考えてみれば妙な話だ。
今までクレインは、自分は義務感から領民を守りたいものと思っていた。
しかし、その責務だけで数十回も殺され。
なお心が折れないものか。
「南に向かった者も、南伯が始末してくださるのでしょう?」
「ああ、領地の境目で殺すように言い含めておいた」
どうしてこんな辛い思いをしてまで、輪廻を繰り返したのか。
何をしても報われず。
味方だった者に憎悪をぶつけられ。
周囲は敵ばかり。
それも国が誇る大勢力ばかり。
どこをどう動かしても、生き残るための勝ち筋は見えなかった。
最後は上手くいきそうだったが、一生暗殺者に狙われる道だ。
それでも今回の静養期間を経て、彼はまた立ち上がろうとしていた。
それは何故か。
どれだけ忘れようとしても、例え記憶から消されていようとも。
心のどこかでは覚えていたからだ。
「こんな呪法に頼るとは私も落ちぶれたものですが……ええ、ヘルメスの言う通り。試すだけならタダですからね」
己の家臣を。
愛した人を。
故郷を。
彼を慕う領民たちを。
その全てを犠牲にした者たちが、良心に何らの呵責も覚えていないこと。
何一つ、悪びれる様子がないこと。
「さて、起動はできたようですが……伝承通りだとすれば。下賤な血を触媒にしても、戻れるのは二、三年ほどでしょうか」
「二年あれば十分。儂らの目的は果たせる」
今も平然と生贄を足蹴にし、術を発動させようとしている場面を見て。
彼は思い出す。
ここに至り、失われていた記憶の全てが蘇り。
己の原点を思い出した。
「呪文が魂に定着するまでの間、おおむね半年ほどは意識の混濁があるそうですが。――まあ、大した障害でもないでしょうからね」
「成功するまで、ただ繰り返せば良いからな。……それが本物ならば」
やり直しを始めた当初は、あらゆる記憶が飛びがちになっていたこと。
トラウマの封印が上手くいったのも、この副作用が上手く働いた結果だった。
クレインも一時期、己の記憶力が急激に落ちたことを疑問に思っていたが。それは術が身体と馴染んでいなかったが故のことだ。
始まりの記憶を失っていた理由の全てに、納得ができた。
しかし今の彼にとって、そんなことはどうでもいい。
もう、封印する必要が無いからだ。
「疑り深いお方ですね。ただの与太話を、王家の秘伝として扱うわけがありません」
「酔狂で記録を残す変人もいると聞くが……。いずれにせよ、すぐに分かることだ」
東候はある程度信用を置いているが、東伯は欠片も信じていない。
その意見が出るたびにヒリついた空気が流れるところを見れば、まったくの一枚岩では無いと見えた。
しかし誰がどのような思惑を持っているか。彼にとっては、それすらどうでもいい。
この記憶を取り戻した彼が、何をするか。
この光景を見た彼が、どう行動するか。
全ては本来の歴史通りだ。
「しかし、西候も意外と頼りない」
「その点については、我が配下の不甲斐なさもございます故」
西侯と、東侯の配下にある貴族家で挟み撃ちをさせても、北侯は健在だった。
それは王家の支援があることも大きいが。
そんな裏事情も、今は置いておく。
今の彼は、ヘルメスに向けた感情とは比較にならないほどの激情を胸に抱き。気絶させた兵士から剣を奪い取ると、足が赴くままに中庭を抜けて食堂のドアを開けた。
回り道をしたのは、窓から入れば彼女までの距離が遠いからだ。
「王は都から落ち延びる姫を、アースガルド領で捕えようとしたようですな」
「ええ、それで随分足止めされたものですが。移動経路も変えてみて……ん?」
「どうされました、姫様――」
ヘイムダルとヘルメスは、正面から乗り込んで来たクレインを見て固まり。
二人は言い訳をしようかと、手を伸ばしかけた。
