「クレイン先生、この農業政策は何故失敗したのですか?」
「地域の特性を考えないで、南方のやり方を真似ようとしたからだよ」
「具体的に、どのような特性でしょうか」
この塾で優秀なところを見せれば、文官として侯爵家に推薦されるとだけあり。
今期に受け持った二十名の生徒たちは誰もが熱心だったのだが。
「南は気候が穏やかで、土壌も豊かなところが多い。しかも平地ばかりだ」
教鞭を取ること二年。
すっかり慣れたクレインは、生徒からの質問にさらりと答える。
「なるほど。北は気候が激しく、土壌が痩せていて……しかも山がち」
「ああ、見事に真逆なのは分かると思う」
アースガルド領の土壌や気候は悪くないが、山が多い。
気候は安定している方だとしても、北方の農業失敗談は自分の領地にかなりの部分で当てはまるので。
実際に政策を間近で見てきた彼は、熟練農家のような風格で答えていく。
「そもそも起伏が激しい土地を開墾するなら、水を引き入れるだけで一仕事になる」
特に食料が足りていない北部地域は、湿地や沼地が多い上に起伏の激しい土地が結構ある。
そのため最新式農具が揃うまでは開拓、開墾の難易度が高かった。
だから語尾に「大変だったなあれは」とでも付きそうなくらいに。
彼は遠い目をしながら答える。
「治水ですか」
「それは、確かに」
水路の工事は意外と大仕事で、侯爵家も何十年と改善に取り組んでいる。
だからランドルフのような者も簡単に仕事が得られるのだが。
治水に成功するだけで、歴史書に名が遺せるレベルの偉業でもあった。
そんなことを念頭に置いて、クレインは言う。
「農業に限らず、治水というのは統治をする上で永遠のテーマだよ」
「水のことは考えてなかったな……」
「穀物のことだけ考えても、意味はありませんか」
川を整備しなければ大雨で洪水が起きて作物がダメになるどころか。人的、経済的にも痛手が出る。
大きな水源が無い場所で人が増えれば、飲み水が不足するという問題もあるし。
戦争を考えても都市に籠城した時の水確保は命題だ。
「今ある農地を見ても川沿いばかりじゃないか。無理に内陸へ開こうとしても、失敗に終わる可能性が高いよ」
諸々を考えると、北部は水のことから考え始める必要があった。
「土壌の改良は……肥料しかありませんか?」
「ああ、この辺だと鶏糞が主か。一定の効果は出ているし、下手に変えるべきじゃないと思うけどね」
そんなことを語りつつ。あまり深く突っ込まれると、説明し切れるか分からないので。
彼はそろそろ話の矛先を変えることにした。
「新しい肥料を試したいなら実験農地を作って、小規模な検証を繰り返すべきかな」
「しかしそれでは、改良がいつになるか」
「例えば君の実家で二、三年やってみて。何種類かの肥料、その比較例を上手くまとめ上げたら……高評価だと思うけど」
実験して、比較データを取り。
それを元に侯爵家の地方代官として、現地で指揮を執りたい。
仕えたあとにやりたい仕事を明確にし。そこまで具体的な準備を整えていれば、採用の確率は上がる。
結果ではなく、研究を行う勤勉さの方を評価されることもあるのだ。
「何か一つで決まるわけではないけど、それも加点要素の一つかな」
仕官は別に一発勝負ではない。
毎年情報を積み上げていけば、勤勉さが認められての拾い上げもあり得る。
そう聞けば。それも手段の一つかと、何名かの生徒が真剣な顔つきになった。
実家の力を使い、何とかして就活の材料を増やそうと真剣に検討している。
「では先生、軍事の質問ですが」
「あはは……今、農業政策の授業なんだけど。それ関連なら」
一応ビクトールが定めたカリキュラムがあるとして。
生徒たちは自分が興味のある分野を聞きたがるし、クレインも全て答えている。
勉強で手に入る物は基礎知識。
現実とすり合わせることが大事。
そう語りつつも、クレインが語るものは実体験だ。
経済はもちろん、戦争の話までやたらと具体的に語れる。
そうして話をあちこちに飛ばしながら。
何はともあれ、現場で有益な知識を授けていくのが彼の教育方針だった。
◇
「お、授業は終わりかな?」
「ええ。今日もつつがなく」
「それは結構。……ああ、魚を焼いたんだけど、食べるかい?」
クレインが先生の仕事を始めて二年の歳月が流れた。
つまり今は王国歴502年の、9月まできている。
月日が経つにつれて、クレインが授業をする時間も増えていき。今ではビクトールと半々くらいの時間で教壇に立っていた。
もう武官の教練でも文官の指導でも、全く問題ないレベルには仕上がったと言えるだろう。
「何も無ければ、夕食は家でと決めていますから」
「ああ、あの可愛らしい奥さんか」
「……まだ籍は入れていないですけどね」
ここでの生活に慣れ、平穏無事な毎日を送り。
今では悪夢もすっかり見なくなっている。
静養期間。心を回復させるという目的は完全に達した一方で。
彼は、今までに起きた前世までのこと。悲惨な事件の連続も、どこか遠い夢のように感じていた。
