歩き始めて三十分が経った頃。
小さな泉の脇に、開けた空間があった。
半径五十メートルほどに森が開かれ、そこにいくつかの墓石が置いてある。
「ここか」
「ええ。ここは王家の私有地です。滅多なことでは使われませんが――と、先方も来たようです」
墓の近くまで来たクレインが周囲を見渡せば。
南の方から二十名ほどの一団が歩いて来るのが見えた。
先頭に立っているのは。
クレインの部下としてアースガルド領に派遣されていた文官の男だ。
「ご無沙汰しております。子爵」
「ああ、久しぶりだな」
それは小貴族連合に引導を渡し、宰相への紹介状を書いた男。
彼以外の面々も二十名ほどいるが、半数はクレインの部下だった者たちだ。
そう、過去形だ。
彼らは国王の命令で派遣されていた。
しかし第一王子の周囲に居た人間であり。
クレインからすれば。彼らの忠義は今も王子に向いているように見えた。
「閣下」
そして、その中から。
クレインと最も関わり深かった女性が進み出てくる。
「生きていたんだな、ブリュンヒルデ」
「ええ。生き長らえてしまいました」
残念そうにそう言う彼女は。
クレインの記憶と何ら変わらず、優し気な微笑みを浮かべている。
彼女の死など想像もできなかったクレインだが。
実際に生きて目の前に現れれば、驚きの気持ちと「やはり」という気持ちが入り交じり、複雑な顔をした。
「殿下の遺臣たちを集めたのは、君か」
「いえ、私も誘いを受けてのことです」
そして話があるのは、彼女ではなかったらしい。
宰相への紹介状を書いた男。
クレインが以前屋敷を訪れた、文官の男が代表して切り出した。
「子爵。最近の動向は我々も聞き及んでおります」
「ラグナ侯爵家と手を組んだことを、か?」
「……はい」
彼は気まずそうな顔をしてから、クレインに向けて縋るような目を向ける。
「子爵は殿下と共に北候を退け。王国を守ると誓ったのでは、ないのですか」
顔を歪める彼がどういった意図で尋ねているのか。
それはクレインには分からない。
「違うな。殿下と交わした言葉は、そうじゃない」
「では、何と」
しかし。快いわけがないことだけは理解しつつ、彼は返答する。
「ラグナ侯爵家が拡張路線を続けるなら、アースガルド子爵領も危ないと思っていたんだ」
「……それで?」
「だから。殿下は殿下の目的のため、俺は領地のために共闘関係を結んだ」
ラグナ侯爵家を放っておけば子爵領もどうなるか分からず。
だからこそ第一王子と手を組むことにした。
今後のため、共に対策を練りたい。
それが全てであり。
国のため、大志のためなどという話は一切出ていなかった。
「そうだろ、ブリュンヒルデ」
「……はい、閣下。その通りです」
約定を交わした場には彼女も同席している。
クレインはあくまで領地を守りたいがために協力すると言い。
王子がそれを受け入れたからこその関係だった。
そこに嘘は無い。
実際に横で見ていたブリュンヒルデもそう言っている。
理屈の上ではそうだとして。
それでも、そんな言葉で遺臣たちは納得しなかった。
「しかし、これでは殿下が浮かばれません! 殿下の権威を利用するだけ利用して、用が済めば捨てるというのですか!」
「そうだ! そんなことが許せるか!」
それでも文官の男たちにとってみれば、クレインの行動は不義理でしかない。
そんなことはクレインも分かっていた。
しかし当時と今では全く状況が違う。
そう思い、クレインは冷静に返す。
「後ろ盾が無くなれば、別な勢力の傘下に入る。それが正しい領地持ちの貴族の在り方だ……違うか?」
「だからと言って、何故、北候を選ぶのですか」
「そうだ。同盟を組んだのが東伯や、東候であれば、我々とて……」
東伯からは今年、一方的な戦争を受けている。
しかも奇襲戦争で、戦後の講和もなし。
王宮から裁かれていなければ、今も戦う用意をしている。
もしも東伯と手を組んでいたら。
などと考えるのは、「そうなったら嬉しい」という妄想でしかなかった。