「し、子爵、あの、これは……」
「ほっほ。これはまた……どうしたものか」
しかし足元で彼の家臣が死んでいるところを見られては、まともな交渉などできるはずがない。
だからすぐに、穏便な説得は諦める。
「……子爵、立場は分かっておろうな?」
「こうなったのには、その。事情がありましてな。子爵領での反乱を成功させれば、このことも恩賞に含まれるはずだから……い、一度落ち着いてほしい。でないと、なっ?」
ヘルメスは、不穏な動きをすれば殺すと脅し。
ヘイムダルは怪しい儀式のために人を殺した気まずさからか、言い淀みながら飴をチラつかせる。
だが、その二人はクレインの視界に入っていない。
「……マリー」
二度目の人生で目覚めた直後。
彼女が何者かに殺害される映像が頭に浮かんでいた。
街中で、兵士から無差別に虐殺される絵ではない。
それは今の光景と、寸分の違いなく重なる。
違いがあるとすれば、今の彼女は彼の子どもを身籠っていた。
その点だけだろうか。
「あら、この使用人はお手付きでしたか?」
「ひぇひぇ。それは悪いことをしたかの。……まあ気にするな。女ならいくらでも宛がってやる。もっと上玉をな」
小首を傾げて、可愛らしく聞くアクリュース。
マリーよりもいい女を用意してやると上機嫌で笑うヘルメス。
彼女たちは、人の心が分からないわけではない。
力と権力で全てをねじ伏せることができたため、人の心を考える必要が無くなっていただけだ。
目の前にいる人物が今、彼女らに対してどのような気持ちを抱いているのか。
それを考えることすら、必要無いと思っている。
「……ふぅむ?」
「子爵。このようなやり方は好かんが、生き残りたければ考えることだ」
「さ、さあ子爵。賢明な判断を!」
クレインの様子がおかしい。
そこに気づいた東候は値踏みするような目を向け、東伯は腰の剣を抜いた。
ヘイムダルは東伯の陰に隠れたが、彼は最初から最後まで眼中に無い。
「贄が必要でしたら、最初から教えてくだされば良かった」
王女の方を向いて、少し俯きながら。
クレインはゆっくりと呟く。
「貴方が、用意してくれたと?」
「必要な人間がいましたので。……死ぬなら、不要な者だけで良かった」
燭台の光は、当たり加減が悪い。
だから王女の位置からはクレインの顔が見えないとしても、その表情は無感動に見えていた。
「家臣を殺された程度では、動じませんか」
「それくらいの損得勘定はできるようですな。……まあ、使い道はあるでしょう」
「そ、そうです子爵。それが利口な行いですぞ?」
ヘイムダル男爵は身の危険を感じて本能的に後ずさったが、これは本能の話だ。
殺されていった者たち。
守れなかった己のふがいなさ。
そして何より。目の前に立つ、薄ら笑いを浮かべた女の顔。
その女に下卑た顔をして追従する者たち。
殺しておいて、何の関心も持たない者たち。
それらを前にしてクレインが抱いた感情は、あらゆる動物が生まれながらにして持つ、本能から生まれ出ずるものだった。
「ええ、そうです。この世に不要な人間から、死ぬべきだ」
そう言って、クレインは兵士から奪い取った剣を抜き。
迷わず、王女を殺しにかかる。
「――やらせん」
東伯が横合いから剣でクレインを突き、彼の胸からは明らかに致死量の血が溢れ出した。
しかし、その程度では止まらない。
歴戦の武人が放った一撃でも、既に痛みなど感じていない。
彼は感情のままに、アクリュースの首筋へ剣を叩きつけにいく。
「チッ……死兵、か」
東伯はクレインの胸に突き立てた剣を押し、その攻撃を空振りさせようとしたが、最初から死ぬつもりで仕掛けたクレインは強引に剣を振り切った。
そして王女の首を落とすことは叶わないまでも、その首筋を浅く切り裂くことには成功する。
