自分の領地にある食料を、根こそぎ焼き尽くした。
ここに集まった武将たちからすれば。
それはもう、狂気の沙汰に近い。
「子爵は、気が狂ったのか?」
「い、いえ。申し上げました通り、買い占められたのはあくまで民間の物です」
質問をした将も驚いたが、ヘルメス商会の男は首を横に振り。
少し俯きがちに、小さな声で続ける。
「子爵家の蔵には一週間分ほどの備蓄がある、という噂がございますが。……それよりも、その」
「どうした。早く言えッ!!」
動揺から語気を強めた将に対し。
ヘルメス商会の男は、全てを諦めたように白状する。
「ヨトゥン家に保管してある食料を大量に買い付けていたようです。ただ今、輸送中ですとか」
「何だと!? その情報は事前に手に入らなかったのか!」
若手の将がそう叫ぶが。
しかし、そこは完全にクレインが先手を打っている。
「それが……東へ物資を送るために人員が減り。今回の輸送も、ほとんどがスルーズ商会の担当でして」
ヨトゥン家とその契約を結んだのは。
縁談の話をしに来た南伯の懐刀と、クレインが一対一で話した時だ。
ヘルメス商会を排除して話が進んでいたことで、動きが分かりにくかったというのもあるが。
彼らは元々アースガルド家の動向の中で、主に軍事の動きを監視していた。
トレック率いるスルーズ商会など、ほぼノーマークだ。
会長であるトレックが砦に詰めていたくらいなので、本当に何の注意も払われていなかった。
しかし彼らは既に南伯領を出発した頃で、食料を各地に配る体制は構築できているらしい。
それを聞けば、何名かの武官は怒り始めた。
「だから南伯とアースガルド家の接近は厄介だと言ったのだ!」
ヨトゥン伯爵家とアースガルド子爵家の連携が無ければ、特段何の問題もなく攻め落とせただろう。
声を荒らげた武官が言っていることは、その通りなのだが。
「ここまで動きが早ければ、どうしようもないだろうが」
「去年の段階で横槍を入れられたと言っている!」
「結果論だよそれは!」
先行きの暗さから、言い争いに発展してしまった。
状況は、彼らが思っていたよりもかなり悪かったのだ。
アースガルド領の本拠地までは馬で一日。
確かに手が届くところにはある。
しかしこのまま攻め落としたところで、食料などほぼ無い。
略奪しても満足に手に入らない。
そもそも手持ちの食料が一日半分しか無いので、途中で飢える。
食料の消えた子爵領から、半日以内に三万五千人分の糧を得るなど不可能だった。
「ならば、敵の兵糧を略奪するのはどうだ! 軍需物資ならある程度の量が――」
「バカ言うな。奴らは蔵を燃やして、数日逃げ回れば勝ちなんだぞ」
民から略奪しても、すぐに食料は底を尽きる。
しかも負けると見れば、アースガルド側は残りの蔵も焼き払うだろう。
「ああ。二、三日分の飯を持って逃げられたら終わりだ」
「ぬぅ……」
彼らにはもう、追いかけっこをするような余裕は無い。
仮に本拠地の領都から半日逃げられた場合、その時点で東伯軍の食料はゼロだ。
彼らの後方から食料は届かず、破損した武具も交換できない。
しかし敵は数日も待てば補給が来る。
「輸送中の、商隊を襲うとか」
「領地の反対側がまで行く方法が、何かあると?」
なら補給線を襲うかと言っても、そこはアースガルド領とヨトゥン領の間。
子爵家を踏み越えて行くとして、五日はかかる道のりだ。
途中で攻撃を受けるなら更に時間がかかるし。
領内を無理に通れば、どこから攻撃が来るか分かったものではない。
仮に攻め滅ぼしたところで食料が手に入らず、どう足掻いても相討ちになる。
この状況を見た伯爵は数秒考えただけで――すぐに決断を下した。
「よし、撤退する」
「八方塞がりですからな。それがよろしいかと」
軍略に長けた伯爵は、今すぐアースガルド家を滅ぼすことは不可能と判断。
即座に撤退を決めた。
そして軍師もそれに賛同し、上層部では一瞬にして撤退の意向が固まる。
「ま、まだ何か、手はあるはずです」
「結論は、今暫しお待ちを!」