「東伯とは、殿下の下にいた頃から戦争の用意に入っていた。あり得ない仮定をするのは止めてくれ」
アースガルド家が裏切って北上すれば、北候は滅びる。
その可能性は非常に高いし、彼らが取れる現実的な仇討ちの方法はそれしかない。
彼らにとっての理想はクレインが北候を裏切り。
東伯、東候との関係を修復して、共に北を攻めることだ。
だから彼らも容易には退かない。
「私は東に縁故がある。仲裁してやろうではないか!」
「そうですよ子爵、今からでも遅くはありません」
騎士の一人がそう言えば、周りは揃って追従した。
だが、その提案は状況としてかなり無理がある。
東側勢力はもう兵力を集めているのだ。
早ければ来週か、遅くとも来月には攻めて来る見込みになっている。
「いや、もう遅いだろう」
仲裁の使者が間に合うことを祈り。
東伯、東候やその他勢力が話し合いに応じることを祈り。
妥協点を探り、同盟を締結する。
王都から東伯の本拠地までは二十日。
この段階になり、そんな動きが間に合うはずもなかった。
「それに、裏切った瞬間に北候が兵を向けて来る」
王子が死んでから何か月が経ったと思っているのか。
同盟を結んだ直後ならいざ知らず、既に決戦の準備に入っている。
ここに至りそんなことを言われても、クレインには無理としか言いようが無かった。
「やってみなければ分からないだろう!」
「賭けてみましょうよ。貴方とて不忠者の烙印を押されたくはないでしょう?」
好き勝手に言うのは、王都に居た者たちだ。
アースガルド領へ出向していた者たちは、ただ気まずそうな顔をして黙っている。
彼らとしてはもうクレインを引き込む以外の道が無いのだから、どんな無理筋だろうと押す。
だが、現実的には誰が見ても不可能だ。
まず裏切ったとして、北候は即座にアースガルド領へ兵を送るだろう。
次に南伯側は混乱して、援軍を送るどころではなくなる。
そもそも第一王子派の残党が提案したことに、東伯と東候が乗るとも思えない。
状況からすれば、裏切ることなど土台あり得ない話だった。
「北候は別に、うちの領地へ何かしたわけでもない。……だが、東伯は実際に奇襲をしてきた。これで手を切るなどあり得ないし、そちらの方が不義理だよ」
可能、不可能の話を抜きにしてもあり得ない。
クレインの心情としても、既に東と手を組もうとなどとは思っていないのだ。
確かに、クレインとしてもラグナ侯爵家に思うところはある。
領地を滅ぼされたのだから当たり前だろう。
しかし、一度だけだ。
侯爵家がクレインの領民を殺したのは、最初の一度のみ。
五十回も前の人生で経験したことであり、恨みなど既に風化しかかっていた。
「先に友誼を結んだのは、殿下の方でしょうに」
「大した被害も出ていないのだ。先の戦のことは水に流せ、子爵!」
そして遺臣たちとクレインの認識は、絶望的なほどすれ違っている。
街が燃え、逃げ惑う人々が殺されていく光景を何十回と再現されれば。
そこまで行けば、割り切ることは難しい。
東伯は、二十回もアースガルド領を破壊し、民を虐殺している。
確かに見えている分には、一度紛争を仕掛けて撃退された。ただそれだけだろう。
少なくとも今回の人生では。
だが、クレインにとってはもう、東伯こそが怨敵だ。
彼の中では北よりも、東の方が許せない存在になっていた。
「……戦いの恨みを水に流せと言うなら、殿下の恨みを水に流した方が早い」
「な、なんだと!?」
「貴様! 撤回しろ!」
状況が変わったから手を切った。
王子の死後に起こった変化だとはいえ、それがクレインに罪悪感を与えていたことは間違いない。
だからこそ。彼は今日、ここに来た。
「殿下がご存命なら、俺も北候と同盟を結ぼうなどとは思わなかっただろうな」
憤慨した様子の遺臣たちから目線を切り。
現実を確かめるように。クレインは目前の墓石を撫でて、呟く。
「だが、君たちが忠義を尽そうとしている人は――この墓石の下で、眠っている」
