「あ、クレイン様! お帰りなさい!」
「ただいま、マリー」
玄関に入ってすぐマリーがいて、ドアを閉めると熱烈なハグをする。
結ばれて二年以上経っても、彼らは新婚家庭もかくやという熱愛っぷりだった。
「お風呂にします? 夕食にします? それとも」
「お風呂で」
「……はいはい、沸かしておきましたよ」
このやり取りも数十回と繰り返しているが。
稀にマリーを選ぶときがあるので、一応聞くことになっていた。
「そろそろ本格的に冬だからね。薪の用意をしないと」
滞在している別荘も豪華ではないが、風呂が付いた別荘だ。
既に時期は年末まできていたため、マリーが湯沸かしを担当しているのだが。
薪は暖炉にも使っているので、そろそろ買い足そうかと思うクレインへ向けて。マリーから手紙が手渡される。
「ああ、いえ。トムさんから手紙が来てましたよ」
「トム爺から?」
受け取って内容を見れば。
歳のせいで行商が辛いこと。
アースガルド領は何も変わりないこと。
もうすぐ迎えに行くこと。
そんなことが綴られていた。
届けにきたのがヘルモーズ商会と聞いて、懐かしい気分になったクレインだが。
「そうか……トムが迎えに来て、領地に帰った頃にはいい頃か」
「お迎えが来なければ、三年いっぱいに使いそうでしたもんね」
「正直に言えば、多少越えたかもしれない」
領地経営の義務から逃げる気がないとは言え。
遠隔地にいても統治はできるのだから、クレインの心もかなり揺れていた。
「まあ、一度戻らないと」
「そうだな。アイテール男爵に別れの挨拶をして……そうだ、ビクトール先生にも伝えておかないと」
「あの人も楽隠居になっちゃいましたし。急に授業が増えたら過労が心配ですねぇ」
クレインの受け持ち分までビクトールに戻すのだから、それは大変になるだろう。
それはそうだが、帰るのは約束だ。
「俺が教えること前提で、受入数が増えていたからな……。まあ、とりあえず明日挨拶に行ってくるよ」
ビクトールはまだ四十歳手前で、隠居には少し早いのだが。今では仕事が半分ほどになったので、悠々自適に釣りや詩歌などを楽しんでいた。
数年以内に塾を門弟に譲り旅に出るのが目標らしく。
クレインに継承する準備をしていたのだが、その話も一旦差し止める必要はある。
「そこから先の話はクラウスとも話して決めよう。俺も手紙を書くよ」
「分かりました。順調にいけば再来週くらいには来るそうなので、それまでにお願いしますね」
そう言いつつ夕食の用意に取り掛かったマリーの傍らで。
クレインは前々から用意していた、北候への手紙を取り出した。
「情勢が不安定で、寄親を求めている。多少の距離はあるが、南方への備えに当家を加えていただけないか……。これでいいよな」
その言葉を貴族らしく長ったらしい文章に変換して、既に書いてある。
今のクレインは十七歳になり、立派な大人だ。
きちんとした礼服を着て行けば、使者として認めてもらえるだろう。
「これが通らないはずもない」
詳しい戦況は情報封鎖にあっているとしても、西候との対立が激化していることは広く知られている。
この状況で東と南から攻め寄せられれば一大事だ。
少しでも味方を増やして、備えを固めておきたい。
侯爵家はそう判断すると確信していた。
「でも俺は……どうすればいいんだろうな」
問題は、これが通ったあとどうするかだ。
彼も本音で希望を言うなら、このままこの地に留まりたいと思っている。
ビクトールから塾を引き継いで、各界とのパイプを緩々と増やし。
子爵としての義務を最低限果たしながら、平穏に生きる。
彼がやりたいことはそうだ。
しかしまずは領地を守らなければいけない。
何にせよ、それだけはやる必要がある。
「まあ、まずは手紙を出してからだ」
望みと責務の間で揺れ動きながらも。
ひとまずは侯爵家と、どの程度の関係を結べるかで展開は変わってくる。
だからクレインも、一度問題から目を離し。
マリーが作った夕食を食べてすぐに、この日は就寝することにした。
◇
翌日、クラウスにも近々帰るという手紙を出し。
軽い荷造りをし。
ビクトールやアイテール男爵といった、世話になった者たちに挨拶をして回り。
門弟たちからは送別会の予定まで組まれた。
段取りを全て終えてから。
彼は侯爵家の本邸を訪ねて、傘下に入りたいという打診を届けにいった。
これで、彼が北の地で行う全てが終わったことになる。
そして侯爵家へ届けた手紙への返信は、その場ですぐに返ってきた。
返答を持ち、屋敷へ帰り。
