の行為が自殺としか見えずに、珍しく驚愕の表情をしていた。
「はは、本当に。少し、疲れたよ。恨まれるのって、辛いんだな」
せめて最後は、何の感慨も無く。
殺すことが救いを齎すことだと。
そう信じて疑わない、彼女の手で今回の生を終えようと思った。
「クレイン、様……」
しかし、寄り臥せ、傍らにいる彼女が向けた表情。
それはいつもの微笑みではなくて。
ただ悲痛な表情のまま、涙を流し。
クレインの死を、心から厭うものだった。
それが最後だ。
クレインの心を支えていたものが、軋んでいく音がした。
周囲の者どもは、死に絶えながらも歓喜に悶えている。
今やクレインはラグナ侯爵の仲間。
仇討ちが成功して、心の底から喜んでいた。
口を三日月のように曲げ、ケタケタと不気味な笑いを浮かべる、元配下たち。
元々は味方で、友好的な関係だったはずなのに。
発展する領地を共に眺めて、共に未来を夢見た仲間だったはずなのに。
どうしてこうなってしまったのか。
彼らを追い詰め、この狂気を生み出したのは己の判断だ。
政治的に。
安全保障的に。
侯爵家の側に付いた方が良いと思ったからそうした。
しかし、もう少し早い段階で彼らと話し合えていれば。
未来は変えられたはずだ。
「いや、もう。遅いか」
だが、全ては手遅れになった。
彼らに記憶が残らないとしても、クレインにはこの狂気じみた笑顔を忘れられそうにない。
クレイン・フォン・アースガルドという人間が死ぬことを、心から喜ぶ表情を。
そしてブリュンヒルデがどのような考えで生き、今、何を思うのか。
それもクレインには分からない。
彼女に関しても、もう少し気を配り。
深い関係性を築けていれば、何かが変えられたのかもしれないが。
いずれにせよ。いつもの通りに二週間ほど時を巻き戻し、策を練る必要はある。
素知らぬ顔をして領主会談に臨み、侯爵家に彼らの存在を伝えて一網打尽にするか。
それとも秘密裏に一人ずつ捕らえて、残党の情報を吐かせるか。
手ならいくつかあった。
しかし、どこをやり直せばいいのか。
それが彼には分からない。
状況はこれが最善だ。
王子の暗殺を回避して共闘関係を維持すれば、北候との同盟が組めず。それでは東からの軍勢を抑えられないのだ。
だから同盟を継続する以外の手は無いとしても。
そうであれば。
この場の全員が死ぬまで、彼は命を狙われ続ける。
仮に残党狩りをして、皆殺しを計画したところで何名かは生き残るかもしれない。
そもそも王子の信奉者は、ここにいる者が全てとは限らない。
いるかどうかも分からない暗殺者から、一生。
自分の知らない場所。暗闇から憎悪の目を向けられ続ける。
どこを、どう直せばいいのか。
誰にどう話して、どう行動すれば、この地獄から抜け出せるのか。
そんなもの、彼にはもう分からなかった。
「俺は、ただ。平和で、何事も無かったあの日に――戻りたい、だけなのに、な」
ただ一つ。
この狂気と怨嗟の地獄のただ中にあり。
薄れゆく意識の中で、彼は思う。
もう、こんなことは嫌だ。
王国歴502年10月12日
アースガルド子爵の死が引き金となり、王国を二分する争いは激化した。
主だった領地は焼け落ち。やがて王国は滅亡する。
そして滅びた領地の中には、アースガルド領も含まれていた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!