「逃げるって、何から」
クレインがそう聞き返せば。
マリーは少しおどけた様子で答える。
「領主としての重圧から。お貴族様の義務から。あとは……何でしょうね。まあ、誰も知らない土地へ、二人きりの逃避行というのもロマンチックです」
陰謀を仕掛けてくる勢力と一切関わらず、ただ時を待っているのだから。
逃げるというなら、今が逃げを打っている状態に近い。
しかしここで逃げたいと言えば、彼女だけはどこまでも付いて来てくれるだろう。
それが分かるからこそ、クレインも迷う。
「駆け落ちってやつか」
「そうです。物語みたいでしょう?」
本来の人生であと一年や二年が経てば、そのまま結ばれていたかもしれない。
元々、彼女との間に恋愛感情はあった。
これだけ辛い思いをしてきたのだから。
一回くらい、幼馴染の彼女と二人で添い遂げて。
幸せに一生を終えて、その次の人生で領民を救う道もある。
「何もかも忘れて、逃げる……か」
己に過去をやり直せる力がある以上。
どこまで行っても、いつになっても手遅れということはない。
一度くらい。
その考えが頭を過ったのは事実だが。
しかしクレインは、その考えを打ち消した。
「それはそれで、幸せに暮らせそうだ。本当に、心から思うよ」
「でも、そうしないんですよね?」
微笑むマリーを前にして、何となく手玉に取られているような感覚になったクレインだが。
全てを投げ払ってでも守りたかったものを置いて、逃げる。
彼にはその選択肢が選べなかった。
それでは、今までに払ってきた犠牲に不義理と思ったからだ。
そこに筋を通すこと。
前回の人生で彼の配下が言った言葉は、この状況でこそ使われるべきだった。
「ああ。それが俺の、義というやつだろうから」
初回の人生から、ずっとだ。
無為に殺されることがあれば、戦いに付き合わせて死なせた領民たちも数知れない。
今までの数十回を思い返せば。
毎回、何らかの犠牲を払ってきた。
「逃げるにせよ、全部……やり切ってからだ」
今も逃げる途上にいるのかもしれないが。
初回と同じように、何も特別な手を打たないまま過ごし。
北候の傘下入りだけに挑戦してみる。
それを試している最中だと思えば、確実に前には進んでいた。
平和な未来への道があると確認し。
心に余裕を持ってから、最良の未来に挑んでもいい。
まだ全てを投げ出したわけではない。
そう整理ができれば、彼の迷いもいくらかは消える。
「義務というか、今ではそれが……俺のやりたいことなんだ」
「それって、貴族じゃなければできないことですか?」
「ああ、そうだ」
犠牲にしてきた者たちに報いること。
殺されてきた領民たちを、太平の未来に連れて行くこと。
死んだことを、例えクレインしか覚えていなくとも。
そこを曲げることは彼の矜持が許さなかった。
そして裏事情を知らないマリーからすれば、彼が何を決意しているのかを知らない。
ただ、彼に逃げる意思が無いと確認できただけだ。
「頑張りますねぇ」
「なるべく頑張らずに、やり切りたい」
遠回りであっても、例え失敗しても構わない。
あらゆる手を試すと決めた。
それは宰相への宣言通りでもある。
しかし彼の性根は怠け者だ。
二度寝や昼寝は好きだし。元は上昇志向など無い、田舎の領主でしかない。
今の状態は、久方ぶりに見せる素のクレインだった。
そんな彼を見てマリーは、やれやれと言った様子で呆れている。
「ぐうたらで寝坊助さんなところだけは、相変わらずですか。……今のはちょっと格好良かったのに」
今までの人生で見聞きしたこと。
体験したこと。
考えてきたこと。
自分や誰かの、発言と行動。
全ての経験が彼の新しい価値観を作り。今、また新しい人生を歩んでいる。
それに引きずられ過ぎて、思考がマイナスに陥りがちだったが。
マリーからの口づけで頭が真っ白になり。
空っぽの頭で色々考えてみれば、整理はついたらしい。
