そして、数日の時が流れた。
いつもと変わらない長閑な風景。
穏やかな時間が流れる中で――その時が訪れた。
西へ送った見張りからは既に侯爵家の進軍が伝えられていたが、いよいよ本隊がアースガルド領の本拠地である、領都にまで迫ってきたのだ。
「クレイン様、あ、あれは敵軍では?」
「そうだな。……来たみたいだ」
退避の勧告に従わず、領内で生活している者はまだ多い。お膝元である領都では特にそうだった。
避難したのは暮らしていた者の二割ほどだろうか。
クレインの本拠地は、領地の東寄りにある。
子爵領の壊滅を命じられたランドルフは、全ての街や村を焼き払いながら進んできたのだろう。
目に見える範囲以上の死人が出ていることを、瞑目して思い浮かべていれば。
門の方から慌ただしい声が響いてきた。
「ご注進! こ、侯爵家の軍勢が現れました! 北からは小貴族たちの軍勢が接近中とのこと!」
クレインとクラウスが西の山に現れた軍勢を確認するのと、ほぼ同時に。
初回の人生と同じ態勢で、ハンスが転がり込んできた。
違う点があるとすれば、北と南にも見張りを出していた。
そして南からは何の報告も無いが、北側からは侵攻の動きがあると確認されている。
「数は?」
「総勢で四万ほどです! 西から三万、北から一万の兵が!」
王都方面からの三万。
そして北から小貴族連合に、侯爵家の寄子まで加えた一万。
敵軍の兵力は、最初の人生の見立てよりも少し多かった。
大慌てで飛んできたハンスからその報告を聞いて、クレインは考える。
未発見だった北の部隊を発見できただけで、数はそう変わらない。
「来るべき時が、来たか」
本来の歴史と変わらぬ動きが起きたことを確信し。
同時にクレインは、スタート地点に戻ってきたことを悟る。
すなわち、王国歴503年3月30日。
アースガルド子爵家が。
アースガルド領が滅亡する瞬間がやってきた。
「クレイン様、馬の用意ができております」
「ああ、それじゃあ脱出を――」
脱出の準備は整えてある。
自分が逃げ切る点は初回の人生と違う部分かと思うクレインだが、これから生き延びて、何があるかを見届けなければいけない。
だから彼は屋敷の東にある厩舎へ向かい、愛馬のスウェンに跨った。
しかしこれは本来の歴史通りだ。
「……ん?」
「どうされましたか、クレイン様」
そしてクラウスやハンス。先に避難させたマリーを除く使用人たちが、クレインと共に領地を脱出しようとする。
これもほぼ、本来の歴史通りだ。
「あれ?」
マリーと、彼女に付いて行った使用人が数名いないこと。
多少脱出の用意がいいこと。
この他には何も違うところはない。そのはずだった。
「では手筈通り。まずは北東の山へ向かい、脱出路を使いましょう」
「……あ、ああ」
ランドルフに追う気が無ければ、どこからでも逃げられる。
だから東へ向かう道順は完全にクラウス任せにしていたクレインだが、そうしたところ、本来の歴史と全く同じ逃げ方になった。
――だが、それは彼の記憶と矛盾する。
「いや、待てよ。それじゃあ」
「何を呆けておいでですか! 逃げると決めたなら、逃げなければ!」
ハンスがスウェンの胴を叩き、クレインの意志と関係なく動き始めたが。
逃走に使う獣道にも覚えがあった。
そこは初回の人生でも通った場所になる。
「裏手の山、避難通路へ向かう! 付いてきなさい!」
「急げ! 逃げ遅れたら死ぬぞ!」
先導するクラウスの案内で、一行は軍勢の反対側へ伸びる脱出路へ向かった。
これはどこの貴族家にもある、非常時に逃走するための秘密通路だ。
例えば小貴族連合の男爵家にも脱出用の隠し通路があったが。
二百年の歴史を持つ子爵家ならば、当然、全方向に逃げ道を用意してある。
「こちらです!」
「さあ、早く――あの、クレイン様?」
山の中腹ほどの位置にある洞穴から、東へ続く通路が掘られていた。
その通路は、人がすれ違うのがやっとという狭さであり。入り口も小さい。
隠し通路なので当たり前だが、すぐに発見される可能性は低いものだ。
地元の人間でも滅多に来ない場所に作られており、クレインも実際に来たのは初めてのはずだった。
しかし山から街の方角を振り返ったとき、彼は気づく。
「この光景は……知っている」
街中の人々が殺され、領地が焼かれる。
クレインが二度目の人生ですぐに思い出せたのは、断片的な滅亡の記憶だ。
しかしその光景と、角度に違和感がある。
クレインの記憶はどうだったのか。
軍勢が押し寄せて。街が破壊されて。
街に住む全ての人々が、殺されていくところが、覚えている最後だ。
砂嵐の向こうに見えるような、判然としない初回の風景。
それと照らせば、今までの認識には二つの矛盾がある。
「屋敷は高台にはない。街にいれば、見える人の数も知れている」
クレインの屋敷は大通りの目の前だ。
屋敷の背は高くないので、見晴らしはそれほど良くない。
平和で何事もなく暮らす人々の往来を、窓から眺めるくらいが精々だった。
仮に屋根の上から見ていたとしても、街が滅びていく様子はよく見えず。
ましてや領地全体が焼け落ちる姿など、街の中にいれば見えない。
「つまり俺は、脱出に成功していた……のか」
領地の滅亡と共に、己も死んだ。
その認識だった。
だが。断片的な記憶を辿れば、ここまでは本来の流れから何も外れていない。
脱出路を使うために山へ登り、街から木霊する悲鳴を聞き。
領地が滅びる様を一望した。
虐殺の風景を思い返して記憶と照らせば、何も違うところはない。
今よりも逃げるのが遅く、もう少し多くの人死にを見ていたとしても。これは本来の歴史通りだ。
「そうだ。ここからの景色は、知っている」
しかしクレインに、こんな逃走の記憶は無い。
領地が滅びた記憶が最後だった。
このまま行けば脱出に成功して、クレインたちは追手の知らない通路へ入れる。
ここまでくれば安全だ。
無事に逃げ切れる。
事実として。彼は侯爵家の軍勢に殺されることはなかった。
うろ覚えながらに、それは知っていたはずだ。
「それなら俺は……いつ、死んだ?」
侯爵家の軍勢から逃げ切ってからの記憶。
自分が初めて死亡した時の光景が、思い出せない。
本来の歴史と何も変わらない景色。
彼の持っていた認識。
そこに差異があった。
差異というよりは、記憶の欠落か。
彼は死んだと思った瞬間に過去へ戻ってはいたが、その瞬間がいつだったのかを思い出せないでいた。
しかし、少なくともここでは。
子爵領内では、クレインは命を落としていない。
「クレイン様、お急ぎを」
「あ、ああ」
後ろを走るハンスに叱咤されながら逃走するクレインは。
記憶と認識。
そして現実の違いに、ただ戸惑っていた。
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