しかし武官たちはもちろん反対した。
諸戦で火計と伏兵を食らい、散々に負けたのだ。
ここで撤退しては完全な負け戦だと、継戦を訴えたが。
「後方の動きを知らなければ、このまま進んで全滅しているところだ。敵と戦わず、情報を持ち帰ることに専念した……補給部隊の隊長に恩賞を取らせる」
「なっ!?」
「そんな!」
任務に失敗した上に、逃げ帰って来た者が最大の功労者だ。
伯爵はそう宣言した。
その判断に唖然とする諸将の前で、彼は堂々と言い放つ。
「負けは負けだ。ここまで見事にしてやられて、食い下がる無様を晒すな」
言葉は強いが、顔には笑みを浮かべている。
晴れやかな表情のまま、伯爵は席を立った。
「下手に進めば全滅だぞ? 一度帰り、態勢を整えれば勝てるというのに。そんな危険を冒す理由がどこにある」
衝動的な戦を仕掛けたのに、何を言っているのか。
と、食ってかかりそうになった若手もいたが。
ここまで襲撃の準備が整っていたところを見ると、前々から戦うつもりではあったのだろう。
電撃の如き作戦を防ぎ切り、逆に攻め返してきた子爵家が上手だった。
ベテランの将たちはすぐに、そう諦めをつける。
「話は終わりだ。三十分以内に撤退の用意を終わらせろ」
ヴァナウート伯爵がそう宣言して、軍議は幕を閉じる。
各将が慌ただしく飛び出していく中で。
冷静なのは伯爵と、横に控える二人くらいのものだった。
◇
「さて、作戦に失敗したのであれば……ここからが大変ですな」
「そう言うな。中央では既に、面白いことになっているようだぞ?」
軍師と護衛の大男を伴って陣を出た伯爵は、愛馬に跨りながら西の空を見上げた。
三ヵ月をかけて築き、一夜にして燃えた砦。
そしてその道の先で、今も何らかの策を練っているであろう男がいる。
クレイン・フォン・アースガルドという人物が、どんな男かは知らないまでも。
顔を想像して伯爵は笑う。
「はっはっはっは! 口惜しい! いや、実に口惜しいぞ!」
確実に攻め滅ぼせる戦力を整えておきながら。
結果として、あっさりと撤退に追い込まれた。
いくら歳の差があるとはいえ、ヴァナウート伯爵家を差し置いてヨトゥン伯爵家と関係を結んだのだ。
やはり相当な人物だと認めつつ。
怒りを燃やしつつ。
――残念そうに彼は言う。
「子爵家を滅ぼした先に備えすぎて、転んでしまったな」
「格下を相手に十全の準備をして、密偵まで活用してのことです。油断はございませんでしたぞ、閣下」
「うむ。今回ばかりは相手が上手だ」
それでも賞賛に値する人物だと、伯爵も素直に認めた。
であれば兵を退くだけだ。
築いたのは簡易な陣地だったので、彼らは手回り品だけを持って帰ればいい。
よく観察すれば、遠くにアースガルド家の斥候も見える。
撤退と決めたのだから、即座に撤退しなければ追撃まで待っているだろう。
「迎え撃つ、か?」
「止めておけ。下手に時間を取られると、本国まで帰れるかも怪しいぞ」
「……承知」
一日半の食料で、少なくとも三日は駆けなければいけない。
もしも襲撃部隊の三千が完全な死兵なら、もっとだ。
騎士爵領の先まで焼かれている可能性もある。
飲まず食わずで走れば、脱落する者も出るだろう。
だから今すぐ、全力で撤退すること。
それが生き残る唯一の道だった。
補給部隊の隊長が部下を見捨てて逃げなければ、ヴァナウート伯爵軍は本当に全滅するところだ。
その意味でも、今回の戦いで最も活躍した人物は彼になる。
「くははッ。本当に口惜しいぞ、子爵!」
考えてみれば、これ以上の戦闘をする余力など無い。
考えれば考えるほどに、戦略で敗北していた。
彼の人生の中でも、珍しい出来事。
清々しいほどの大敗北だ。
「次は負けぬ――また会おうではないか!」
聞こえないと知りつつ、彼は西の空に宣言をして。
そのまま馬首を東へ向ける。
先頭に立つ伯爵は、陣羽織を翻しながら去り。
それに続き、伯爵軍も一斉に転進を始めた。
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