その平和の象徴がマリーとの家庭であるが。
「実家に帰ると、怖いお爺さんがいるんだったかな」
「ええ、主家の執事長です」
いくら領地が田舎気質と言っても、メイドの一人を正妻にすれば議論はある。
特にクラウスだ。
とんでもないお小言をいただくのは目に見えている。
ここまで来たら責任を取って、結婚しなければとは思う一方で。
そろそろ子爵領に帰ろうかと思いつつ、中々踏ん切りがつかないでいた。
そして、その話を聞いたビクトールはと言えば。
魚の串焼きを持ったまま苦笑していた。
「主家のか。その設定はもういいと思うんだけど、ね」
「今さら設定を変えるのも何でしょう?」
「自ら言ってはお終いだよ」
クレインが貴族家に仕える側近の家の者。
という設定は既に意味を成していなかった。
貴族との関わりが深いビクトールには、入門の当初から貴族家の子弟だと見抜かれていたし。
しかもクレインは、アイテール男爵と親し気にしている。
貴族なことを隠す意味は無いとして、彼らはこの曖昧な関係を楽しんでいた。
「ま、謎の説得力を持った講義をする、若先生がいると評判なんだ。君が望むならこの塾を譲るのもやぶさかではないよ」
「そういう人生も、アリかもしれませんね」
完全に居ついてしまったし。先日はアイテール男爵からも、格安でいいから屋敷を正式に買い取らないかと打診があった。
一緒に楽隠居をしないかという誘いだ。
子爵領をクラウスか、次代の代官に任せて。
この北の街で、幼馴染と結ばれて幸せな家庭を築く。
そんな未来に手が届くところまで来ていた。
今までの人生を考えれば、見たこともないほど幸せな人生を歩めている。
その自覚はあるとしても、まだ今回の人生で果たすべき仕事は残っていた。
「ですが、やることはやらないと」
「真面目だねぇ。まあ、いざとなったら裏技があることは知っておいてよ」
「裏技と言うと……」
クレインがそう聞けば、ビクトールは口角を上げる。
その意味は何か、考えればすぐに分かることだ。
「ああ、ここで役人や代官を育てろと?」
「うん、正解だ」
北候は実力主義で、既に侯爵家へ仕えている家の子息であっても採用されない場合がある。
最もいい仕官先が侯爵家というだけで、実際に召し抱えられるのは三人に一人ほどだろうか。
商人になる者がいれば、他の家に就職を決める者もいる。
「三人もいれば君の代わりになるだろうし。後継ぎさえできれば、貴族の義務は果たしたと見ていいと思うけど、ね」
侯爵家への仕官に失敗した者たちの中から、有能な者を領地へ送り。
彼らに代官をさせれば安泰という技があった。
「先生」
「失敬。貴族の側近としての義務だね。側近としての」
領地の運営さえ上手くいっていれば、王宮は何も言わない。
小貴族連合のような存在でさえ許されているのだから、アースガルド子爵家がお家取り潰しになることは無いだろう。
虐殺さえ防げば、それで初期目標は完遂できるのかもしれない。
クレインが死なず。
領民たちも死なず。
領地は滅びず。
誰もが幸せに過ごせる未来。
既にそれは目の前にある。
前世で雇った者たちの将来。
そして前世で結ばれた人との関係だけを諦めれば、初期目標に手が届く。
その未来が訪れたときに、どう選択をすればいいのか。
選ぶ時期は、もうすぐそこまで迫っている。
「ま、ゆっくり結論を出せばいいさ。少し身体でも動かそうか」
悩める弟子を見てどう思ったのか。
ビクトールは口元の髭をさすってから、庭先に置いてあった木刀を二本取り出した。
「剣術ですか?」
「ああ。時間もあることだし、少し稽古をしよう」
ビクトールは高名な武人の何名かから、免許皆伝を言い渡されている。
私塾の先生になる前は、暇潰しで色々と修練をしてきたらしい。
その指導を受けてきたクレインも、そこそこできるようにはなっているのだが。
しかし、一流の武人から二年。
折に触れて特訓されているというのに、クレインの腕はそこそこ止まりだ。
「クレイン君の弱点は、貧弱さだからね」
「はは、自覚はあります」
戦いのセンスは無いと自覚しつつ、凡将を倒せるくらいの腕前にはなった。
もうハンスでは相手にならないだろう。
「恐怖心なく剣を振るえるのは強みだけど、防御が疎かになりがちだからなぁ」
「……気を付けます」
死んだとして多少巻き戻るだけなのだから、常在戦場の気持ちで訓練はできていた。
それでこの実力止まりなら、本格的に剣の才能は無いという現実も見えたが。
より大きな収穫と言えば知識面での成果だ。教育の経験も含めて、色々と吸収できるものはあった。
二年間の師事を経て、それなりの実りはあったのだ。
「……残りの期間は、あとどれくらいあるだろう」
時期は、滅亡の時期に近づいてきている。
だから彼は、今後の選択をどうするかに目を向け始めていた。
しかし全ての選択肢が意味を為さなくなったのは。
これから更に三ヵ月後のことだった。
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