クレインは子爵家のお坊ちゃんだ。
子どもの頃から何不自由なく暮らし、穏やかな田舎街で過ごしてきた。
都会や世界を知らなかった、世間知らずのご令息でしかない。
それは彼自身もそう思っているし、ヘルメス商会の調べでも大した情報はない。
父親から領地を引き継いで安穏と日々を送り。
気まぐれに育てた北方作物で飢饉を回避し。
何気なく調べた山からは銀が出た。
苦境にいる第一王子に上手いこと取り入って権力を手にし、人生の全てが成功している。
挫折など、一度も味わったことのないボンボン。
それがジャン・ヘルメスから、クレイン・フォン・アースガルドへの評価だ。
今までの経歴を全て洗っても、それ以外の情報は出てこないだろう。
しかし、実際はまるで違う。
「ナメんなよ、妖怪ジジイが」
「な、何を……!?」
殺されていく領民たちの断末魔を聞き。
一方的に虐殺される無念を味わい。
理不尽に攻め滅ぼされる屈辱を受け。
陰謀に巻き込まれて、何度も、何度でも殺されてきた。
死線の数々を飛び越えてきた今の彼は。
例え相手が、金の力で幾多の人間を破滅させてきた怪物だとしても退きはしない。
殺される以上のことが無ければ、何を恐れることがある。と、何ら怯えてはいなかった。
右手でヘルメスの頭をテーブルに押し付けたまま、右耳が上に来るように顔を動かして。
露わになった顔面に向け、クレインは出された紅茶をぶっかける。
「口でそんなことを言いながらも、今度はこれに毒が入っているかもしれない」
「ご、ごはっ!? ごぼぼっ!?」
カップの中身が空になるまで、淹れたてで、湯気が立っている液体が降り注ぎ。
己の手に跳ねる熱も気にせず、ヘルメスの顔に火傷を創っていく。
中身が空になるとクレインはカップを放り投げて、陶器が砕ける音が小さく響いた。
「や、やめ……ぐぼはっ!?」
突然の暴力に対して、くぐもった声の悲鳴を上げるヘルメスを強引に引き起こすと。
クレインは腹に思いっきり前蹴りをして、床に転がしていく。
「なあ、言ったよな? 商人にとって一番大切なものは信用だと」
「そ、それが、なんだと……!」
「信用を失った貴様に、掛ける情けなど無い。商人の流儀に従って死ね」
そして、クレインは腰の剣を抜く。
ハンスたちは部屋の入口付近に立っており、そちらには命令を出そうともしていない。
これは脅しでも何でもなく。
彼は己の手で斬り捨てるつもりで、刃を翳した。
「ヘルメス商会は色々と厄介だからな。お前を始末した後に、家探しさせてもらおう」
「ふざけるなよ小僧ッ! 貴様如きが、儂をどうこうできると思うなッ!!」
歳を感じさせない覇気が含まれた声に、衛兵たちは委縮した。
簡単に言うと、迫力にビビっている。
だが、声だけで人は殺せないのだ。だからクレインは全く動じなかった。
大声で脅されることが怖い?
そんな段階は、とうの昔に通り過ぎている。
死ななければ、どうということもないし。
死んだところで、どうということもない。
そして、頭で煮えたぎる制御不能の激情を前に。
剣を抜いたクレインは、冷静に考えていた。
この老人が黒幕とは言え――彼自身に、そこまでの悪感情を感じる部分はあっただろうか?