「恰好をつけ損ねたかな」
「いいですよ。私は別に、カッコいいクレイン様なんて求めてないですし」
「なら、どういう俺だったらいいんだ?」
先ほどよりも少し余裕のある表情でクレインが聞けば。
マリーはクレインの横に腰かけると。顔を、にへらと緩めながら言う。
「そのままでいいですよ」
変わらなければ生き残れないと思っていた。
だから変われるように努力をしてきた。
しかし彼女は、変わらないままのクレインでいいと言う。
その顔が何だか愛しくなり。
クレインは横に座るマリーの頭を撫でて、手で髪を梳く。
「ねぇ、クレイン様。ベッドに腰かける女の子の髪に触れるのが、どういう意味を持つのか……知ってますよね?」
「ん? そうだな」
撫でられているマリーは頬を染めながら聞くが。
これが恋愛的な親愛表現の一つであることは、クレインも知っている。
「まったく。さっきまで真剣に悩んでいたと思えば、急に口説くんですから」
「何も言っていないけど」
「言う前に行動してますからね」
初回の人生では二年後くらいに、同じようなことが起きていた。
しかしその時はお互いに怖気づき、それ以上には発展していない。
それでも、今回は違う。
「行動って言うなら、こういうことだろ?」
「あっ、もう……。責任は取ってもらいますよ」
「それは取るさ」
本日何度目かの呆れ顔を見せるマリーだが、これは照れ隠しだ。
クレインもそう判断して、仰向けに寝転んだ彼女の顔を覗き込む。
「まあ、意外と義理堅いクレイン様の性格を考えれば、領主の立場から逃げるわけないと思ってましたけどね」
アストリに対する浮気になるかとも思うクレインだが、彼女は浮気に対して特に思うところは無いらしい。
マリーを第二夫人にしても、仲良くやっていけるだろう。
本人もマリーなら歓迎すると言っていたし、お願いしてみようか。
などと。
このままでは結ばれることが無いと知りつつ、言い訳を探している自分に気づき。
彼女に関しては全く吹っ切れていないなと自覚しながら。
それでも、決して裏切らず。
自分のことを考えてくれて。
献身的に支えてくれる女性が目の前にいる。
「こういうことは、いけないと思うんだけどな」
「今さらですよ。ここで逃げたら一生チキン野郎と罵ってあげます」
「それは勘弁してくれ」
クレインは自分が精神的に、かなり不安定な状況にあることは自覚があった。
違う道を試すと言いつつ。
前の人生で起きた事件のことばかり考えていた。
このまま平和が訪れたらどうするという考えよりも、前の人生でどうしていたらよかったのか。
そればかりを考えて月日は流れていたのだ。
しかしこのやり取りで、いくらかは吹っ切れている。
クレインに記憶が残り続ける以上、無かったことにはできないとしても。
マリーから見れば少しは顔色が晴れたように見えていた。
彼女は仰向けに倒れたまま。
少し照れた様子で、クレインの頭を撫で返して言う。
「……ええと。たまにはこうやって甘やかして、現実から逃がしてあげますので」
彼女の目にはクレインしか見えていない。
彼の前には、クレインという一人の人間を見ている者がいる。
自分のことを心から心配して。
自分のことだけを考えて、愛してくれる女性がいるのだから。
「だから……ね? こうしている間は、私のことだけ考えてください」
今、彼女のこと以外に意識を向けるのは。それはそれで誠実ではない。
内心でそんな言い訳をしながら。
前の人生でのトラウマを忘れることはできないにしても。
クレインは、今の人生を生きることを考え始めた。
過去に払った犠牲と。
不義理と。
失敗の数々から目を背けることになるかもしれないが。
今だけは何も考えないようにして。
今度はクレインの方から、口を重ねにいった。
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