「え? きゃあ!?」
「姫様ッ!」
直撃とは言わないが、首筋に剣が掠ったのだ。
殴られたことすらない王女は、床の上を転げてから呆然としていた。
「血? わ、私、の……?」
「な、何をバカなことを!」
「医者を呼べ! 止血するんだ!」
王女は深手でもない。精々が服の首回りに、赤い染みを作る程度だ。
床まで流れることすらない。
しかし初回の人生では、王女まで剣は届かなかった。
剣術の研鑽に励み、二年半の修練を積んだこと。
その時間は無駄ではなかったと噛みしめながら、クレインは膝をつく。
「復讐のつもりか。こんなことをして、何の得がある!」
ヘルメスは焦りで声を荒らげるが、それで動じる段階など、何十回も前の人生で既に通り過ぎている。
「思い、出したからな」
「何を……この、気狂いがぁ!」
ヘルメスはクレインの肩を足蹴にして踏みつけたが、もう痛みは感じていない。
それは死に際ということもあるが、精神的な理由の方が大きかった。
自分を突き動かしていたものは領地を失ったことに対する、悲しみではない。
民が命を失ったことへの哀れみでもない。
ましてや嘆きでなど、あるはずがない。
「……ふざけるなよ」
その身を焦がす激情。それは全ての動物が当たり前に持つ、本能。
怒りの感情。
頭で忘れていようと、心が覚えていたもの。
それこそが、これまでクレインを動かしてきた原動力だ。
「……もう、二度と。諦めるものか」
全てを思い出した彼は、決意する。
幾度の人生を生きようと、幾度となく死のうと。必ず生きて、最上の未来を掴み取ると。
「こんな、理不尽が。許されて……たまるか」
平穏な未来を勝ち取るだけでは足りない。
身勝手な理由で数多の人々を不幸に陥れた悪漢どもに、必ずや報いを受けさせてやると。
「絶対に……。何が、あろうと」
彼は己に、今まで犠牲にしてきた全ての者に誓う。
そして、憤怒。ただ怒りの感情を胸に灯し、この場の全員を睨みつけた。
「一人残らず。俺が、必ず――――!」
剣を取り落とし、力尽きる寸前に彼は叫ぶ。
断末魔とはまた違う、獣の如き咆哮だ。
目を見開き、食い殺さんばかりの視線をヘルメスに向けた。
「ひっ!」
クレインは微かに涙を浮かべているが、悲しみによるものではない。
怒りの涙、そして咆哮。
尋常でない様子のクレインを見て、流石のヘルメスもたじろいだ。
しかしそれを見た東伯は真顔のまま、クレインの頭上に剣を掲げる。
「仇討ちのために命を落とすか。……嫌いではないがな」
「な、何を悠長な! さあ、トドメを!」
焦ったようにヘルメスが急かすと、東伯は刃を振り上げた。
しかし王女を押し退けて、クレインが今いる場所は、どこか。
気づいた王女がその動きを止めるのは、間に合わなかった。
「い、いけません、そこで殺しては――!」
刃が振り下ろされ、クレインの命は尽きる。
しかし。彼が死んだ場所は、初回の人生と変わらず魔法陣の上だ。
既に王女が垂らした少々の血など、クレインが流した致死量の血で塗り替えられた。
たとえ東伯に斬り捨てられて、刃が届かずとも。
初回の人生で、刺し違えてでも王女を殺す決意をしなければ、何も変えられなかった。
クレインにこの術がかかることもなく、彼の歴史はここで終わっていただろう。
だが――王女が自分に掛けたかった術は、既にクレインへ掛かっている。
彼は使命を果たすまで、何度斃れようと蘇る。
戻るは王国歴500年4月1日。
折れていた心は既に癒えている。
消えていた情熱には再び火が灯った。
生き残るだけでは、足りない。
胸を焦がす灼熱の想いを抱き、彼は再び立ち上がる。
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