例えばブリュンヒルデ・フォン・シグルーンは何度も己を殺してきた。
正直なところを言えば苦手だ。
しかし一緒に仕事ができるくらいの折り合いはついている。
ドミニク・サーガはブリュンヒルデと並ぶほどに、己を何度も殺害した。
しかし彼の境遇には同情を覚えて、何か命を助ける道は無いかと思案もした。
「考えても……分からないことかもしれないが。この不快な気持ちはなんだろうな」
そこいくと、ジャン・ヘルメスという人間は、ただ殺害を唆しただけだ。
ブリュンヒルデに殺害を命じてきた第一王子と同じ位置にいるとも言える。
第一王子にそこまでの恨みがあるか? と自問しても。ベッドの上で枕に八つ当たりすれば晴れる程度の怒りしかない。
何故、自分はこんなに荒れているのか。
どうせリセットができるのだし、荒事でも構わないと考えた時から――タガが外れたのだろうか。
短い時間の中で色々と考えを巡らせたが、答えは出ない。
「まあいい、有言実行だ。……くたばれクソ野郎が」
「何をしている! 早く助けろ!」
クレインが剣を振り上げた瞬間――応接室のドアが激しく、しかし音も無く開かれた。
室内に飛び込んできた人影は、そこまで大きくない。
長い金糸のような髪を燭台の光に反射させて、一瞬、流星のような煌めきが走る。
クレインの目で追えたのはシルエットだけだ。
「ブリュンヒル――!?」
猛将が戦場を進撃する時に、「無人の野を行く」という表現がある。
障害物など無いかのように、敵を一瞬で蹴散らして進んでいく様を現す言葉だ。
「あっ!?」
「ぐあっ!!」
「ク、クレインさ――がッ!?」
今の彼女を表現する時に、これほど相応しい表現も無かった。
一歩目で一人目の歩哨の首筋を切り裂き。
二歩目で二人目の歩哨の首を刎ね飛ばし。
三歩目で、応戦しようとしたハンスの喉を貫く。
駆け抜けるついでに首を貫いていくブリュンヒルデは、一切速度を緩めないままにクレインの元へ辿り着き。
ヘルメスに振り下ろされた剣を跳ね上げながら、返す刀でクレインの胴を薙いだ。
「が、は……ッ!?」
「申し訳ありません、閣下。今はまだ、王国にヘルメス商会の力が必要なのです」
申し訳ない。
と言いつつも、彼女はあっさりとクレインを斬った。
眉が数ミリほど下がっているので、いくらかは申し訳なく思っているのだろうし。いくらかの情も湧いたのだろうが。
それだけだ。
結果としてはいつも通り。
クレインは血だまりを作って、ブリュンヒルデの前に倒れている。
「……いずれは要らなくなる、というような口ぶりだな。小娘」
「言葉の綾ですよ、御大。……ああ、いけない。苦しませてしまいましたね」
死に際であっても、クレインは冷静に状況を考える。
王子も、ブリュンヒルデも。ヘルメス商会が暗殺に一枚噛んでいること――もっと言えば、ラグナ侯爵家と裏で繋がっていることを知っているようだ。
裏で敵だと思っても、表では友好的な勢力として扱っている。
だからこそアースガルド領で活動してほしいという要望を出せたし、ヘルメス商会も応えたのだ。
敵だと承知の上で、まだ、取り除くだけの力が足りない。
今は動けない。
動ける時期ではない。
「大丈夫です。すぐに、楽になりますから」
国政にも関わるほどの商会を今すぐに取り除けば、内乱の粛清で力を失った王国は、更に力を失うことになる。
そうなればこの国は、歯止めが効かないほど凋落するかもしれない。
荒れ果ててボロボロの国を引き継いでも、そんなものはすぐに崩れる砂上の楼閣だ。
王子も、そんな事態は望んでいないのだろう。
命を失う寸前だというのに、平然と計算を続けている己の思考に気づいて。
ああ、やはりタガが外れているなと、クレインは己の思考に呆れ果てた。
「閣下、残念です。あの方もきっと……こんなことは望んでいませんでした」
少なくとも、感情の制御すらできていない自分には無理だったが。
第一王子。どこまでも冷静で冷徹そうな彼ならば。
この男から見返りを貰いつつ、上手にコントロールができるのだろうか。
そんな疑問を持ちながら、クレインの意識は途絶える。
王国歴500年8月22日。
この日領主が病死して、アースガルド家の歴史は終わりを告げた。
アースガルド領は後に王家の直轄地となるものの。動乱の中で、ヴァナウート伯爵家に滅ぼされることになる。
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