自分の書斎で封を切ってみれば、返事はシンプルだった。
返答は、否。
アースガルド家を傘下に加えることはしない。
それだけ書かれた手紙が返っていきてた。
「な、なんでだ?」
それは全く予想だにしていない結果だ。
クレインは、この提案はほぼ確実に通ると思っていたから悩んでいた。
しかし侯爵家は「アースガルド家と友誼を結ぶ気は無い」と、はっきり拒絶の意向を示している。
「状況からしたら、あり得ないはずなのに」
西方との戦いは既に始まっており、前回の人生よりも多くの兵を南と東に割いていること。
それは事実としてある。
前世ほどの規模ではないとして、子爵領から三千の援軍を出せるのだ。
それを拒否する理由が分からず、クレインは混乱していた。
「一兵でも多く戦力が欲しいところだろうに。味方入りの打診を、この状況で撥ねつける……のか?」
ヨトゥン伯爵家の支援が無ければ、経済圏を築いていない分もロスしているし。
第一王子が暗殺されていない以上、対北候の勢力は中央で健在だ。
前世よりも状況は悪いはずなのだ。
だからクレインには、わけが分からない。
「それでも完全勝利する自信がある。そういうことなんだろうか」
しかしそうなれば、今回の計画は根本から崩れる。
友好関係にならなければ、数か月後には軍隊が送られてくるはずだ。
クレインが領地を離れていること。
元配下の何名かに、多少の援助をしてきたこと。
飢饉を避けたこと。
やったことはそれだけだった。
金庫の中身が多少増えたくらいで、根本的には何も変わっておらず。
このままでは初回の人生通りに事が進むだろう。
「どういう判断をしたらこうなるんだ……畜生」
しかしこの状況で、味方になりたい勢力を敢えて遠ざける意味も無いだろうと。
ラグナ侯爵の考えが読めず、クレインは自室で一人頭を抱えていた。
しかし、そうして唸ること五分ほど。
最初の人生とは位置関係が全く違うことに気づき、顔を上げる。
「待て、幸いにしてここは北候のお膝元だ。考えを知っていそうな人物……」
誰か北候の考えを知っていそうな人間に聞けばいい。
そう思い、選択肢を思い浮かべる。
この地に住んで長いというアイテール男爵か。
それとも侯爵家の文官とパイプがありそうなビクトールか。
彼の中で有力なのはこの二人だ。
「……ビクトール先生、かな」
いずれにせよツテはあるだろうが。
男爵が多少の社交をしているとして、どこまで深い関係かは未知数だ。
確実さを考えて、クレインはビクトールを選んだ。
「男爵が侯爵家と、どういう関わりを持っているのかは分からないからな」
ビクトールは私塾の門弟を侯爵家に推薦していることもあり、出入りは自由とも聞いていたし。
時折何かの式典にお呼ばれして、塾を任せていくこともあった。
「先生なら渡りを付けてくれるかもしれない。まずは動こう」
そうと決まれば話は早い。
時刻はまだ夕方なので、今から向かえばビクトールは起きているだろう。
そう思い、クレインは外套を摑んで一階へ駆け下りる。
「マリー、出かけてくるよ」
「あれ? 送別会は夜からじゃなかったです?」
「その前に、もう一度先生のところへ行ってくる」
予定よりも早い外出に、マリーは少し驚いていたが。
クレインはすぐに家を飛び出して、私塾へ向かった。
しかし私塾を訪ねても、留守だった。
クレインは到着してから二時間ほど待ってみたものの、帰って来る様子はない。
「戸締りをしているところを見れば、どこかで名士と食事会という可能性もあるな。どうするか」
クレインのように塾へ飛び入りしてくる方が珍しく、大抵は親が事前に話を付けにくるのだ。
今は年末で、来期の受け入れについての相談が多い時期でもある。
「捕まらないものは仕方がない、か。……そろそろ、生徒たちが送別会を開いてくれる時間だ」
トムがやって来るまでには、まだ十日くらいの時間がある。
まだ日数に余裕があるので、焦る時期ではない。
そう結論付けて。
彼は先ほど思い浮かべなかった、もう一つの選択肢を選ぶ。
「……仕方ない、まずは門弟の方から探りを入れよう」
名家の出身が多いだけあり、彼らの親は要職についている者も多い。
実家からクレインの生徒に、何かの情報が伝わっていないか。
賭けに近いとしても、今日できる動きはそれを調べるくらいだ。
十日後までに準備を整える。
そう決めて、彼は待ち合わせ場所の酒場へ向かった。
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