性も家名も刻まれていない墓石。
ただ、「アレス」とだけ刻まれた墓石に祈りを捧げて、クレインは上を向く。
「もういないんだ。未来のことだけを、考えていかなきゃいけないんだよ」
次の戦いは勝てる。
その算段がついた。
恐らく、王子を助けに戻ることはない。
彼らもクレインを仇討ちに参加させようとするだけで、死因や謀略のことなど語ろうともしてない。
いや、情勢が見えていなさ過ぎる。
この有様では、有益な情報など持っているわけがない。
ならば、これで終わりだ。
王子の死にどんな遺恨や陰謀があろうと関係ない。
全てを過去にして、封印する。
そう決めて。クレインはこのまま進むという決断に、納得しようとしていた。
「だからこそです。殿下を弔うためには、北候の首を取らなければならない!」
「……弔い合戦。なるほど、ピーターが言うところの、義というやつか」
それが生前の、彼の望みだった。
その悲願を達成して、侯爵の首を墓前に添える。
それは今や、彼らの願いであり。
崩れかけた心の寄る辺でもあった。
なるほど、ピーターが亡霊と言うわけだ。
今の彼らは死んだ王子の幻影を追いかけ。
悲願を果たすためならば、どんな犠牲も厭わない者たちだ。
こうなった以上、彼らと和解する道は無い。
「ああ、お前たちは憂国の士で忠義の遺臣だよ。そこまで真っ直ぐな生き様ができることは尊敬するし、羨ましくもある」
彼らは家を捨ててでも、名誉を捨ててでも。
忠義のために散る覚悟があるのだろう。
いや、或いは忠義のために命を落とすこと。
それこそが名誉であり、実益など顧みないのかもしれない。
しかしクレインは。
彼らが語る忠義を、真正面から否定した。
「だが俺には、失いたくないものがある。仇を討ち、自分がすっきりするためだけに――守るべきものを全て危険に晒すような博打は、打てない」
愛すべき人がいて。
付いて来る者たちがいて。
守るべき領地があり。
守るべき人々がいる。
それらは、侯爵家との同盟関係があって初めて救うことができる。
現実を見れば。
ここでクレインが北候と敵対の道を選ぶことは、絶対にあり得なかった。
「子爵、考え直してください!」
「……もう一度、言う」
現実がそうだと知っていても。
主君が目指した理想を実現したい者たち。
現実がそうなら。
現実に即した生存戦略を立てる者。
クレインには元々、王子との間にそこまでの親交は無い。
だから比べるべくもない。
両者の主張は、最後まで交わることはなかった。
「俺が守りたいものは。アレス王子への義理立てと引き換えにはできない」
「それが、貴方の答えですか」
彼らの助力でアースガルド領の発展は早まった。
一時期とは言え、共に働いた仲間でもある。
クレインとしても、できることなら関係を修復したいとは思っていた。
だが、彼らは王子への忠義を果たすために。
北候を殺すためだけに生きる、亡者へとなり下がったのだ。
だからもう、クレインが掛ける言葉は分かれの台詞しかない。
「……そうだ。俺は平穏な未来を掴み取る。それだけを考えて、進むよ」
クレインは仇討ちに賛同せず。
ラグナ侯爵家との同盟を維持すると決めた。
「これが平和な未来を勝ち取るための、唯一の道だ」
彼がそう言えば、遺臣たちも諦めて。
――そして、クレインの横に立つ男に向けて言う。
「……ピーター殿。アースガルド子爵は我らと袂を分かった」
「かくなる上は、子爵から始末するしかない!」
第一王子勢力の残党が、北候の首を狙っている。
同盟を維持すると宣言したクレインがその話を知っていれば、残党狩りが本格化するだろう。
なるほど、ピーターを抱き込んで話を付け。
味方に戻るつもりがなければ、この場で殺す気だったのか。
そう理解したクレインの横で。
「ふむ、やはりこうなりました――か。茶番ですな」
ピーターは、片刃剣の鯉口を切った。
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